――に――する
お試し期間というのは大切だと、亜咲京香は思う。
化粧品にはテスターがあるし、パン屋さんやスーパーにも試食コーナーがある。
学力テストだって同じ。授業で「ああ、こういうものなんだ」と予習をしてからするものだ。
そういう京香だからだろうか。
「なら、俺と『お試し』で付き合ってみるか?」
佐屋鋭介の言葉に押されて『恋人体験』をすることになったのは。
あるいは、ただ気まずいタイミングで言われたので断りづらかっただけかもしれない。
校舎裏で、純朴そうな少年が震えた声で頭を下げた。
「亜咲先輩、僕と付き合ってください!」
亜咲京香は毎月のように告白される。
けれど、その『いきなり』感は何度言われても苦手だった。
「えーと、ごめんなさい」
「じゃ、じゃあ友達からでも!」
まあ、そう来るよね。
「友達なら」
「やっっった!」
IDの交換をする。
直後に、後輩らしい彼はメッセを送ってきた。目の前で送ることで「既読スルーはしないでくださいね」と強調したいのかもしれない。
でも――
「えーと、どの人かな?」
「え? いま送ったんだけど。届いてないですか?」
「そうじゃなくて。その……」
ウソをつくのは誠実じゃない。少し迷ったが、言うことにした。
「あなたと同時に三件……その、同じように告白してきて、お友達から、って男の子から、メッセ来ちゃったから……」
「……そ、そう、ですか」
顔を引きつらせた彼は、去っていった。寂しそうに。
申し訳ないとは思ったが、もう慣れてしまった。
亜咲京香は、モテる。
謙遜はしない。
自分は、かわいい。
目は大きくて美人系で、笑うと幼く見えるらしい。
ゲームで夜更かしした翌日だって肌はすべすべ。間食しても手足はすらっと細くて、お腹もくびれてる。その割に胸やお尻にはちゃんと栄養が行っているみたいで、男女のどちらからも「いいなあ」と言われる。たぶんキャプテンをしていた中学時代のバスケが良かったのだろうと考えている。筋肉と脂肪のバランスとか、そういうの。
街を歩けば読モにスカウトされない日はない。校内新聞に偶然テレビで活躍するトップアイドルの写真と自分の写真が並んでいたとき、男子たちはコッソリ京香だけを撮影していた。
高校生活一年で、校内男子の半数くらいは『友達』になってしまった。
最近は、後輩から声をかけられることも増えた。
それだけに、問題もたくさんある。
「はぁ……困ったなー」
メッセアプリは秒単位で忙しく動作するから、通知は切ってしまった。もともとメッセをあまりしない方だから、返信しなくなった相手も多い。
数少ない女友達にも、それ以外の女子からも、陰でいろいろ言われている。幸い明るめの校風もあって、イジメとか、そこまではいかないけど。
「いっそ誰かと付き合っちゃえばいいのかもしれないけど……なー」
好きな人はいない。
小学校くらいの頃は運動ができる男の子に「かっこいい」と思うことはあった。
中学では部活に熱中していて、そういう余裕はなかった。
高校では、勉強と遊びをしようと考えていたら、あっという間にこの状況だ。
ようは、経験値不足なのだ。
「男の子って、よくわかんないしなぁ。わたし、練習してから本番ってタイプなんですよねー……」
贅沢な悩みなのだろう。
恋愛したいとかしたくないとか。
彼氏がいるとかいらないとか。
男が嫌いとか怖いとか。
面倒とか選り好みとか。
そういうことじゃなくて。
「なんというか――心の準備をしてから、恋がしてみたい」
特定の誰かと遊ぶにしても、困ってしまう。
「お友達から仲良くなって……っていうのも、これだけ多いと、なんか……角が立つっていうか」
趣味や考え方の話題になると『おれもそれ好きだよ!』とか『そうそう! すっげーわかる!』とか、みんな同じようなことを言い始めるのだ。
中には語り始めると止まらなかったり、お説教みたいなことを言い出したり。
優しそうな人もいたり。面白そうな人もいたり。
こうなると、なにを基準に決めればいいのか解らない。
うーん、と唸っていたとき。
佐屋鋭介に、声をかけられたのだ。
「なら、俺とお試しで付き合ってみるか?」
まさか校舎裏に人がいたとは。
木陰から彼が現れたとき、最初は「誰だろう」と思った。
背は高い。京香がバスケをしていた頃はもっと高い人もいたが、平均よりは大きいだろう。
見覚えがなかった。一年生だろうか。
「三年の佐野鋭介。転校生だよ。先週から。だからきみのことも初めて見た」
「ど、どうも佐野センパイ。亜咲京香です。校舎裏で、なにをしてたんですか」
「昼休みだし、探検」
小学生みたいなことを言い出した。
「まだ友達もいないし、校内がどうなってるかもあんまり知らないから。サボれるような場所あるのかなーって思って」
素行が悪い方の小学生みたいなことを気だるげに言う。
「はあ、そうですか……それで『お試し』のお付き合い、って?」
「きみ自分で言ってたじゃん。『練習してから本番ってタイプ』って」
ずっと聞かれていたらしい。
告白も。独り言も。
正直、かなり恥ずかしかった。
「い、言いましたけど。そうじゃなくて……わたしはこうしていきなり告白されるのとか、そういうのがニガテなんです。だから……」
「いや、コクってはいねーよ」
「…………はい?」
よく見れば、肩幅もがっしりしている。『男の人』という感じ。
「言ったろ。俺、転校生なの。友達もまだいねーの。かといってもう三年だろ。今から誰かと仲良くなるの、あんま時間もないし。でも思春期のコーコーセーだし。まあ、なんだ……」
顔は小顔で、眠たげに細めた目は、ちょっとセクシーだなと思った。
「てっとり早く、青春っぽいことできる相手いねーかなーと思ってたんだよ」
なんだそれは。
「それ……誰でもいい、ってこと?」
明け透けな言葉に、敬語も忘れてしまった。
「そ。だから『恋人ごっこ』しようぜ。Win―Winの関係だろ」
なんて人だ。
不誠実で、軽薄ではないか。
けれど欠伸をしながら首を掻く仕草は、あまりにも自然だった。本気で言ってるのだろう。
「誰でもいいなんて、そんなの、ヘン。よく考えて……『この人だ』って相手とじゃないと……」
「きみはモテるからそう言えるんじゃないの?」
ズバズバと切り込んでくる鋭介に、京香は言葉を詰まらせた。
そうかもしれない。
「いっそ誰かと」「なにを基準に決めればいいのか」という自分もまた『誰でもいい』のは同じだ。
「誠実ぶって選ぼうとしていたのは、後ろめたい気持ちを隠したかっただけ。みたいな」
「だ、だとしても! お……お友達からじゃダメなんですか?」
「ダメなのは、きみだろ。『お友達』、さっきの奴で何人目よ」
「うっ……」
「なんだっけ? 『心の準備をしてから――』」
「わー! やめてください!
