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走馬灯が止まる前に  作者: 北郷
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泣かないの

「かおりね、楽しいから泣かないの」

 俺と住み始めた頃の花織は夜中に目を覚ましては、大きく目を見開いてぼーっとすることが頻繁にあった。


「どうしたの?」

 って俺が何度か聞いてみたこともあったけど、花織はいつも瞳を潤ませながら、ただそう応えるだけだった。


 どんな母親であったのか?俺には想像の域を脱しない。こんな小さな子を捨てたのだから、とんでもない女だとも思っている。

 もちろん、花織を捨てる前の母と子の関係は俺には全く分からないのだから、勝手な想像でもあることも分かっている。それでも、俺は絶対に許せないと思っていた。

 それが当然のことだと思う。


 でも、なんとなくだけど花織は母親に対して、悪い感情は無い様に思えてもいた。

 まだ小さいのだから、どんな母親であっても依存するしかなかったのだし、他の母親と比較することも出来ない。だから、ある意味それは当然なのかもしれない。

 だけど、俺はそれだけでは無いような気もしていた。だから、花織の前で母親を悪く言うのは止めようと決めていた。


 でも、未熟だった俺はそんな理不尽なことを認めたくない気持ちに支配されてしまう。

 花織の感情の在処がまだ母親から離れていないと思ってしまうと、しっくり来ない感情を抱いてしまう。


 だから、あたかも花織の実の母親が極悪母であって欲しいと思ってしまう感情を抱いてしまうし、少なくとも自分よりもダメな人間であって欲しいと願ってしまう。

 それが、比べるべきものでは無いと理屈では分かってはいても。


 そのことで自分自身の気持ちの狭さに落ち込んだりもしたし、この先これでいいのかと不安になったりもした。

 気持ちの根源が完全にただの嫉妬であったのは言うまでも無い。


 しかし、それも花織の葛藤から比べればちっぽけな俺の自尊心でしかなく、そんなものは花織の状態が改善されて行くにつれて次第に忘れて行ってしまって行った。

 俺の感情など、所詮その程度のものなのだ。

 その時の俺は、ホントちっぽけな新米パパであったのだ。


 花織のそんな状態は頻度は減らして行きながらも1年以上続いたと思う。

 でも、こんな頼りない新米パパに反して、花織はその間に一度も母親のことを捜したり、叫んだりすることは無かった。

 俺が欠片も持ち合わせていないポリシーがあったかのように。


 その時、花織はまだ俺の腕の中で幼児の香りを漂わす4歳でしかなく、対して、俺は4歳児の一挙手一投足に嫉妬を覚える、感情さえ抑えきれない成人経験4年を過ぎた24歳。

 人間としては俺の方が、多分小さかったと思う。


 それは、その頃からずっとで、今だに変わりなしないようだけど・・・。


 俺と花織は、役所で事実関係を調べ終えた後、義理姉の言葉に甘えて兄と義理姉のマンションに向かった。

 その時、単身海外赴任中の留守を義理姉が一人守っていた。間取りは一人住まいには広すぎる3LDK。

 始め義理姉は強気に一人暮らしをエンジョイするようなことを言っていたが、どうやら、心身共に強靭を誇る義理姉にも弱点があったようだ。

 それは、人よりちょっとだけ寂しがりやなのである。


 義理姉は、兄が海外転勤となって1か月も経たない内に淋しさに耐えかねてなのだろう。俺や自身の友人達を晩御飯に招いてはアルコールの魔術に自ら入り込み、しばしば兄への思いを叫ぶことがあり、同じマンションの住人からの苦情が入ることも何度か。

 なので、俺はいつも酔わせない様にするのが大変であった。

 俺が花織を連れて行ったのは、そんな最中のことである。


 元々の子供好きで不妊治療中。その上、その不幸な一人暮らしの状況が相まってか、義理姉は花織を一目見るなり平常心を何処に落としたのか、興奮状態に陥ってしまう。

 脚をその場で小刻みにバタバタとさせ出すと、居ても立っても居られないと言う感じで、驚く花織の前にマッハの速さで膝から滑り込む。自分の半分も無い花織の前まで行き屈み込むと、目尻を目一杯下げて懇願顔。

 そして、小さなお腹に頬を摺り寄せると、犬の様にハーハーし出す始末。


 一方、花織は大変犬好きだったようで、そんな義理姉の様子が相当犬っぽかったのだろう、その突拍子もない義理姉の行動に全くひるむことなく、犬を相手にするかの様に義理姉の乱れたボブヘアの頭を何度も撫で始める。


 その様子に俺は何だか笑えてしまったが、頭を撫でられた義理姉は本気で喜んでしまってもう大変。ハーハーしながらとろけ落ちてしまい腹ばいに。更に義理姉はそこで一吠え。


「ワぅ~ン!」

 花織もその姿が余程面白かったのかすっかり喜んでしまい、義理姉と花織の関係はあっという間に築かれてしまった。

 裏を返せばさすがは義理姉って感じてしまう。


 一見、ただの感情に任せただけの変態行為の様に見えるけれど、その実、子供の心を掴むための彼女なりの計算であることも間違いない。

 ただ、全てが計算だった分けでは無く、可なりの部分が地であることも俺は知っている。

 他の方法だって行く通りもある訳だし。


 その後も、義理姉は嬉しそうに何を焦っているのか、部屋の中をバタバタと走り回っては、花織の為にお菓子やジュース、おしぼりにティシュ、ぬいぐるみに義理姉自慢のお手製の何とかフラワーまでがズラッと並べ出した。

