死神主義
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二十一時過ぎ。
ネットの海へとリリースしてやる小説の構成について考えを巡らせながら、塾からの帰り道をてくてく歩いていた。とっかかりもひらめきもないものだから思いついた単語やシチュエーションを数珠つなぎにしたり切り貼りしたりしてかたちにしようと試みる。――よろしくない。最近、これといった成果が、自身の思考回路から生み出されない。インプットが不足している? それはない。ただ、著しく良質さに欠けていることは心得ている。つまらない人生を歩んでいるものだなと自嘲したくもなる。そもそも疲弊するほどにまで脳を追い込んだところで、僕にこしらえることができる作品には低俗な精神性と幾何学のような不可解さしか宿らないのだから、一生懸命に活動するほうがどうかしている――というのが本音だ。むなしい自負はそのうち僕の身体を内側から腐敗させるのかもしれないけれど、そうなったらそうなったでじつに興味深い。僕は潔癖ではない。むしろ汚れることを望んでいる。
先を急ぐことにする。父が出張先のロサンゼルスから帰ってきているはずだ。寂しがり屋でなにより夫を愛してやまない母ははりきるだろう。遅めの夕食は豪華なものになるはずだ。楽しみだ。腹ペコなのだから。
五メートルほど先に、なにかが落ちてきた。それなりに大きく、それなりに硬い物体が、アスファルトの地面に激突した。たぶんそうではないかと思いながらそれに近づくと、やはりニンゲンだった。ガテン系と思しき恰好の巨躯。首から上がない。その首が降ってきた。頭に白いタオルを巻いている。かっと見開かれた目。小さく開いた口。一般的な観点から評価すると異常な姿の死体ではあるものの、その事実はどうでもいい。――が、頭上に感じる気配は無視できそうにない。
状況から導き出される適切な一言を、僕はさらりと述べることにする。
「不幸な目撃者でしかない僕のことも殺すのかい?」
クスクスと笑いながら、ふわりと降りてきた少女が一人。真っ黒なニットキャップに真っ黒なツナギ。なにより目立つのは右の前腕からにょきっと生えているぎらついた刃物だ。美しい弧を描いているそれは、間違いなく鎌に見える。結構、大きい。どんなに太いものでもヒトの首くらいは余裕で刈れそうだ。
鎌が腕に吸い込まれるようにして引っ込んだ。引っ込めたのだろう。僕は死体を踏み越え、少女の顔に顔を近づける。燃え上がるような赤の瞳を見つめると酔いを思わせるような不思議な気分に陥り、その深く澄んだ様にはぞっとさせられた。背筋を冷たいものが滑り落ちたくらいだ。紫色のルージュが引かれた薄い唇が迫ってきて――キス。八重歯で舌を執拗にいじめられた。
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週明け。
先達ての殺人犯――高坂と中庭のベンチに並んで座り、弁当を食べている。高坂はすらりと背が高い。愛想も素っ気もないツナギも悪くないけれど、おへそが見えるセーラー服姿もなかなかに刺激的で魅力的だ。箸でつままれたおかずが迫ってくる。「あーん」と口を開けるよう要求される。僕は従い、食べた。どう分析してもミートボールでしかない。
高坂は先週末に引っ越してきたばかりの転校生だ。今日が初めての登校日。昨夜のキスが存外心地良かったとのことで、すなわち、いっぺんに僕のことを気に入り、一気に距離を詰めてきたというわけだ。彼女がそうしなくても、僕から接近したかもしれない。凡庸な暮らしを謳歌することには飽いている。自殺願望のような思いを抱き始めてから久しいということもある。とにかく今は偶然の出会いと同じクラスになれたことに感謝したい。
「高坂は死神なの?」
「そうだけど、ご不満かしら?」
「いや。すごくいいと思う」
高坂は「褒めてもなにも出ないんだからぁ」という悪戯っぽい台詞を平べったい口調で述べた。
「たとえば、死神の協会みたいなものがあるの?」
「興味ある?」
「あるから訊いてる」
「死神は自由。好きなときに好きな奴を殺す。そして、スタンドアローン」
「スタンドアローン」
「いい言葉よね」
白米をぱくぱく食べる、高坂。僕も続く、ぱくぱく。天気は良くない。今にも泣きだしそうな曇天だ。
昼食を終えたところで高坂に言って、右腕を見せてもらった、前腕だ、真っ白な細腕だ、なんの変哲もないとはこのことだ。触れる。撫でる。すべすべした質感だけがそこにある。だけど、僕はたしかに鎌を見た。鎌は出せるという。出そうかと提案されたけれど断った。べつにあらためる必要はない。
「いつから死神をやってるの?」
「物心がついた頃からよ。最初に殺したのは父親だった」
「どうして殺したの?」
「汚物だったからよ」
「たとえば、美しいきみに悪さを働こうとした?」
「ご想像にお任せするわ」
突っ込んだことは、訊かないことにした。
「綾野くん、なにか格闘技をやってる?」
「どうしてそう思うの?」
「体幹が強そうだから」
「空手を少しだけ」