あぁ、まさか聞かれているとは。
京香は頭を抱えてしまった。一生の不覚だ。それも、こんな――こんな人に。
いままで京香に告白してきた男子は、緊張して下手に出てくるか、自信たっぷり高圧的に来るか、だいたいどちらかだった。佐野はその誰とも違っていた。
だからだろうか。
「……いいです。やってみましょう。『お試し』」
興味を、持った。
「んじゃ、よろしくな……えーと、きみ、名前は?」
態度が雑な先輩――というのが、第一印象だった。
「佐野センパイ、あくまで『うそ』の、お試し期間ですから。過激なのはナシですよ」
「解ったよ亜咲。これで学校生活も退屈しなくて済む。けど期間ってどのくらいだ?」
「一ヶ月くらいでいいんじゃないですか?」
と交わしてその日は別れたものの、登校後、京香はだいたい女子グループとともに過ごす。
運動部の『強い』女子とワイワイ話すのが好きで、グループメンバーの中にあまり男子は入ってこない。強引に来る相手には、グループの何人かが「は?」という態度で追い返す。
必然的に、佐野鋭介と京香が接触するのは放課後となった。
部活動のチャイムが鳴るころ、二人は校舎裏に集合していた。帰宅部なのは同じらしい。
今日から『お試し期間』だ。
二度目の顔合わせ。鋭介は臆面もなく言ってきた。
「よお、デートしようぜ」
「そうですね。しましょうか」
そっちがそう来るなら。京香も堂々と言い返す。
「つっても、どういうのがデートになんの?」
「……うーん?」
「ネットでそういうの載ってんのかな」
「ネットで探すだけって、恋人ごっこっぽくなくないですか」
「図書室とか調べてみるか?」
「じゃあ、今日はそれで」
なんともぞんざいなプランである。
ぺたぺたとのんびり廊下を進んでいく鋭介と、一メートルほど隣で背筋を伸ばして歩む京香。
連れ立っているのかさえ微妙な距離感。照れもなければ、気負いもない。
誰も二人が『お試し期間中』とは思わないだろう。
図書室に人はまばらだった。
ポニーテールを揺らす、どちらかというと快活な雰囲気の少女が京香に気づいて顔を上げた。
「あれキョウちゃん。どしたん?」
「秋野さん、ちょっと調べ物を」
「友達か?」
「そうです。図書委員の秋野さん。仲いいんですよ」
「いたのか、女子の友達も。亜咲に?」
「……失礼ですね、センパイ」
「キョウちゃん。誰このひと。三年?」
どう答えたものか。
京香が困っていると。
「俺と亜咲はガラスみたいな関係だよ」
「ガラス?」
「固体なのか液体なのかハッキリしないだろ。あとパリンって割れたら終わり。そういう感じ」
秋野はポカンとして二人を見比べる。
「……どゆこと?」
「あはは……えーと、暫定ボーイフレンドって感じ、かな?」
「え――――ッ!?」
叫んだ秋野へ、周囲の生徒が「うるせーな」の視線を向けた。
「わーごめん、ごめんなさい。わざとじゃないんです。でも、えー……」
「秋野さん、デートスポットとか載ってるような雑誌ってある?」
「ある、けど……」
「どこだ?」
「情報誌系は、あっちの棚、です……」
大口を開けた図書委員を放置し、鋭介と京香は目についた雑誌を開くと、図書室の一角で読み始めた。
「ここなんかどうだ?」
「あ、美味しそうなお店ですね」
「む、高いな」
「バイトとかしてないんですか?」
「前のガッコではしてたけど」
「接客とか、できるんですか。佐野センパイが?」
「……失礼だな、亜咲」
「だっていきなりガラスがどうとか微妙な喩え言い出すような人ですし……やってたんですか接客?」
「……夏休みに、プールの監視員」
「接客じゃないじゃないですか」
「うるさいな。さっきの喩えは絶妙だっただろ。理数系っぽいだろ」
「すごく馬鹿っぽかったです」
肩を寄せながらブツブツと雑誌を読む二人を、秋野が信じられないといった表情で眺めていた。
そうして、週末の初デート。
「可もなく不可もなく」
「可もなく不可もなく」
互いの格好を見るなり、京香と鋭介は同音異句に言った。
京香は動きやすいTシャツにデニムパンツといったスポーティなスタイル。
「スカートとか、ワンピースとか、肩出しとか、もっと女子っぽいの着てくるかと思った」
「そういうジェンダーの押し付け、良くないと思います」
鋭介は英字がプリントされたTシャツ(よく読むと意味不明な文章のやつ)にパーカー、ダメージ加工のジーンズといったラフなスタイル。
「近所のコンビニに行くみたいですね。ネックレスとかアクセ付けないんですか。あとタンクトップで鎖骨とか上腕二頭筋とか見せてくれると嬉しいんですけど」
「きみ意外と破廉恥なことを図々しく言うね」
ともに拍子抜けし合って、とりあえず雑誌で読んだ場所へ向かう。ぺたぺた歩く鋭介の隣、一メートルほど距離を開けて。
多国籍な雰囲気が漂う街中、赤い差し色の軒先屋根がアクセントのレストランへ入る。
「カジュアルフレンチで、オムレツがすごいんですって」
「すごい?」
「ふわふわなんです」
注文が届くと、なるほど黄金色のオムレツは、
「――すごいな!」
ぷっくりと中身が詰まった外側をそっとなぞれば、中から泡状――スムージーのような卵が溢れてくる。
「食感も不思議ですねー」
もぐもぐ、ごくんと咀嚼して口元を押さえながら京香が述べると、
「すごい。すごいなこれ」
「センパイ、語彙力死んでます」
「だってすごいぞこれ」
セットで出てきたトマト鍋をソース代わりにオムレツをがつがつと食べていく鋭介。豪快な食べっぷりは『フレンチオムレツ』というより玉子丼でも食べているようだったが、夢中になっている様子が面白くて、京香は笑ってしまった。
「子供みたいですね、センパイ」
「あ、でもけっこう飽きてきた。もういいかも」
「……子供じゃないんですから」
ランチのあとは近くの遊園地に足を運んだ。
「このマスコットキャラ、顔面から手足と謎の球体が生えてるの若干キモくないですか」
「謎の球体じゃない。観覧車のカゴをデザインした球体だ。かわいいだろコイツ」
「えーそうかな~」
「かわいいって」
なぜかマスコットキャラのかわいさを豪語する鋭介を「背中にチャックがありますね」「やめろォー!」「どこから見てるんですかコレ。あ、この覗き穴ですかね?」「夢を壊すなァ!」とからかってから、観覧車の列に並ぶ。
「あれ? おまえ転校生……佐屋、だっけ」
「京香さんじゃないですかァ」
メガネを掛けた華奢な男子と、小動物みたいな小柄な女子が、同じ列に並んでいた。
腕を組んでぴったり寄り添った男女に、ぺこっと京香は頭を下げる。
「久森さんと……彼氏さんですか?」
「そうですゥ。私のハニー」
「どうも亜咲さん。三年の一ノ瀬……っていうか佐屋おまえ、え……?」
「ん、たしか同じクラス、だっけか」
鋭介はぴんとこない表情で、「三年の佐屋鋭介。後輩さん?」と久森へ会釈していた。
「ん、京香さん……この方ってェ……もしかして、もしかしますけどォ……」
「ああ、俺と亜咲はガ」
「それはもういいです。ええと、暫定ボーイフレンドみたいな」
