花少年
十四年も前のこと、三十歳の父、寺井幸太郎は自宅の絵画教室で先生をしていたそうだ。父は当時を振り返るといつも「花少年」の話をする。
ある朝、その少年は両足を机に乗せて漫画雑誌を読んでいた。大らかな昔の時代でも、かなり大胆な小学生であったろう。
私が生まれてあまりにも嬉しかった父は、叱るでもなく少年に声をかけた。
「先週の金曜に娘が生まれたんだ。名前はさくらにしたよ。どうだい?」と笑いかけると「ふうん」と少年は静かに足をおろした。
「今日は外へ出よう。自由に描いていい。街でも自転車でも花でもいいから、好きなようにやってみろ」と言ったら、少年は熱心に花を描き始めた。それがあまりにも鮮やかで綺麗だったので、父はとても感動したそうだ。
「君は花が好きなのかい?」と聞くと、少年は黙ってうなずいた。
父が驚いたのは、少年が「俺、花屋になろうかな」と話したので「そうか、やってみろ。頑張れよ」と応援した。
その後しばらくして、母方のお爺さんから父は出産のお祝いとお説教をされた。「絵描きで妻子を養っていけるのか?」と。
絵はそんなに高く売れないし、子供相手の絵画教室なんて僅かな収入しかない。稼がなければならない父は、絵描きを止めて家庭を守ると決心した。
でも絵を描くことに未練があった父は、壁塗りから看板デザインまでもこなす、多才なペンキ屋になったそうだ。そういう風に私は聞いている。
三田秀二は高校を卒業してから五年間、花屋でアルバイトをしてお金を貯め、自分のお店をオープンした。式場などのパーティがメインの花屋で、これなら駅前一等地でなくても、小さいお店でも良かった。
あるお届け先の帰り道で、外装工事中のペンキ屋さんに出会った。なんと絵画教室の恩人、寺井先生である。
「先生」と声をかけて挨拶し、名刺を交換した。自分の肩書に「花屋店主」とあるのが、秘かな自慢であった。
寺井先生はすでに絵を止めてペンキ屋をしていた。さらに昔の赤ちゃんは、もう中学生になったとの話だ。
あの日から、もうそんなに経ったのかと思った。
翌日の夕方、さくらは父から聞いた花屋さんに行ってみた。ちょうど母の誕生日なので、感謝の心を込めて花を贈ろうと思う。
小さな名刺の表には「フラワー三田 店主 三田秀二」の肩書と連絡先が書いてある。その裏にある地図を見て花屋さんを探した。
あの噂の「花少年」が今どんな青年なのだろうかと、かなり興味があった。
路地裏の小さなビルにその花屋さんはあった。開いたガラスドアから見える店内では、切り花が色鮮やかに咲いている。
さくらがドキドキしながら、そっとお店に入ると甘い花の香りがして「いらっしゃい」と何やら作業をしていたお兄さんが、こちらを振り返った。
元「花少年」だろう。笑顔の爽やかなジーンズ姿の好青年で、立ち上がるとエプロンがよく似合っていた。
「あのー、父に聞いて来ました、寺井です」そう言って会釈すると、「ああ、先生の娘さんだね。どうしたの?」と聞かれた。やっぱり名刺の三田さんに間違いない。
「今日は母の誕生日なんです。父と相談して花を贈ろうかなーと。それで買いに来ました」
「ありがとうございます。それでは、ご予算とお母さんの好きな花を教えて下さい」
さくらは考えたが、母の一番好きな花が何だか判らない。
「よく判りませんが、この位の花束を」と両手を二十センチくらいに広げた。
「じゃあ、お任せでいい? 大サービスしちゃうよ」
言葉通りの茶目っ気ある笑顔だ。
「はい、お願いします」
三田さんは店内の花を見渡した後、「よし」と赤いチューリップをひと抱え取り出した。手際よくラッピングしてくれる。
「チューリップの花言葉はね、『博愛』って言います。今日は愛情もプラスして増量大サービスさせていただきます」
「あ、ありがとうございます」
軽い冗談を聞きながらレジが打たれて、チューリップの花束を受取った。結構大きい。
「えっ、千円でいいんですか?」
「恩人である先生の娘さんだもの。いいって、いいって」
三田さんは、なぜか照れて笑った。きっと昔のことを思い出していたのだろう。
「ありがとうございます」
三田さんに感謝のお金を払って帰宅した。
早速、母にチューリップの花束を渡すと、とても喜んでくれた。
青いガラスの花瓶に、そっと生けた赤いチューリップは、鮮やかでとても可愛かった。
夕食にはケーキも加わり、乾杯で酔った父がいつもの昔話を始めた。
今日はさくらも加わって、あの「花少年」が立派な三田青年になっていた話で盛り上がった。
父娘の楽しい会話を聞いていた母は「今度はお母さんも買いに行くわ」と笑って参加した。