「少しだけ? 強いんでしょう?」
「弱い奴は男とは言えない」
「持論?」
「綾野家の伝統」
二人のあいだをひゅるりと風が吹き抜け。
高坂がいきなり、僕の左手を自らの胸の膨らみへと導いた。
「おなかがいっぱいになったら、今度はムラムラしてきたの」
幸か不幸か、僕も似た衝動に駆られていた。
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体育倉庫。
僕はズボンを穿き、跳び箱に背を預けた。丸裸の高坂はマットの上で脱力したように寝転がっている。気だるい時間。だらしのない雰囲気。浮遊する細かな埃が窓から差し込む白い光に照らし出されている。
「これで私が妊娠したら、生まれてくるのは死神とニンゲンのハーフということになるわね」
「そうだね」
「素っ気ないわね」
「赤ん坊に興味はないからね」
「でも、生まれてきたら?」
「そのとき、考えるよ」
高坂がゆらりと身体を起こして、真っ白な下着をつけた。僕の隣に座った。肩を寄せ合う。たがいの温度を感じ合う。
「死神は忌み嫌われる存在だと思う?」
「思わない」
「だったら、必要悪?」
「悪でもない」
「だったら、なに?」
「信仰の対象、文字どおり、ある種の神。あるいは――」
「あるいは?」
「万人の恋人」
高坂がクスリと笑った。
――キスをする。
八重歯に舌を刺される感覚がたまらない。
あらためて、マットの上にそっと押し倒す。真っ赤な瞳を見下ろしながら、「僕は死神を歓迎する。いつもヒリヒリしていたいからね」と伝えた。
「嬉しいようで、嬉しくないわ」
「どうして?」
「あなたは非日常を欲していただけ。かわいい女のコを求めていたわけではないんでしょう?」
高坂が動いた、ゆっくりと、しなやかに。今度は僕が仰向けにさせられた。長く艶やかな髪、その先端が、頬をくすぐる。にぃと笑う様子が高圧的で蠱惑的で。
「僕はこの思いを大切にしたいし、それは未来永劫、変化しないものだと考えてる。はっきり言うよ。僕はきみに恋をした。だから、今後もきみのやることなすことには肯定的だろうし、きみの存在意義と存在理由についても悪戯に疑問は抱かない。そうだな。"死神主義"とでも名づけようか。僕はその信奉者だから、ただ単純に、きみのことを愛し抜くと宣言、約束する」
高坂は目をぱちくりさせ、それからふっと口元を緩めてみせた。
僕はデコピンを食らった。
「あなたはやっぱり生意気よ。まだ十七歳のくせに、不遜な態度で尊大なことばかり言うんだから」
僕は「性分なんだよ」と笑った。
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巨大な水槽――アクアリウム。
僕たちは手をつなぎ、ジンベエザメがゆったりと滑るように泳ぐ様子を眺めている。
「なにが正解でなにが間違いなのか。それがわからないとき、あなたならなにを物差しにする?」
「思考」
「思考?」
「刹那刹那で、答えは変化するかもしれないってことだよ」
「移り気ね」
「万能と言ってほしいな」
うっとりした顔で、ジンベエザメに目をやっている、高坂。
「あなたと出会ってからも、私は完全には満たされていない。だからヒトを殺してる。軽蔑する?」
「性的欲求と同じだと思う。殺したいのなら殺せばいい」
「いつかあなたを殺すかも」
「死神の言動は優先すると告げたつもりだよ。きみになら殺されてもいい。そういう幕引きは、それはそれで、とても美しく感じられるからね」
高坂がこちらを向いた。過不足なく絶妙に整った顔立ち。紫色のルージュがのった唇を小さく動かして、なにか言った。聞き取れなかったので、訊いた。高坂は妖しげに目を細め、「なんでもないわよ」とだけ答えた。
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遊園地――観覧車。
高坂が唐突に、「私は殺されるかもしれない」と言った。不安げな顔をしているのがよくわかる。「誰にだい?」と僕は訊ねた。
「"怒りの風"という組織。たとえるなら、あなたの"死神主義"とは真逆ね。"反死神主義"を謳う連中よ」
「興味深いね。まあ、多くのニンゲンがそれを唱えてもおかしくない。むしろフツウだ。誰をいつ殺すかわからない死神を許容するほうがおかしい」
「そっちに行っても、いい?」
「おいで」
僕の隣に並んだ高坂は、ふぅと吐息をついた。
「あなたと別れてしまうのは、やっぱり怖い」
「"怒りの風"の構成員は、きみのように宙を舞えるのかい?」
「ええ」
「厄介だね」
ぐすっと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「泣くの?」
「泣きたくもなるわよ。別れるのは怖いって言ったじゃない」
「僕がきみを守ろう」
「無理よ。単体だと私より下だけど、組織的に動かれたらどうしようもない」
「それでも守るんだ」
見つめ合う。死神とは言え、異性だ。女の子一人守れないようなら、僕は男という性別を喜んで放棄する。
