父の形見
杉本敬。32歳。勇紀の怪訝そうな表情には納得がいかなかった。服を選んでいる時は忘れていたが、帰りのバスに揺られながら小さな怒りが何度も蘇ってくる。
その度に自分が財布を落として誰かに届けてもらった時は、今日の出来事を反面教師にして快く受け取ろうと固く胸に刻んだ。
「聞いてくれよ。3日前に財布拾ったから届けに行ったらさ、すげー不機嫌そうに受け取りやがったんだよ。すぐ届けなかったからなのはわかるけどさ、普通は喜んで受け取るよな?」
「え?杉本さん。それ交番に届けたんですよね?」
「いや相手の家に持ってったんだよ」
「それ間違ってるの杉本さんですよ。知らない人に財布の中を見られたら気持ち悪いじゃないですか」
職場の後輩に間違いを指摘されたことで、埋もれていた違和感が無意識の隙間から顔を出す。夏場のガソリンスタンドは喉の渇きが尋常じゃない。
退勤後は従業員同士で缶コーヒーを飲みながら一服してから帰るのが通例だった。この日は後輩に財布の一件を話してから、他の従業員にもダメ出しをされ続けたことでコーヒーを飲む気分にはなれなかった。
自分が奇妙な行動をとってしまったことは何となく理解できたが、善行をおこなったことには変わりないため腑に落ちない。
不貞腐れながら近くのコンビニに寄って飲み物を買うことにした。ここには過去に投げやりな接客をされて以降は入店したことがない。
相変わらず挨拶は聞こえてこない。3年前にはなかったセルフレジが導入されている。さっさと用件を済ませて店を出ようとした時。2人は再会を果たす。先に気づいたのは勇紀のほうだった。
「あ!ありがとうございました」
勇紀から見た敬は怒ったようにうなずいている様子だった。敬の深層心理としては、財布の件で感謝をされたのか店員として挨拶をしただけなのか、わからない人間に成り切ろうとしていた。
少なくとも怒っているように見られたかったわけではない。もう自分の奇行に目を向けたくなかったし、相手を責めることもしたくなかった。店を出た瞬間に財布の件で感謝をされたのかもしれないと思うようになる。
帰りの自転車を漕ぐスピードは普段より早かった。買った缶コーヒーの存在は完全に頭から抜けている。30メートルほど進んだところで後ろを振り返って、冷たい態度をとったことに罪悪感を抱きそうになる。
すぐに前を向いて思い直した。職場の外で横柄な態度をとった相手が、自分の店に来たから手のひら返しをしただけ。本当の意味で感謝したわけではない。やはり冷たい態度をとって正解だった。翌日。
「聞いてくれよ。昨日の帰りにコンビニに寄ったら、例の財布の持ち主が働いてたんだよ」
あまりの偶然に周りは大笑い。この日は退勤後に全員でコーヒーを飲んだ。今なら勇紀に会っても笑って話せると思った敬は、今までずっと立ち寄らなかったコンビニに2日連続で入ることになる。
そこにいたのは3年前に接客態度の悪かった従業員だけ。意図的に会いに来た時にかぎって休んでいる。よりによって代わりにいたのが接客態度の悪いあの店員。神様が勇紀のことを許すべきではないと言っているかのようだった。
家に帰ってサランラップにくるまれた冷やし中華を食べる。夜ご飯のためだけに冷やし中華を作る頻度が少ないことから、昼ご飯の残りということがわかった。父の雅志は皿洗いをしている。
数日後。この日は曇りで外が少し肌寒かった。玄関先に建つマンションから出てきた住人の心情も同じように見えた。庭に生えた木の隙間からはスズメの鳴き声が聞こえてくる。晴天の日より元気がないように感じたのは、視覚的に明るい朝ではなかったからだ。
自転車置き場の雰囲気も、1日の始まりとして絶好とはいえないものだった。白黒映画の世界に入り込んだよう。整髪料とリップクリームと財布が入っているカバンをカゴに入れる。サドルを持っている手に力が入る前には気持ちが切り替わっていた。
天気で仕事内容を想像するようになったのは約2年前。曇りの日は洗車が少ない。最近の中では楽な労働になることが予想される。何年もの間ずっと同じ道から出勤していたが、勇紀と再会した後はコンビニの前ではなく後ろを通るようになった。
財布を拾ったのは数メートル先の細道を入ったあたり。朝方の天気が良い日でも薄暗い。ここを朝7時前に通る人は他にほとんどいない。
数分後。所長の車が目に入る。事務所は暗い。いつも通り周囲の掃除をしている音が聞こえる。電気をつけて着替えているところに、所長が来て挨拶を交わす流れは不変的。
予想通り昼休憩までの間に洗車をしたのは1台だけ。休憩後に太陽が顔を出し始めたことで、洗車が増えたのは予想外だった。さらに予想外だったのはバイクに乗った勇紀がガソリンを入れに来たことだ。
「オライ、オライ、オライ。はいオッケーです!いらっしゃいませ!あ…」
「あ…ここで働いてたんですか!偶然ですね!財布ありがとうございました」
立場逆転。職場の外で風変わりな行動に出た自分が不利な状況。心なしか動きが早くなる。従業員としてマニュアル通りの会話をしている間に呼吸を整えた。沈黙に居心地の悪さを感じていたのは敬だけ。
頭の中は財布を届けに行った時と、コンビニで遭遇した時のシーンでいっぱいだった。天気の話をして流れを変えるので精一杯。そんな敬の様子に勇紀は気がついていた。
「あの財布の中には父の形見が入ってたんで助かりました」
目頭が熱くなった理由はわからない。他人の不幸に心が動かされたのか。このタイミングで自分のプライバシーな部分を話してくれたのが嬉しかったのか。後者の可能性が高いと思ったのは、全てを許してもらえた感覚に包まれたからだ。
バイクを走らせてコンビニへ忘れ物を取りに行っている間に少し頭をひねった。たまたま会って気まずそうにしていたのも、ガソリンスタンドの店員としての立ち振る舞いも一般的。
ただ財布を届ける方法のみが異常な男。奇妙でしかなかったのは最初だけで、徐々に好奇心の対象になっている。