 そして、並べるモノが無くなると抱っこしたり、話しかけたりで、何かもう大変。


 切りが無いので、俺は手綱を引く様に義理姉を抑えつけ、花織を奪い返して義理姉を説き伏せる。

 そのコントのようなやり取りに、花織は楽しそうに笑ってくれていた。


 ようやく落ち着いたところで、今回の顛末について再度俺から詳細を説明。そこは、さすが義理姉の切り替えの早さ。急に鋭い目つきになり真剣に聞いてくれてた。

 誤魔化すのが下手な俺は、流れの中で正直に彼女に振られたことまで話してしまい、今世紀最大の喜びの中の義理姉を一気に落胆の底に落としてしまうことに。

 半ば、俺以上の落胆加減には、返って俺の気が引けてしまった。


 そんな義理姉も一通りの説明を終えた頃には、花織との出会いの喜びと、俺の失恋話の落胆の差し引きゼロにすることが出来たのか、義理姉の心も安定、落ち着きを取り戻した様だった。


 その時、時刻もちょうど昼食の時間だったので、義理姉の「お昼にしましょう」の言葉で、用意してくれていた少し軟目の冷製パスタをいただくことに。

 弁護士さんのところへは、昼食後に義理姉の車で向かうこととなっていた。


 昼食の時、「ソーメン、ソーメン」と喜んでいた花織と、それを聞いて複雑な表情で「ソーメン美味しい?」と聞く義理姉が印象的であった。


 弁護士さんとの話は僅か30分程度の時間であったが、予め義理姉がある程度の話をしてくれていたようで、概ね聞きたいことは聞けたし、今後の方針も決めることが出来た。

 弁護士さんの話を要約すると次の通りであった。


 ・俺との偽装結婚は、婚姻関係を結んだ後になると養子縁組の為の家裁での手続きが必要でなくなるので、かなり容易になるからではないか。

 ・婚姻関係を解消するにあたっては、婚姻関係を無効にする手続きは時間も費用もそれなりにかかり、労力も必要となるので、養子縁組をそのまま維持するのであれば、離婚届をそのまま出した方が良いのではないか。

 ・さらに、養子縁組を解消しない意思があるのであれば、実の親を探す意味は無いだろう。

 とのこと。


 俺は弁護士さんの説明で、自分の現状に不本意ながらも納得。一方、義理姉は理不尽さに相当怒っていて、「恭ちゃんは呑気のんき過ぎる」と俺が怒られる始末。

 それでも、結局は俺と義理姉との意見は一致。

 色々思うところはあったものの怒りと不満の矛は収めることとなり、あっさり緑色の離婚届けに署名捺印の上、役所に提出をするに至った。


 これで、晴れて俺もバツイチ子持ちにになったと言う訳だ。もちろん、一度決めたことなのだから一片たりとも後悔は無い・・・絶対に無かったと思う。

 どうせ彼女に振られてしまったんだし、それを離婚と思い込めばいいやって感じだった。

 それは割り切れたのだからいいのだけど、直ぐさま自分の無計画さにはがっかりしてしまうことに思い至ってしまう。


 それは、差し当たって明日俺が会社に行っている間の花織のことを全く考えていなかったことである。あと、些細なその他も。

 なんとも俺らしい先への甘さ。

 その時の俺の顔色は、ちょっと青ざめていたかもしれない。


 でも、そこはちょっと変わっていても、さすがは頼れる犬、いや義理姉。

 その焦った俺の態度も、義理姉には予想の範囲であったようだ。既に先回りしていて、色々考えてくれていたのであった。


「あっ!」

 と言い放って時間が止まる俺に、顔色を見ただけで俺の思いついたことを察した義理姉は、


「大丈夫だよん」

 そう言って、即考えていた具体案まで提示してくれた。さすが、犬の真似が上手いだけのことはあると俺は思った。関係ないけど。


 義理姉の提案は、出勤前に花織を連れて義理姉のところに寄れとのことだった。どうせ暇だから預かってくれるとのことである。

 更に、幼稚園も既に、この辺りの名士である義理姉の実家に頼んであって、今日中には決まるだろうとのこと。

 自分が支援するから、保育所ではなく幼稚園に通う方を進められた。ホント有り難い。


 結局、俺がどんな決意をしようとも、兄&義理姉のお世話になると言う関係は、相変わらずのまま。俺がダメ人間のままに変わりはなかったってことだ。

 後で思うと、困って兄に相談の国際電話をした時点で、こんな感じになることは頭の何処かでは予測していた気がしないでもない。


 そんなことで差し当たって残った憂鬱と言えば、会社への扶養家族の届け出のみとなった。

 さほど大きくない社内で、これがどんな噂を巻き起こすことやら。そう思うと、翌日が怖かった。

 とは言っても、根底では何とかなるとは思ってはいたのだけれど・・・。甘ちゃんの俺は。


 ただ、俺の憂鬱はその後も、幾つもやって来ては俺の前に立ちはだかることになる。

 その時はまだ気づきもしなかったが、俺と花織の特殊な関係が晒されるのは、当然会社内だけのことでは無い。

 隣近所や、その先に花織と俺に関係する人達の間で、多かれ少なかれ話題にはなっていくことになる。


 自分も多少なりとも特殊な状況下で育ったわけだし、それを周囲の人たちの様々な優しさと支援があったお蔭で今の幸せを掴んでおり、それは分かっていたはずだった。

 なのに、いつしか俺は周囲に恵まれたことが仇となり、世の中は思いやりと正義の方向に向っているのだと言う錯覚を信じて疑いもしなくなっていた。


 まるで、地平線の彼方までがお花畑である丘の上で、日々を日向ぼっこで過ごすお気楽な住人であるかのように。

 

<つづく>


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