1話 路地裏の少女
『ターゲットが3ブロック目の裏路地に入った。すぐに追え』
「了解」
右耳につけたインカムからの指示に、俺は足を速めた。
夜遅くにもかかわらず、都心の繁華街は喧騒に包まれている。カラフルなネオンの光に照らされた大通りの熱気を、冬の冷風が攫っていった。
目深に被った帽子を手で押さえ、人が行き交う道を縫うようにして歩いていく。
路地裏の入り口まで行くと、足を止める。視界の奥でターゲットを捉えた。
俺はベージュ色のコートのポケットに手を入れ、余裕のある動きで路地裏に足を踏み入れた。
表の喧騒が嘘のように静かな路地裏。薄闇に包まれていたその奥に、黒いローブを被った人間が一人、立っている。
ターゲットは、まるで待ち構えるかのように足を止めて俺を見ていた。
中肉中背の身体はローブで覆われ、深く被ったフードの闇にその素顔は隠れていた。年齢も性別も窺わせないそいつは、どこか不気味だった。
ポケットに忍ばせた消音拳銃に手を添え、警戒しながらターゲットに近づいていく。
「どうして私を追うのさ」
突然、静まりかえった路地裏に凛とした少女の声が響いた。
一瞬誰の声なのか理解できなかったが、すぐに目の前の人間が発したのだと気づいた。
フードの闇の奥。湖のように蒼く光る綺麗な瞳が、俺を見つめていた。
俺は彼女の問いかけに答えることなく、足を進める。
追う理由など俺にもわからなかった。ただ上の指示に従い、ターゲットを追って捕縛する。
それが俺の——下っ端スパイの仕事だ。
「まぁいいや。この世界での仕事はもう終わったし、帰らせてもらうよ。君たちの道楽に付き合っていられるほど私も暇じゃないんだ」
彼女が左手を空に伸ばした。その手に何かが握られているのを捉えた瞬間、俺は銃を出して彼女の足に発砲。弾丸が命中して彼女は体勢を崩すも、左手の物を手放すまではいかなかった。
爆弾か——と思ったその時。
蒼い強烈な光が視界を埋め尽くした。
まずい、閃光弾か。
光にやられた目のままインカムに手を伸ばす。
「閃光弾で視覚を奪われた!すぐに他のやつに追跡させてくれ!」
間違いなく失態だ。上司からの叱責は免れないだろうなと肩を落としながら、目が慣れるのを待つ。
しばらくして視覚が戻り周りを見渡すと、俺は目を疑った。
洞窟の中に俺は立っていた。
いや、洞窟というには人工的すぎた。綺麗に整えられた地面に、壁面。天井までもが綺麗に均されていた。
壁に一定間隔で取り付けられた松明が、どこかから吹く風に揺れている。
薬かなにかで記憶を飛ばされ、どこかの坑道にでも置き去りにされたのだろうか、という荒唐無稽な考えが脳裏を過ぎった。
呆然とあたりを見渡していると、地面に血痕を見つける。
洞窟の道の奥へと続く、赤く光る血痕。
——まだ新しい。
「血痕をみつけた。今から追跡を再開する」
インカムからの返事はなかった。しかし、俺のやることは決まっている。
右手に持っていた拳銃をポケットにしまうと、足を動かし血痕を辿っていく。
しばらくすると、広間のような場所にでた。幅も広く、天井も高い。小学校の体育館並みの空間だ。ここは戦時中に作られたシェルターかなにかなのだろうか。
早く彼女を追おうと足を速めた、そのとき。
広間の奥になにかが動いているのを見つけた。
人間ではないことが遠目でもわかるほど、それは巨大で、異質だった。
4mはあろうかという体躯。二足で立ち、巨大な棍棒を右手に握っている。
気味の悪い水色の肌がテカテカと光り、鎧かと思うほどに隆起した筋肉がその巨躯を覆っていた。俺の気配に気づいたのか、それはゆっくりと振り向いた。
それの顔を見た瞬間、全身が寒気に襲われた。
巨大な三つの目が、ギョロリと俺を見つめている。
ハッとして、俺は凍りついた思考と体を動かす。
その怪物の奥に目をやると、誰かが数人倒れているのが見えた。
彼らに意識を合わせていた、その一瞬の間。
ハッと気がつくと、怪物の姿が無くなっていた。
まさかと思って瞬時に振り返る。
ニチャニチャと気味の悪い笑みを浮かべた怪物がすぐ背後に立っていた。手に持った巨大な棍棒が、振り上げられる。
——やばいっ。
咄嗟に右側に飛び込むと、今まで立っていた空間が2mほどの棍棒に薙ぎ払われた。
生物としての本能が大音量の警鐘を鳴らしていた。
全力で戦わなければ、死ぬ。
拳銃を取り出し、巨大な三つ目の一つを狙って引き金を引く。
狙いは正確だったはずだが、怪物は予想以上の速さで頭を捻る。
弾丸は顔を掠っただけで奥へと飛んでいった。
続け様に二発目を撃とうとした瞬間、一気に距離を詰められる。
伸びてくる巨大な腕から逃れようと地面を蹴るが、間に合わなかった。
巨大な手に動体をがっしりと掴まれ、持ち上げられる。
「ッァ……」
痛ぶるかのように、俺を握る手に徐々に力が入れられる。
バキバキと骨が折れていくのを感じる。呼吸ができない。
苦しむ俺の顔をよく見ようとか、怪物が顔を近づけてくる。
巨大な三つ目が、嗤っていた。
俺は銃口を怪物に向け、震える手で引き金を引いた。
弾丸を、巨大な目にぶちこむ。
続け様に、二発、三発、四発と、撃ち続ける。
「グァアアッ!?」
思いもよらぬ反撃に、怪物は俺を掴んでいた手を離して目を押さえる。
ドサッ、と地面に打ち付けられた体をどうにか起こし、苦しみもがく怪物に弾が切れるまで何度も弾丸を撃ち続けた。
血だらけになった怪物の巨躯が、やっと地面に倒れた。
地面の振動を感じた瞬間、無機質な声が頭に響く。
【レベルが 1 から 18 に上がりました】
——なん、だ……?
インカムからの声かと思い右耳に手をやるが、なにも反応はなかった。
起き上がろうとすると、全身に激痛が走る。
込み上がる咳とともに吐き出された血がコートにかかった。
——肋骨が何本かと、肺がやられてる。
痛みを我慢してどうにか立ち上がると、倒れていた数人のもとへと足を進めた。
彼らはまだ生きているだろうか。
なにより、この状況を説明してくれる情報が欲しかった。
俺が追っていた血痕は、彼らの奥まで続いていた。