山茶始開(つばきはじめてひらく)
それは地下植物園でサザンカが咲き始めたうすら寒い夜のこと。
珍しく尿意に目覚めたチカは寝室から繋がる水洗トイレへ向かった。扉を開けて、狭いトイレの中に入り、ワンピースの裾を持ち上げ、下着をおろし、ひんやりとした便器に腰を落ち着ける。いつもと同じ動作だ。
部屋の外ではなにかが徘徊している音が響いてくる。今日は犬の爪が石の床を引っかいているような音がした。それを聞いてもチカは「元気だなあ」などとのん気に思うくらいである。完全に慣れ切っていた。
起き抜けの眠気でぼんやりとした頭で用を足す。
そのとき、足元にひんやりとした冷気が流れるような感覚が走った。
チカが「なんだ?」と思う間もなく、氷のように冷たいなにかが、チカの素足を撫でた。チカが仰天したのは言うまでもないことだろう。
しかしチカは心底おどろいても声を出せなかった。寝起きの頭であったこともあり、いともたやすくパニックに陥る一方、どこか心は突然の出来事に対して麻痺しているところもあった。
一拍置いて、事態を理解して、ようやくチカの心臓はドクドクとイヤな感じに鼓動を打ち始めたのであった。
「え?」
思わず声に出してみるが、当然、返事などない。そのあいだにも氷のように冷たいそれは、チカの素足を這い回っていた。
恐怖だ。トイレの狭い個室には当然ながらチカしかいないはずであったし、だれかが潜める余地もない。なのに、なにかが――明確に人の指だとわかるそれが、チカの足を撫でているのであった。
チカはパニックになりながらも、冷静に紙を手に取り処理をして、さげていた下着を上げて、スカートの裾をおろした。
そして手を洗ったあと、ゆっくりとした動作でトイレの扉を開けて、アマネが眠るベッドへ戻った。
氷のように冷たい手は、トイレから出た時点でチカから離れていた。
熱の残る枕に顔をうずめてチカは考える。先ほどの出来事はなんだったのだろうか、と。しかしそれを考えているうちに結局寝てしまった。
そして朝、アマネより先に起きたチカは当然のようにもう一度トイレへ行くことになったのだが、そのときには昨夜の冷たい手は出てこなかった。
そこに至って、チカは昨晩の出来事は幻覚か、そうでなければ触れた冷気を手と勘違いしたのだと思った。思おうとした。なぜなら、トイレになにかが潜んでいるかもしれないという現実はイヤすぎたからだ。
起き抜けの、勘違い。チカは昨晩の出来事をそう処理することにした。
しかし二度目の「被害」を受けるに至って、ようやくチカはこれはどうも己の気のせいではないらしいと気づいた。
二度目は寝る前だった。これまた入眠前の、うつらうつらした状態だったので、気のせいだと処理したかったのだが、思い切って覗いた足元で枯れ枝のような手指が己の素足を撫で回している場面を見てしまっては、勘違いでは済ませられるはずもなかった。
「ア、アマネ……」
「……どうした」
衝撃によろよろとトイレから出てきたチカは、か細い声でベッドの上で読書をしていたアマネを呼んだ。チカの声が平素とは違うことにいち早く気付いたアマネは、本をナイトテーブルに置くと、ベッドから下りる。そういう動作が今のチカにはうれしかった。
「トイレに……なんかいた」
「は? ……虫か?」
「虫じゃない、と思う。ひとの指っぽかったし……」
「はあ?」
わけがわからないといった声を上げるアマネだったが、壁に立てかけてあった棒を手にトイレの扉を開けてくれる。しかし当然のように暗いトイレの個室にはなにもないし、何者かが潜める隙間もない。
「き、気のせいとかじゃないと思うんだよね……こういうの二回目だし……たぶん」
「はあ? 二回目? ……一回目は?」
「いつだったかな……アマネが寝てるとき。足を撫でられて……」
「……さっきもか?」
「うん……」
アマネがもう一度トイレの中をにらんだ。しかし当たり前だが、そこにはなにもいないように見える。
アマネの様子からして、彼は被害には遭っていないのだろう。チカは己の言い分が信用されるか心配になった。自身ですら、まだあれは夢だったのではないかと思っているところはある。
しかしアマネは、
「明日、他の奴らにも聞いてみるか?」
と、チカのことを微塵も疑っている様子はなかったので、チカは内心で感動した。
それに触られたということを勘案してのことだろうか、判断をこちらにゆだねる聞き方だったので、チカは安堵した。
他にも被害が出るかもしれないこともあり、チカは他の五人にこのことを打ち明けることにした。信じてもらえるかどうかはよくわからないが、話しておくだけのことはしようと考えてのことだ。
しかし次の日、事態は急転直下の結末を迎える。
「アレ、夢じゃなかったんだ……」
食堂でチカから打ち明けられた五人の内、マシロも被害に遭っていたことが判明した。
手口はチカのときと同じようで、夜の就寝前や、起きてすぐのタイミングのときにだけ現れて、素足を撫でて行くというものであった。
チカはそう感じたように、マシロも己の気のせいや勘違いだと思っていたようだ。ただし、チカのようにあの枯れ枝のような手指は見ていないと言う。ぼんやりとしていて、そういうところまで気が回らなかったとマシロは言った。
「なんだそいつ、脚フェチなのかあ?」
アオは口調こそいつも通りに気安いものであったが、その顔を見れば彼が怒っていることは明らかだった。先ほどからひとことも言葉を発さないコーイチも、内心では怒り狂っていることが知れた。
トイレの個室に現れた謎の痴漢をどうするか。重苦しい空気の中、おもむろにユースケが右手を挙げた。
「その痴漢野郎のことなんだけどさ」
「なにかボコすいい案でも浮かんだ?」
「いや、たぶんもう出ないんじゃないかなって」
「はあ?」
なんの根拠があって言っているのかとユースケに視線が集まる。ユースケの隣に座るササだけが、いつも通り眠たそうな無表情のまま、虚空に視線を向けていた。
「いや……サっちゃんが切っちゃったから出ないんじゃねえかなって」
「切っ……え?」
「サっちゃんが切った手が今、うちの部屋にあるんだよね」
「は?」
五人ともがわけがわからないという顔をする中、ユースケが淡々と説明をする。
チカやマシロが遭遇したのと同じ状況でササも一度は素足を触られたそうだ。だから、次にトイレに入るとき、ナイフを持って行った。そして己の素足を撫で回す手をつかみ上げて、そのまま手首から先をナイフで切り落とした。
ユースケを除く、さしもの男性陣もササの所業にはおののく。チカもマシロも、ユースケがなにを言ったのか吞み込めず、思わずその隣でぼんやりと座っているササを見た。ササは身じろぎもせず、相変わらず眠たそうにしていた。
ユースケはどよめく五人の様子など意に介していない顔で、続ける。
「――で、その手、どうすればいいと思う?」
「植物園にでも埋めとけ」
アマネのひとことを受けて、ユースケは「じゃ、そうするわ」と軽い調子で答えるのみだった。
その後、女性陣が足を触られるというようなことはなくなったが、それからしばらくのあいだ、夜中にすすり泣きが聞こえるようになった。しかしそれもいつの間にか聞こえなくなっていたので、くだんの痴漢野郎はどこかに消えたのだろう。