「うえェェェェ――――!?」
「マジですかァ!? スッゴォい!」
男女ともに絶叫してしまった。周囲の家族客やカップルから「やべー奴らだな」と目を逸らされる。
「あァ違うんですゥつい叫んじゃっただけで……」
「そんな……おれが告ったときは完全に脈ナシだったのに……」
「は?」
「あ」
「ハニー今なんつったァ」
「やべっ……」
「私が初恋って言ってたろォがァ! ウソかテメェー!」
完全にやべー奴らであった。
あはは、と愛想笑いで他人のフリをしておいた。「じゃあ、順番来たから、乗るわ。また学校で」とぺたぺたのんびり進む鋭介の真後ろについて、京香もカゴへ入っていく。
向かい合わせで座り、
「これ、街全体が見えるらしいな」
「実はわたし高いとこあんまり好きじゃないんですけど」
「いま言うかそれ」
「弱点はなるべく言わない主義で」
「揺らしてやろうか」
「やったら思いきり殴りますよ」
と登っていく二人を、久森と一ノ瀬がこの世の終わりでも見たかのように呆然と眺めていた。
そんな風にして過ごしていたから当然、学校は大騒ぎになった。
「転校生ェ――――! ナニしてくれてんだぁ!」
「亜咲さんどういうこと! ほんとなのー!?」
登校した時点でクラス外からも大勢がやってきて、京香の机には男女がひしめく混乱状態。中にはもちろん『お友達』も何人かいた。
説明としては秋野や久森と同じ。『暫定ボーイフレンド』で話を通した。
経緯も根掘り葉掘り追求されたが、さすがにかわし続けた。そのうちに担任教師が来て、授業が始まる。
ホッと一息ついて、三年生の教室も同じようになっているのだろうかと疑問が浮かぶ。あのマイペースな鋭介の周りに人が集まって盛り上がる様は想像しづらいが。
(わたしと『お試し期間』やってる詳細まで話してないですよね)
もし言われていたら。
急に恥ずかしくなって、京香はその日の授業が頭に入ってこなかった。
「言うわけねーだろ。それとも言ってほしかったのか? 『なんというか――心の準備をしてから、』」
「わ~~~~」
校舎裏で慌てて鋭介の口を塞ぐ。
放課後、友人たちや『お友達』の好奇の目を避けるように鋭介と合流した京香は、問い詰めたことを後悔していた。
「くぅ、弱みを握られているー。きっとこれからもことあるごとにそれをネタに強請られるんですねわたし。センパイは極悪非道です……」
「……どう思われてるんだ俺は。安心しろよ。墓まで持っていってやるから」
「むむ、それはそれで悔しいというか、借りを作ったみたいですね……センパイ、過激なこととか要求してくるかと」
「するか。だいたい過激なことってなんだ過激なことって」
「なんか男の子ですし……したいのかと」
「学生だぞ俺たちは。というか、きみが禁止したんだろ」
拗ねたようにそっぽを向く鋭介に、ホッと胸を撫で下ろす。いろいろと安心した。
「それにしても、亜咲すごいのな、きみ」
「……なにがですか?」
「いや、人気が」
どうやら予想以上の問い詰めだったらしい。
「三年全体がこの話題で持ちきりでな。体育んとき、2組の奴らにまでガンガン来られてビビった」
そういえば校庭が騒がしかったときがあった。合同授業の三年生だったのか。
「着替え中で上半身裸だってのに『表へ出ろ。詳しく話さないなら力づくでも』とか言う奴いたし」
「あ、あはは……それは、なんというか」
「女子も女子で噂好きのギャルっぽい奴が机の上に座ってきて。おかげで俺の大事な教科書くんが尻で潰されたり」
京香を責めるようなニュアンスではなく、純粋に驚いているような口ぶり。
「まあそのおかげで、何人かID交換したり昼メシいっしょに食うようになったり、青春っぽさが加速したからいいけどな。さんきゅ」
眠たげな目が細められ、ヘラっと笑う。
むう。
簡単に言ってはいるが、三年の時期に転校してきて浮いていた人間にそれだけ周囲が殺到したというのは、けっこうなことだろう。
「その、先生に怒られたりしました?」
「ん? ああ、何度かあったな。俺だけじゃないけど」
「うー……」
直接的に京香が悪いわけではないのだが、ちょっと申し訳なかった。
「……佐屋センパイが言う『青春っぽいこと』。わたしにも、なにかひとつ、させてくださいよ。それで貸し借りナシにしましょう」
「いや、借りとか別にいいけど。つか喋る奴できたからチャラだって」
「わたしの気分の問題ですから。あ、でも過激なのはダメですから」
そこは大事だ。なにせ『お試し期間』なのだ。
翌日の昼休み、再び京香は「あんなこと言うんじゃなかった」と後悔することになった。
「……どーぞ、佐屋センパイ」
「おー、さんきゅ亜咲」
「味は、好みには合わないかもしれませんが」
三年生の教室に来るのは初めてだった。周囲の視線――男子からは絶望と当惑、女子からは期待とやっかみ――がこそばゆい。
が、京香は図太いタイプだと自分では思っている。なにも悪くない。これで貸し借りはナシ。
「じゃあ、わたしはこれで」
「どうせならいっしょに昼メシ食ってけよ。そっちは自分の弁当だろ」
しまった。置いてくるべきだった。
待って待っておれもいっしょに、どうぞ亜咲ちゃんここ座って、と机をつけてくる男子生徒たち。また大騒ぎだ。
「よくまあ、この状況で平然としてますね佐屋センパイ」
「いや衆人監視の中ひとりで食うのがキツいことに気づいたから、もうせっかくならきみも道連れに」
「なら『お弁当作って持ってきてほしい』とか言わなきゃいいじゃないですか……!」
「青春っぽいし、お弁当作る女子ってときめくじゃん」
「……じゃあ今度は逆にセンパイがわたしに作ってくださいよ」
「俺チャーハンしか作れないぜ」
ヘラヘラ。
サイテーです。
嫌そうに箸を動かす京香にむしろ他の男子生徒たちが気を遣って話しかけてくれた。遠巻きに女子の先輩たちからは「なにあの態度」と嫌味が聴こえたが、無視だ。
「ん、これめっちゃ美味いな。あ、こっちも好み」
そんな空気の中で唯一、佐屋鋭介だけマイペースなまま弁当に舌鼓を打っている。
「なあ、そっちの、木下さんだっけ。家庭科部って言ってたじゃん。この卵焼きの味ちょっと品評してみてくれよ」
「えー、なんでウチが?」
「いや、マジでこれイケると思うんだけど。転校初日に『料理のことは任せていい』って言ってたじゃん」
「……まあ、いいけど」
よりにもよって、さきほど嫌味を漏らした女子だ。ギャルっぽい派手な見た目の彼女を呼び寄せ、卵焼きを分ける鋭介。
「あ、美味しーかも」
「だろ。家庭科部的にはこれ、何点?」
「……85点、くらい」
「高いなー。木下さんはコレより料理うめーの?」
「いや……どうだろ。まあ、解んないけど」
「でもこれで85点か……やべーな家庭科部……家庭科部の全力とか胃袋溶けるんじゃねーの」
ヘラヘラと笑う鋭介に毒気を抜かれたか、木下は「ねえ、もう行っていい?」と、逃げるように去っていった。京香に対するピリピリとした視線が、若干白けて霧散した気がする。
(もしかして、わたしに気を遣った?)
