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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第10話 仮の滞在者

その日は、朝から空気が違っていた。


執務室に入ると、いつも整然としている机の上に、見慣れない書類が積まれていた。封蝋はまだ割られていない。帝国中央からの正式文書――そう判断できる重みがあった。


エルヴィス・アルドレインは、すでに席に着いていたが、セラが入ってきても視線を上げなかった。


「……おはようございます」


いつも通りの挨拶。


「座れ」


短い返事。


その声音に、微かな緊張が混じっている気がして、セラの指先がわずかに強張った。


仕事は、午前中ほとんど進まなかった。


書類の内容は複雑ではない。だが、エルヴィスの指示が少ない。必要最低限の確認だけが淡々と続き、会話は途切れがちだった。


――何か、決まったのだ。


そう直感する。


昼前、エルヴィスはペンを置き、セラに視線を向けた。


「話がある」


心臓が一拍、遅れて鳴った。


「はい」


執務室の扉が閉められる。いつもは半開きのままなのに、その日は違った。その事実が、言葉より先に意味を伝えてくる。


「中央から、通達が来た」


エルヴィスは封を切り、書類を一枚取り出す。


「国境付近の情勢が動く。視察の頻度を上げる必要がある」


それは、公爵としての仕事の話だ。だが、そこにセラの名は出てこない。


「それに伴い、屋敷の人員配置も見直す」


――来た。


「君の立場についても、整理する時期だ」


その言葉に、胸の奥が冷たくなる。


「君は、ここでよく働いた」


事実として述べられる評価。


「だが、改めて言っておく」


エルヴィスは、はっきりとセラを見た。


「君は、この屋敷の一員ではない」


空気が、ぴたりと止まった。


「保護対象でも、客人でもない。あくまで、一時的な滞在者だ」


一語一語が、丁寧に、逃げ場のない形で告げられる。


「帝国に身を置く意思を示さない以上、長期的な立場は与えられない」


それは、責めではない。確認だ。


セラは、すぐに理解した。


ここで築いたものは、すべて“仮”だったのだと。


「……分かっています」


声が、思ったよりも落ち着いていた。


「君が役に立たなくなった、という意味ではない」


エルヴィスは続ける。


「だが、情勢が動けば、優先順位は変わる」


――守る優先順位。


あの森で、学んだ言葉が、胸の奥で再び疼いた。


「近いうちに、君を王国寄りの中立地域へ移す可能性がある」


移す。

つまり、ここから離れる。


「準備はしておけ」


それだけ言って、エルヴィスは視線を戻した。


話は終わりだ、という合図。


セラは立ち上がり、一礼した。


「……ご配慮、ありがとうございます」


その言葉が正しいのか、自分でも分からなかった。


執務室を出ると、廊下がやけに長く感じられた。足音が響く。壁に掛けられた装飾が、今日はやけに遠い。


部屋に戻ると、荷物は相変わらず少なかった。


来た時と、ほとんど変わらない。


――そう。私は、何も持っていない。


ここで得たのは、役割と、安堵と、少しの錯覚だけだ。


ベッドに腰掛け、両手を見つめる。


ここで過ごした日々が、頭の中をよぎる。執務室の空気。書類の匂い。エルヴィスの低い声。


――私は、この場所を「居場所」だと思い始めていた。


それが、どれほど危険なことだったか。


夕方、廊下ですれ違った侍女が、いつもより深く頭を下げた。


「……何か?」


「いえ。お身体にお気をつけください」


その言葉が、別れの前触れのように聞こえて、胸がきゅっと縮む。


夜、窓辺に立ち、帝国の夜空を見上げる。


星は変わらず、冷たく、遠い。


「……滞在者、か」


小さく呟く。


ここに留まる理由はない。

だが、去る覚悟も、まだできていない。


それでも、現実は待ってくれない。


仮の居場所。

仮の役割。

仮の安定。


すべてが、終わりに向かって静かに動き始めている。


セラは、胸の奥に広がる不安を抱えたまま、目を閉じた。


この場所を失ったとき、自分は何者になれるのか。


――それを考える時が、近づいていた。

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