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湿った夜。
まるで関係のない世間の人々を巻き込むのは気が咎めて、タクシーに乗り、人気のない海沿いの倉庫街に場所を移した。中年と思しき男性の運転手は僕が抱いている物を見て「モデルガンですよね?」と言い、笑い声を発したけれど、残念、あいにく本物だ。ネットでパーツを買い集めて、ショットガンをこしらえた。左の懐には拳銃も入っている。弾丸については満足の行く数を集められなかった。急ぎだったのだから贅沢は言えない。
"怒りの風"は、みな、黒服姿。空中から襲いかかってくる。投げナイフが厄介で、一本、左の肩にもらった。十人は多い。高坂も一生懸命に戦っているけれど、相手の巧みな連携に手こずっているのは明白だ。それでもなんとか戦う。僕たちは動きを止めない。負けないのだと信じて。だけど、やがて押し込まれ、追われるだけになった。手をつないで逃げ込んだ先は廃倉庫。積み上げられた木材の陰に隠れ、座り、息を整える。「ここまでかしら」と言い、高坂は笑んだ。ゆがんだ笑みだ。疲労と恐怖のせいで、うまく笑えないのだろう。
「僕が敵を引きつける」
「無理よ。っていうか、無駄よ。奴らの狙いはあくまでも私なんだから」
「僕は十人のうち、二人殺した。復讐の的になりうる」
「でも――」
「最悪のケースって、わかるかい?」
「私たちが死んでしまうことでしょう?」
僕は首を横に振った。
「違う。きみが死んでしまうことだ」
「どうして、そこまで……」
高坂が左の目尻から一筋、涙を伝わせた。僕は懐から拳銃を抜いた。トレンチコートのポケットに入れていた茶封筒と一緒に渡す。封筒の中身は百万円の札束。
「隙を見て逃げて。どこまでも逃げて。逃げて逃げて逃げまくって」
「また、また会える、よね?」
「会えるといいね」
ショットガンを改めて持ち上げ、駆けだす。名を呼ぶ声が後ろから聞こえたけれど、振り向くわけにはいかない。もう一度彼女の顔を見てしまったら、きっといつまでだって抱き締めたくなってしまう。
倉庫から飛びだし、空に向けてズドンと一発放ち、自分の位置を知らしめる。あえて広い道を行く。とにかく目立って相手の注意を引くことが肝要。走る走る。振り返って発砲。宙を飛ぶような奴らだから只者でないことくらいは知れているのだけれど、それにしたって、うまく避けすぎだろうと思う。だけど、めげることはしない。してたまるか。――不思議だ。今ほど生を強く実感したことはない。快感に近い。生きていることに快楽を覚える。
そう。
僕はまだ、力強く生きている。
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ニか月が経過して冬の入口。
僕は今、北国の叔父夫婦の家に身を寄せている。あの日以来、僕の前に"怒りの風"らしき影は現れていない。高坂はどうしているだろう――そんなふうに考えることは、めっきり減った。生きていてほしいとだけ願うようになった。高坂は僕の宝物で、だからどこかで息をしてくれてさえいればそれでいい。あの日、唐突に、思いつきで謳った"死神主義"。それは尊い考え方で、僕にとってはかけがえのない思想だ。
放課後の河川敷。高さも幅も充分に思えるけれど、以前に一度、大水であふれたらしい。ほんとうに寒い。マフラーに口元をうずめる。俯き加減だった顔をふと上げる。前を向く。視線の先に、黒いツナギ姿の高坂が立っていた。黒いニットキャップ。僕は目を見開く。また会えるなんて思っていなかったから。すぐさま抱き締めようとは考えない。微笑み合うことに時間を費やすほうが素敵だろうから。
なだらかな坂――短く刈られた草の上に、並んで腰を下ろした。
「生きていたんだね」
「ええ」
「どこで僕の居場所を知ったの?」
「ご両親に伺ったのよ」
「また会えて嬉しい」
「私も」
高坂は穏やかに微笑むと、黒い革手袋を左だけ取った。ヒトの手ではなかった。くすんだ銀色の機械だ。大仰な義手だ。
「握力は百五十キロ。新しい武器ってわけ。こまめなメンテナンスは面倒だけど。どうあれ落とされたのが左手だけで助かったわ」今度は苦笑のような表情を浮かべた高坂。「あなたは? 見たところ、大きな怪我は追ってないようだけど」
僕は高坂の顔に顔をぐいっと近づけた。
「左右の瞳の色をよく見て」
高坂は小さく首をかしげ、それから、はっとしたように。
「色が違う。そういうこと……?」
「うん。左は義眼。投げナイフがかすって、使い物にならなくなったんだ」
「……ごめんなさい」
「いいんだよ」
優しい時間。
小さな子どもが二人、大人の女性に見守られながら、ブランコをこいでいる。
高坂はニットキャップを取ると、僕の左の肩にこてっと頭をのせた。
「"死神主義"は、まだ健在?」
「もちろん。ずっと変わりはしないよ」
「これからも必ず危険は訪れる」
「もう手放したくないんだ」
高坂が「ありがとう」と言って泣くものだから、僕は華奢な腰に手を回し、彼女のことをそっと抱き寄せた、愛おしい感触。
夕暮れが加速する。