密かに横目で見るが、隣の男子に「なあ、どこまでヤったの」「いやあくまで暫定ボーイフレンドだから俺。このイベントが今のフルパワー。てかまだ数日だし」「なんだ拍子抜け。でもよかったわーもっとガンガンいってるとか言われたら窓から飛んでた」「じゃあ一ノ瀬を窓から飛ばしたいときは『ガンガンいってる』ってウソつけばいいのか」「やめろ縁起でもない!」とゲラゲラ笑い合っている鋭介の様子は、どこまで計算しているのか解りづらかった。
なんとなく、負けた気分。
美味しいと言ってもらえたのが、嬉しいなんて。
そんな形で認知された京香と鋭介の関係。
放課後に会い、『青春っぽい』ことを試す。
ときどき休日にはデートとかしてみたり。
二週、三週目にはクラスメイトたちも慣れてくれたようで、二日に一度からかいの声がかかる程度に落ち着いていった。
「でもォ、なんか、色気がないですよねェ。私とハニーみたいに腕組んだりィ、指絡ませたりィ」
「そーやねえ。チューくらいせーへんの?」
秋野と久森が昼休み、デートの様子を尋ねてきたあと、言ってきた。
「しませんってば。あくまで暫定なので。そういう過激なのはナシー」
「過激ってェ……」
「キョウちゃんって……」
「……なに? なんですか?」
むっと睨むと、二人はイタズラをする子供のように顔を見合わせ、くすくす笑った。
してやられた感じがして、ちょっと不満。
その日の予定は鋭介を京香の家に招いて、二人で勉強をすることになっていた。
「俺『お試し期間』だけど、親にあいさつとかするモンなのかな」
「夕方にならないとお母さん帰ってこないですし、お父さんは仕事ですし、大丈夫じゃないですか?」
「……は? ちょ、きみ、亜咲んち、親いないの?」
「? そうですけど?」
玄関をくぐる際、鋭介は妙に緊張した様子だった。
部屋でテキストを広げてもらっている間、紅茶とケーキを用意する。
「着替えは――いいか。どうせ勉強するなら、制服のほうがそれっぽいでしょ」
入っていくと、座布団の上で胡座をかいて足を揺らす鋭介が、キョロキョロと部屋を見回していた。
「落ち着かないんですか?」
「……いや、そりゃそうだろ」
「ふふん。『女子の部屋に行ってみたい。青春っぽいだろ』とか余裕こいてたくせに」
「うるせーな。それよりきみ、棚にホラー映画とかアクション映画すげえ置いてあるんだけど」
「好きなんですよ。悪いです?」
京香が隣に座ると、鋭介はさらに身体を強張らせてしまった。
「……制服か」
「あれあれ? もしかして私服のほうが嬉しかったですか? 『青春っぽい』ですか~?」
「そっ、……そう、かもな。いや、別に制服でもいいけど」
「なんなら、今から着替えてきましょうか?」
「……どっちでもいいって」
「素直じゃないですねぇ」
内弁慶のきらいがある京香的には、ホームで相手が萎縮しているのは、少し楽しい。
「いつもセンパイのペースですからねー。かわいいとこあるじゃないですか」
それでもケーキを食べながら勉強を始めると、徐々に鋭介も状況に慣れてきたようだ。
「亜咲、そこ間違ってるぞ」
「え、どこですか?」
「問3。あといまやってるとこ、解答欄ズレてる」
「む……」
意外にも鋭介は成績優秀らしい。一時間もすると、二人で勉強というより京香の家庭教師をするような形になる。
「しかも解りやすい……」
「俺、教えるのウマいだろ」
京香も成績は中の上から上の下といった位置で決して悪くはないが、やはりそこは一学年上。
「ほれほれ、解けるかな。あと一〇秒」
調子に乗り始める鋭介が、隣で普段のニヤケ顔をしていた。むかつく。
(さっきまでは借りてきた猫みたいでかわいかったくせに……!)
このままではいけない。負けてなるものか。
そこでふと、思いついたことがあった。
「亜咲クン、それも解らんのかね。情けない生徒だ。わっはっは」
鋭介がペンを回す手と反対の手に、京香は――そっと、指で触れた。
ぴくり、と。笑いが止まる。
「センパイ……いえ、センセイ。どうしました? 次の問題、教えてくださいよ」
「お、おう」
声が裏返っていた。
「そこはだな……えー……なんだ……」
しどろもどろで、要領を得なくなった鋭介に、京香は内心ほくそ笑む。なるほど、この路線か。
「そう、そこはさっきの方程式を応用して――ッ!?」
きゅ、と。掌と掌を合わせるように。ほっそりした京香の指が、鋭介の指に絡む。
他人と手を組むのって、変な感じ。
何度か握ってみた。確かめるように。筋張っていて、ごつごつしている。京香の指はすらりと長いが、それよりもさらに鋭介のは長く、それに一本一本が大きい。ふっくらした掌は大型犬の肉球みたいで触り心地がよかった。
「あ……亜咲?」
鋭介の額に汗が浮かんでいる。頬をよく見ると、さきほどのケーキのクリーム跡が残っていた。
