土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)
「うわ~……なんか、あったかい」
「バカ! なにのんびりしてんだよ!」
黒い泥沼に膝まではまりそうなマシロが、のん気にそんな声を出す。あわててコーイチが助けに行く。
あたりには泥汚れが飛び散り、悲惨なありさまであった。このあと掃除をすることを考えると、あの身長一五〇センチメートルほどの泥人形を破壊すると同時に、この泥汚れも消えはしないかと願ってしまうのも無理からぬことである。
粘り強く、この泥汚れの中心に立つ泥人形へと接近したアマネが、その頭部を棒で打ち砕いた。中まで泥で出来ているのだろう。アマネに破壊されても、さして大きな音は立たない。ただ、土くれとなってもろもろと床へ落下するのみだ。
「終わった?」
珍しく肩で息をしているアオは、白い服の胸まで黒々とした泥汚れに見舞われている。
なにを言おう、最初の犠牲者がアオだったのだ。ほとんど底なしの泥沼に、胸まで引き込まれてしまったアオが、悲痛な声で助けを呼んだのでみな異変に気づいたわけである。
そしてそこからは泥との格闘である。
同じく泥汚れに見舞われているチカは、泥人形を破壊したアマネに感心の視線を送る。アマネも、全身を泥だらけにして肩を揺らし息を荒げていた。
アマネはさすがに七人の中で一番年嵩に見えるだけはあり、身長こそ一番高くはないが、身体的に最も完成に近いのが彼なのだろう。腕力も体力も十二分にある。こういった不可思議な事象と格闘するときは、アマネはめっぽう頼りになるのだった。
そして泥との格闘のあとは、泥汚れとの戦いが待っていた。チカが懸念した通り、泥人形を破壊しても泥汚れが消えるなどという都合のいいミラクルは起こらなかった。
そのため、チカたちは総出で廊下の掃除に当たることになったわけである。
「つっかれたー……」
重労働を終えたあとは、もちろん風呂である。顔や髪の毛にも泥ハネがあり、それがパリパリに乾いてきていて気持ちが悪かった。白い服は残念ながら捨てるしかないだろう。泥シミがしっかりと奥まで染みついてしまっているのがわかる。
洗い場で湯を使い、しっかりと泥汚れを落とす。丹念に髪を洗い、石鹸で綺麗にして行く。
そのあとは湯につかる。湯船に入ると、思わず疲れた声が出そうになった。
「あの泥人形、なんだったんだろう」
チカは問うても詮ないことと知りつつも、そんなつぶやきを漏らしてしまう。
“城”で不可思議な事象が起こることは枚挙に暇がなく、いちいち考えていては疲弊してしまうことは目に見えていた。
「“城”だから起こったのだ」と、七人はいつしかそうやって物事を処理するようになっている。それがいいことなのか、悪いことなのかまではわからない。ただ、それはたしかな処世術というやつであった。
「だれかに成り代わるためだったら怖いよね。スワンプマンとかさ」
どこかの国にはゴーレムという泥人形の伝承があるという。そして死んだ人間とまったく同じ構成要素と記憶性格を受け継ぐスワンプマンという思考実験……いずれも本で得た知識だ。チカはそれを思い出し、そこに彼女特有の後ろ向きな発想を加えた。そこに他意はなかった。
「お前がそれを言うのか」
ササが無感情な声でそう言った。けれどもチカはササの声から若干呆れたような、引いたような感情を読み取った。
チカは記憶喪失なのだ。普段の生活でさして困った経験がないのでときおり忘れてしまうほどであったが、記憶喪失なのだ。
「い、いやあ……ブラックジョークとかのつもりではなく……」
場の空気が微妙なものになったのを敏感に察知したチカは弁明する。それでもササとマシロは微妙な顔をしたままだった。
「記憶がなくてもチカはチカだよ!」
マシロのフォローがむなしく風呂場に響き渡る。チカはその気づかいをありがたく思いつつも、笑顔を引きつらせるしかなかった。
「チカは記憶喪失でも変わりがないから、忘れそうになるが」
「……そんなに変わらないんだ?」
「変わらないな」
バッサリとササに言い切られると、前々からわかっていたことでもなんだか複雑な心境になる。
普通は記憶を失ったことでスペクタクルな物語が展開されるのではないだろうか、とチカは思うが、それはしょせんフィクションでの話なのだろう。現実には淡々と日常は続いて行き、それは記憶を失う前から地続きなのだ。
それはありがたいような、ちょっぴり期待はずれなような……。
己が平々凡々である自覚があるからこそ、非日常を求めてしまうのかもしれないとチカは思った。
けれどもよくよく考えなくても、“城”での日常は外の人間からすればじゅうぶんに非日常だろう。そう考えると、チカが抱くあこがれは、隣の芝生が青く見える現象となんら違いはないのかもしれなかった。
――非日常を求める思いに、足元をすくわれてもイヤだしな。
チカは己の中に湧き出た、非日常を求める思いにそっとフタをした。




