雪下出麦(ゆきわたりてむぎいづる)
臀部を触られた。というか、まさぐられた。一度きりなら気のせいなり、事故なりで流せたが、そうではなかったのでチカは声を出しておおごとにしてやった。チカを触った男性の“黒子”がニタニタ顔から一転、おどろいていたのが印象的であった。
チカは特別度胸があるわけではないと自覚していたが、己にされたことをマシロやササが受けると思えば、胸の底からなけなしの勇気も湧いてくるというもの。
“黒子”――もとい、痴漢野郎は大胆な行動に出た割にチカたちに糾弾されるとなぜかおびえていた。他の“黒子”たちも平身低頭であったが、その目には明らかな恐怖があった。なぜなのかは、わからない。問いただせる雰囲気でもなかったので、謎のままだ。
そして一連の処理が終わったあとで、チカは色々と考えた。
「気弱そうに見えたのかな……」
なぜあの痴漢野郎が己を狙ったのか、解せない。唯一思いついたのは、そういうことをしても黙っていそうな――つまりは、大人しく気弱そうに映ったからこそ狙われたのではないか、という推測だった。
真っ先に痴漢野郎をボコったアマネは、怪訝そうな顔でチカを見る。
「今朝の話か?」
「そう」
「別に……だれでもよかったんじゃないか。こっちをナメてんだよ」
「ムカつく」と未だ憤懣やるかたないといった様子のアマネが、吐き捨てるように言った。不快な感情を抱いているアマネには悪いが、チカはそうして彼が我がことのように怒ってくれることがうれしかった。
「痴漢が目的であって、だれにするかはどうでもいいんだね」
「多分な」
「だよね。容姿で選んでるなら私に被害が及ぶわけないし」
「……そうか?」
チカの言葉にアマネは本気で不思議そうな顔をした。アマネがそんな顔をしたので、チカはちょっとおどろいた。
チカは自分の容姿に自信がない。顔のパーツの配置はひどいというわけではないが、平々凡々。糸目なのがちょっとキズ。
どこにでもいる女の子として引き立てられるのであれば、これでじゅうぶんであったが、可愛らしいマシロや、美人なササを見ているとあこがれに似た感情を抱いてしまう。
チカは、本来的に自分の顔が嫌いというわけではない。けれどもチカから見て、魅力的な容姿を持つ女の子に囲まれていると、どうしても自分自身が見劣りしているように感じてしまうのだ。
「いや、だって、マシロは可愛い系、ササは美人系じゃん? でも私は普通って言うか……」
さすがに自らを「ブス」というほどまで卑屈ではなかったし、単純にそう称するのがためらわれたという理由もある。
しかしこんなことを言ってしまったあとで、アマネは反応に困るだろうなと後悔した。
チカがそう思った通りに、アマネはチカから視線を外してしまう。チカの胸中に罪悪感という雲が立ち込めた。
思わず軽くうつむいてしまったチカの頭に、しかし思いもよらぬアマネの言葉がぶつかる。
「……別に、おれは好きだけど」
「え?」
「お前の顔」
顔を上げれば、居心地が悪そうな顔をしたアマネがいた。その心中を読めるほどの観察力は、動揺によって今のチカからは失われていた。
「――は? え? ……あ、ありがとう……?」
ひとまずお礼を言ってみる。しかしその声はうろたえて、かすれていた。
同時に、アマネに無理をさせてしまったなとチカは思った。だがチカのそんな考えを見透かすように、アマネは言葉を重ねる。
「可愛いとか美人とかはわかんねえけど、おれはお前の顔、好きなんだけど」
「そ、そう」
可愛いとか美人とか、なにかしら魅力があり容姿が優れているのは三人のうちだれかと問われれば、きっと十人中九人はマシロかササを指し示すに違いない。絶対にチカはそこには入れない。……はずだった。
チカはやっぱり自分の容姿に自信は持てなかったが、単純に褒められるよりも好きと言って貰えたのは、素直にうれしかった。
外気に反して胸の奥が温かく――否、それよりも熱くなって、全身がむずがゆい気持ちに襲われる。
きっとアマネ以外に言われても、チカはお世辞だとか気遣いだとかと受け取っていただろう。
けれども、アマネだったから。アマネだから、その言葉がチカの心にまっすぐ届いた。
しばらく、アマネとチカのあいだには居心地の悪い空気が漂ったが、チカはそれが案外とイヤではなかった。