(やっぱり子供みたいですね)
いつもとは違う鋭介の雰囲気に気を良くした京香は目を細め、思わせぶりな笑みで反対の手を伸ばす。白い指は頬についたクリームを拭い、顎を撫でる。鋭介はたったそれだけで豆鉄砲を食らった鳩よろしく、目を丸くしていた。
面白い。
「セ・ン・パ・イ」
わざと、囁くように顔を近づけてやる。
鋭介の瞳の中、頬を染めた京香――自分が微笑んでいた。
――あ、これ……。
『でもォ、なんか、色気がないですよねェ。私とハニーみたいに腕組んだりィ、指絡ませたりィ』
『そーやねえ。チューくらいせーへんの?』
そうか、この体勢。
わたし、いま――
「亜咲」
彼の顔が近い。鋭介の熱が、囁く吐息が。触れてもいないのに、自分の中に入ってくる感覚。
近づいたのは、自分だ。
意識した瞬間、全身の血が燃えるような、目の前がちかちかするような、羞恥。
けれど、
「……そろそろ一ヶ月だな」
「……え?」
「『お試し期間』、だろ」
鋭介は、そう言ってテキストに目を落とした。
上がっていた熱が、急に冷えるような感覚。
「そう、ですね」
絡めていた手を離し、身を戻す。
弱い吐き気のような不快さが、胸のあたりで詰まった。
さっきまでの転がっていくような楽しさとか、悔しさとかが、一気に遠ざかっていく。スマホの電源がいいところでプツンと落ちてしまって、ふと充電器に挿し直すのもバカバカしく思えてくるのにも似た、どうでもいい感じ。
「佐屋センパイ、そろそろお母さん帰ってくるので、今日はもう」
「……ああ」
無言で立ち上がって鞄を肩にかけるその仕草。
いつもどおりのゆっくりした鋭介の動きが、不愉快だった。
早く出て行ってしまえ。
「じゃあ、また来週な。亜咲」
今日が週末だったことを、去り際の鋭介の言葉で思い出す。
逆に、その言い方は『休日には会わない』ということでもあった。
なぜか弱い吐き気だったものが喉まで上がってきて、鼻の奥が痛んだ。
月曜日。
「うぇ」
最悪だ。始まったらしい。手洗い場から出て、京香はため息をついた。あまり重いほうではないので、明日を乗り切れば大丈夫だ。とりあえず体育は見学にしてもらおう。
三限目は実験だ。準備室では学級委員の久森が器具の用意をしているはず。
手伝いに向かおうと曲がり角へ寄った瞬間、聞き慣れた声がした。
「へー! 木下って裁縫もイケんの!」
「やべーっしょ。ウチ意外性のオンナだから」
「カッコイイな」
「カッコイイかー? そうかー。しょうがねーなー。ウチそんなにイケメン?」
「イケメンイケメン。イケジョ」
「っつか女子にイケメンとか使うフツー! 佐屋クン、ちょっとヘンだわ! アハハ!」
親しげに笑う声は、いつかのギャルのものだ。あのときは低く、気だるげだったトーンがいまは印象がガラリと違っている。少女が動物とたわむれるときのような、無邪気で高い、それでいて嬉しそうな響き。
もうひとりは、佐屋鋭介。
「ウチ子守りとかも好きだしー、尽くすタイプよ。あとカラオケも好き」
「いまの流れでカラオケ言う必要ある?」
「大事っしょー。子守唄とかガンガン歌うから」
「ガンガン歌うもんか子守唄って?」
そのタイミングで、二人してゲラゲラと笑い合った。なにが琴線に触れたのか、たっぷり一〇秒以上もかけて。
「はーお腹痛い。死ぬ。あと減った。お腹へったー。まだ三限目だもんねー。早弁しよかな」
「やるなら俺もするわ。今日自分で作ってきたんだよ」
「え、それってこないだ言ってたチャーハン?」
「そう。俺それしか作れないから。本日の弁当はチャーハンとチャーハンとチャーハンだよ」
「チャーハンの達人じゃん! ちょっと食べてみたいなーウチも」
「いいよ。あとで分けるわ。代わりにそっちのもちょっとくれ」
「チャーハンオンリーじゃなくなるけどいいの? ウチもチャーハン作ってこようか?」
「チャーハン大好き人間みたいに言うな!」
廊下を歩いていく鋭介の腕を、木下が笑いながらバシバシ叩いてついていく。
京香は『隠れていた』曲がり角の柱を、コツンと蹴った。
「……青春っぽいこと、できてるじゃないですか」
その日、京香は早退することにした。理由は体調不良。
『昨日、体調不良で帰ったらしいけど大丈夫か?』
『平気です。それより日曜日で一ヶ月ですね』
『ちょうど休日だし、どっか出かけるか』
そんなメッセージで約束をしてから、京香はその週の放課後、校舎裏へは一度も行かなかった。
鋭介はそれについて特になにも訊いてこなかった。
きっと、そういうことなのだろう。
また気分が悪くなった。
日曜日。待ち合わせ場所に一〇分早く着いた京香は、カフェのガラスに全身を映してみた。
肩が大胆に出たワンピース。スカート丈はやや短め。
