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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第12話 名前を呼ばれない別れ

準備は、驚くほど淡々と進んだ。


「数日のうちに動く」


そう告げられたのは、翌朝のことだった。エルヴィス・アルドレインは執務机に向かったまま、書類から目を離さずに言った。声に抑揚はなく、そこに感情を読み取ろうとすること自体が間違いのように思えた。


「行き先は、中立地域。王国寄りだが、帝国の影響も及ぶ場所だ」


セラは黙って聞いていた。聞くしかなかった。


「身分を問われることは少ない。名も、今のままでいい」


――今のままで。


それは、偽名を使い続けろ、という意味でもあり、

本名を名乗る必要がない、という意味でもあった。


「護送は付ける。最低限だが」


その言葉に、胸の奥がわずかに反応した。最低限。あの森で学んだ言葉だ。


「……承知しました」


自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


それからの時間は、現実感が薄かった。仕事はいつも通り続いた。書類に目を通し、必要な補足をまとめ、エルヴィスの指示に従う。最後だから、という言葉は、どこにも出てこない。


それが、この人らしかった。


昼過ぎ、執務室の扉が開いたままになっていることに気づく。外の廊下が、やけに静かだ。使用人たちの足音が、遠巻きに避けていくように聞こえる。


――知られている。


私が、ここを去ることを。


視線を落とし、最後の書類に目を通す。誤字はない。数字も合っている。付箋を一枚貼り、静かに机に置いた。


「……以上です」


セラがそう言うと、エルヴィスは短く頷いた。


「確認する」


それだけ。


別れの言葉は、なかった。


夕方、荷物をまとめるため部屋へ戻る。来た時と同じように、少ない。増えたのは、紙と記憶だけだ。


窓辺に立ち、帝国の空を見上げる。星の並びは、もう見慣れていた。見慣れてしまったことが、少し怖い。


ノックの音がする。


「……どうぞ」


入ってきたのは、初日に身支度を手伝ってくれた侍女だった。手には小さな包みがある。


「旅の途中で、必要になるかと」


中には、簡素な外套と、乾いた保存食。それだけだ。


「ありがとうございます」


「……お気をつけて」


侍女は深く頭を下げ、何も言わずに去っていった。


夜。屋敷の中庭に、馬車が用意された。灯りは最小限。見送る者も、ほとんどいない。


エルヴィスは、すでにそこにいた。


外套を纏い、いつものように無駄のない立ち姿。セラは数歩手前で立ち止まり、深く頭を下げた。


「これまでのご配慮、感謝いたします」


形式的な言葉。けれど、嘘ではない。


「君は、よくやった」


それは、初めて聞く、過去形の評価だった。


胸の奥が、きゅっと縮む。


「中立地域に着けば、こちらからの関与は減る」


エルヴィスは淡々と続ける。


「問題が起きれば、連絡は取れる。だが――」


一拍、間があった。


「私から、君を呼び戻すことはない」


はっきりとした線引き。


セラは、頷いた。


「理解しています」


理解している。

それでも、心が追いついていないだけだ。


馬車の扉が開く。護衛が、無言で促す。


セラは一歩、踏み出した。


その瞬間、ふと、思ってしまう。


――この人は、私をどう呼んでいたのだろう。


セラ。

それとも、ただの「君」。


振り返る勇気はなかった。振り返れば、何かを期待してしまう気がした。


馬車に乗り込み、座席に腰を下ろす。扉が閉まり、外の音が遮断される。


馬車が動き出す。


ゆっくりと、しかし確実に、帝国公爵邸から離れていく。


――結局。


名前を、呼ばれなかった。


本名も、偽名も。

個人としてではなく、役割として、最後まで扱われた。


それが、この別れの本質だった。


だが。


揺れる車内で、セラは目を閉じ、静かに息を吸った。


泣かなかった。

取り乱さなかった。


代わりに、胸の奥に、硬い決意のようなものが残っている。


役割がなくても、

居場所が与えられなくても、

私は、生き延びる。


次に誰かに名を呼ばれるときは、

自分で、その名を選ぶ。


馬車は夜の道を進み、帝国の灯りはやがて見えなくなった。


本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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