「……かわいー。さすがわたし」
少し寝不足で、肌が荒れている気がする。目も腫れてないか? 最低のブサイク顔だった。
「よぉ亜咲」
鋭介は二分一七秒遅れてやってきた。
「遅いですセンパイ」
「そうか?」
四九秒過ぎた時点で会ったら怒ってやろうと決めていたが、やめた。
鋭介は、新品のシルバーネックレスを提げ、タンクトップにパーカーを羽織った格好だった。
「おー、亜咲めっちゃいいな、今日」
「……いつもかわいいですよ、わたしは。それよりセンパイ、そのパーカー、前も着てませんでしたか」
「そうだっけ。よく覚えてるなー」
覚えてますとも。
ぺたぺた。背が高いわりに歩くのがゆっくりの鋭介の隣。五〇センチほどの距離を開けて。
ショッピングモールに入ると、鋭介は映画館のチケットを二枚取り出した。
「もらい物だけどな。なんでも観れるぜ」
京香は上映リストをちらりと一瞥する。
先日公開されたアクション映画は好きな俳優が出ている。先月公開されたホラー映画も終了間近だがまだ観ていない。
「じゃあ、これで」
「……恋愛モノ?」
「なんでも観ていいんでしょう?」
肩を竦める鋭介にチケットを一枚もらって、引き換えてもらった。あまりネットやテレビでも名前を聞かない、強く広告を打っていないタイプのタイトルだ。
「観終わったら昼メシにするか。調べてきてるから」
はい、と短く返す。
ドリンクを買って、入場から上映までの間、あまり京香と鋭介は会話をしなかった。
上映時間からしばらく予告編が流れ、先程上映リストに載っていた映画や、次の新作映画が紹介される。
ちらりと横目に覗くと、鋭介は眠たげな目でスクリーンを見つめていた。
そういえば、鋭介はどんな映画が好きなのだろう。訊いたことがなかった。
いつもヘラヘラしていて、こちらがなにを言ってものらりくらりとした態度だから、つい自分も張り合って突っかかっていた。
『青春っぽい』ことがしたい。と彼は言う。
けれど、それ以外のことはどう考えているのだろう。
佐屋鋭介は、亜咲京香をどう思っているのだろうか。
鋭介の顔が見えなくなる。
暗転。
映画が始まるのだ。
映画はジャンルとしてはラブ・ストーリーだった。
普段の京香があまり観ない類の作品である。
いつも観るものというと、敵のアジトが爆発する中でキスしたり、キスしてたら金切り音のBGMとともに殺されたりするタイプのやつ。
スクリーンで映し出されているのは、アメリカのキャリアウーマンが上司や同僚と競い合い仕事に追われる中、ふと立ち寄った古書店の店主に惹かれ、恋に落ちていくというもの。
ヒロインは優秀で、後輩にも頼られ、卑劣な同僚や上司を弁舌で倒していくタフな女性。
彼女が恋する店主は少し年上。ピリピリとした会社の男性と違って、自分の感性を育む時間を大事にする、ユーモアに溢れた人間だ。
「雨宿りの間、本を読みましょう」
「そんな暇なんてないわ」
「忙しいんだな。けれどヒールで地面を叩いて空を見上げていても、雨雲は去ってはくれないよ。お嬢ちゃん」
いままで強く生きてきたヒロインは最初、店主を馬鹿にするが、彼はそれを笑って受け流し、『お嬢ちゃん』と呼んで少女のように扱う。
悪戯っぽい、どこか少年のような雰囲気を持った男。強がっていたヒロインは徐々に可愛げと大人っぽさが同居した彼の態度が頭から離れなくなっていく。
「雨が降ったら踊らなきゃいけない。そういうものさ」
「誰もそんなことする人いないわ。子供じゃないんだから」
「素直にキスがしたいとも言えない女の子が、子供じゃないって? 冗談がうまいなキミは」
ヒロインはやり込められっぱなしなのが悔しくて、少女のように彼の腕に抱きつき、甘えてみる。生まれて初めてする『女の子』の行為に、自分自身で驚いていた。
「おいおい、みんな見ているぜ。エリートがそんな振る舞いをするもんじゃない」
「わたしは踊っているの。だって雨が降ってるんだもの」
彼女は対等でいたかったのだ。
けれど彼女は優秀さを買われ、本社へ呼び出されてしまう。
離れ離れになることを知り、自分の気持ちに苦しむヒロイン。彼の気持ちが解らないまま、引っ越すまでの期間をただ過ごしてしまう。
その間に、古書店には別の常連女性が入り浸り、彼と親密になっていく。
――素直に訊ければいいのに。あなたは、わたしのことが好き? わたしは――
古書店に向かう足が止まり、引き返す。そんな日々が続く。あれだけ楽しかった彼の隣で本を読む時間が、いまではつらく感じるから。
映画に見入る京香は、喉がカラカラになっていることに気づいた。
二人がすれ違い、場面が転換し落ち着いたところで、椅子に備え付けたドリンクホルダーへ手を伸ばす。
指先が触れたのは、ドリンクを握る鋭介の大きな手だった。
――ッ!!
心臓が跳ねた。
京香は映画に夢中になるあまり、逆側のドリンクホルダー――二人の間に置かれた鋭介のドリンクに手を伸ばしてしまったらしい。
反射的に固まって、引っ込めることもできず。鋭介の人差し指をつまむように、指先だけが触れている。
鋭介は気づいていないのだろうか。いや、さすがにそれはない。
隣を見ようと思ったが、スクリーンはクライマックスシーンに入ろうとしていた。
いま、自分はどんな顔をしているだろう。
彼がこちら――自分など見てもいなかったら?
ホラー映画を見ているときよりずっと、恐ろしくなった。
京香は、ゆっくり手を戻すことにした。
間違えたのは自分なのだ。
改めてドリンクを飲めばいい。
ただそれだけ。
『行くんだな。そう。ぼくはここにいる。キミはたまたまこの店に入ってきた。それだけだ』
『声をかけたのはぼくの方だから。「雨宿りの間、本を読みましょう」と言ったのはぼくだから』
『ぼくはそれ以上を望めない』
映画の中、古書店の店主が言う。
その瞬間、京香の手は大きな手に握られていた。
包み込むように。
空中で鋭介が京香の手を、引き留めていた。
映画のあらすじ、これからどうなるのか、そして自分は今日なにをするか。
全部、飛んだ。
鋭介の体温。男の子の熱さ。握られた場所が自分のものではないみたいに熱くなって、体が震えた。
自分の息遣い、筋肉の強張りまで、全部が彼に伝わってしまうのではないか。
考えて、京香の頭の中が真っ白になっていく。
時間にしてみれば、きっと二秒にも満たなかったであろう。
次のシーンに映るときには、もう京香の手は解放されている。
鋭介は手をドリンクに戻してしまっている。
映画の内容がそこから一切入ってこないまま、上映が終わった。
「今日の昼メシはイタリアンな。俺イタ飯って好きでさ」
「また子供みたいに途中で飽きたりしないでくださいよ?」
「大丈夫大丈夫。むしろ亜咲のやつも食い尽くすくらい食べるから。だからくれ」
「あげません。子供みたいなこと言わないでください」
映画館を出るとき、鋭介はいつもどおり眠たげな顔のまま京香をランチへ誘った。
ラストシーンの記憶がない。
もしかして、途中で自分は寝てしまったのではないだろうか。
あれは夢だったのではなかろうか。
そんな風に考え、普段どおりに接することにした。
「パスタってスプーン使うの、本場だと子供だけらしいぞ」
「それ、けっこう眉唾らしいですよ。海外だと人や場所によっていろんな食べ方があるから、普通だそうです」
「そうなの? めっちゃ頑張ってスプーン使わないようにしてたんだけど俺」
「さっきから全然食べれてないのはそういうことですか……いいからスプーン使ってください」
呆れた京香は、器用にフォークだけで一口分、ぱくりと頬張る。トマトの酸味が喉を滑り、多幸感が頭に広がっていく。味で頭がスッキリするにつれ、会話も弾んでいった。
「予告編でやってた恐竜のやつ、面白そうでしたね」
「恐竜動物園って感じの。すげえ爆発してたな」
「爆発好きですもん、わたし。センパイは動物園は好きですか?」
「好き……とか嫌いとか、どうだろうな。動物園は小学校のとき以来行ってない」
「少し歩きますけど、たしか小さな動物園あるらしいですよ。行ってみますか」
他愛のない話をしながら、動物園まで歩いた。
京香にとっても久しぶりの動物園は規模は大きくなかったが、多様な動物が愛らしく、つい笑顔がこぼれた。
歩くのも、話すのも、観るのも、すべてが楽しくて。
「楽しいな、亜咲」
同じように思ってくれたのが、嬉しくて。
けれど、今日がどういう日なのか。
日が落ちていけば、思い出さざるを得なかった。
「さっきの鳥、センパイの顔に似てましたね」
「その前のタヌキはきみにそっくりだったな」
「かわいいってことですか? それほどでもありますけど」
「敵わないな、ほんと」
駅に着くと、鋭介は足を止めた。そのまま京香が進めば、きっと彼は着いてこない。
「ねえ、センパイ」
振り向く京香は、にっこり笑う。
「そういえば、わたし借りが一個あったと思うんです。センパイに」
「ああ、弁当のやつだろ? あれはチャラって言ってたじゃん」
「んーん。違います。そのあと。わたしが三年生のクラスで気まずい感じだったの、助け舟出してくれたでしょ」
「覚えてないな」
とぼけた顔で、ヘラヘラと笑う鋭介。
「っていうか、あれは俺が無理矢理いてくれって言ったからだろ。だからそれもチャラだ」
口の減らない人だ。おとなしくノってくれればいいものを。
「じゃあさらにそのあとです。勉強教えてくれたじゃないですか。わたしの家で。カテキョのセンセイ」
「ああ……うん」
その日のことを思い出したのか、気まずそうに顔を逸らす鋭介。
「だから、『最後』に……青春っぽいこと、しません?」
後ろで両手を組んで、力を込める。崩れそうになる笑顔を、保つ。
「センパイ、わたしに、なにか、してほしいこと…………ない、ですか?」
声が震えた。
「…………そうだな」
首をかしげて考えるような仕草。鋭介らしい、ゆったりした動作。いつもぺたぺたと歩いて、速度もゆっくり。まるで――京香に合わせるみたいな遅さ。
「じゃあさ。一回…………名前で呼び合ってみたい。どうだ?」
そうやって、『少しだけ』付き合ってくれるところが、彼のいいところだ。
「いいですね。名前のあとには、なにか付けます?」
「お好きなように」
「じゃあ、そうしましょう。お互いに」
パスケースを片手に、京香はこの日いちばんの顔で笑った。
「さよなら。鋭介さん」
「じゃあな。京香」
片手を上げて、鋭介は眠たげに手を振って笑った。
電子音を鳴らし、京香は改札を通り抜けた。くるりと背を向けた彼女は振り返ることなく、電車へ乗って。
そうして『お試し期間』は終わった。
秋野と久森が「あれ?」と京香の顔をジロジロと眺めてくる。
「どうしたの、ふたりとも」
「いやァ、どうしたのって……」
「そりゃこっちの台詞……」
「ちょっと寝不足なんですよ。ゲームやりすぎちゃって」
それ以上は、彼女たちもなにも訊いてこなかった。
「ちょっと返信溜めちゃってるので、いまサクッと打っちゃいます」
端末を開き『友達』たちから届いたメッセに返信しただけで、始業前の時間は終わってしまった。なにせ数が多い。
休み時間の合間、テキストを開く。
もうすぐ期末テストがあるのだ。
勉強は得意な方だし、この間ここまでは先んじて予習していた。教え方が上手かったため、もう少し先の勉強もできそうだった。
「あ、久森さん、よかったら卵焼き食べてみてください。味見」
「イケますねェ。私も今度ハニーに作ってあげようかなァ」
昼休みには手製の弁当を食べた。料理はどこか数学や科学と似ていて、予習・復習が大切だ。
京香はこのところ料理にハマっていて、けっこう美味くなってきたと自負している。
「秋野さんも一口食べますか?」
「……も、もらおかな」
慌てた様子の秋野の視線につられ、校庭へ目をやった。ああ、なるほど。
「ご、ごめんキョウちゃん」
「気にしなくていいですよ。それよりほら、あーんしてください、あーん」
校庭には大声で笑う三年生が、体育の片付けを終えて校舎へ帰る様子が見えていた。
背の高い男子と、友人らしい何人かの男女。
ギャルっぽい見た目の少女も、彼らと親しげに歩いていた。
期末テストが終わって、生徒たちの間には気が抜けたような空気が流れていた。
点数に一喜一憂する者、早速繁華街へ遊びに行く者、部活に打ち込む者。
(そんな中で、不審者みたい。わたし)
よく眺めてみると校舎裏はジメジメとしていて、あまり居心地のいい場所ではなかった。
放課後、部活動のチャイムが鳴るころ。
京香はひとり、そこにいた。
唇を舌で触る。
口の中と同じく、乾いていた。リップクリームは鞄の中だ。
仕方がないので、呟いてみる。
落ち着こう。
「メッセって、一個一個に返すの、けっこう疲れるんだなあ」
独り言が、地面に吸い込まれる。
みんな、いい人だから。しんどかったが、それでも、自分の義務だろうと思った。
背後で足音。
「よお」
顔を上げる。
自分は――亜咲京香はかわいい。とてもかわいい。
そのはずなのに、泣きそうになっている。
だめだ。深呼吸。
「……今度、チャーハン食べてみたいです。わたしも」
「なんの話だ?」
ああ、しまった。違う。こんなこと言いたいんじゃない。
あの映画は、どうやって終わったのだったか。
古書店の店主は、ヒロインとは別の女性に言い寄られていた。たしか、ヒロインはその女性について最後まで彼にどういう関係なのか訊けなかったのだ――怖くて。
我慢できずに出てしまった涙を拭いて、振り向いた。
関係ない。
自分が、言うか、言わないかだ。
だって自分は、たくさんそうしてもらってきたじゃないか。
お試し期間というのは大切だと、亜咲京香は思う。
化粧品にはテスターがあるし、パン屋さんやスーパーにも試食コーナーがある。
学力テストだって同じ。授業で「ああ、こういうものなんだ」と予習をしてからするものだ。
お試しが終われば、本番がある。
どうせなら、これも練習しておけばよかった。
心の準備は、終わっているはずなのに。
胸が苦しい。
「センパイ。わたしと――」
恋愛モノも書いてみたかった。
ちょっと重めの女の子と、ちょっと軽めの恋愛を。
そんなコンセプトで書いてみましたが、いかがでしょうか。
文章上の表記が主人公の二人以外は名前ではなく苗字となって混在していますが、モブだからということでひとつ……
ちなみに木下さんには本編登場前から彼氏がいます。
公言もしているので、佐屋くんたち三年生はけっこう知っています。