2. 神と、狭間で
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20170314-3017Vel17
何処からか、ゴーン、ゴーンと、何か大きな、硬い物がぶつかる音が、規則的なリズムで聞こえてくる。一番近いのは除夜の鐘の音だろうか、その音が目覚ましの代わりになったのだろう、ゆっくりと意識が暗闇から浮上していく。
「そろそろ目を覚ました方がええの」
そんな声が、頭に響いた。
その事が切っ掛けになったのか、俺の意識が暗い水面から顔を出す。そして意識戻ると同時に、視界もゆっくりと広がっていった。
そこは不思議な空間だった。
周囲を見渡してみれば、自分は満点の星空の中に浮かんでいるように感じる。ただ、その星空を構成する星の一つ一つは、様々な形の扉であるが。
一軒家のドア。マンションの部屋のドア。洋館の古めかしい両開きの扉。大きなガラス張りの回転扉。ヨーロッパの城にあるような城門から、牢屋のものだろうか、鉄格子まである。様々な形、様々な色を持つ扉が、仄かな光を持ち、時に明滅し、時に激しく光り輝きながら無数に存在し星空を形作っていた。
(ここ、どこだ、星が、綺麗だ。去年愛子と行ったクリスマスのイルミネーションみたいだな。綺麗だった。愛子)
まだ夢見心地な意識の中で、妻の事を思い出したと景色を眺め…
(そうだ! 愛子! 揺れ! 光が、あと俺の腕と足っ!)
手足をバタバタさせようとするが身体の感覚は無く、痛みさえもない。
ただ目に見える夜空ですだけがグルグルと回転するのみだった。
(身体がない? じゃあ、俺は、やっぱりあの時死んで……)
「現状把握はすんだかの?」
声が、上から降ってくる。どちららが上か下かも分からないが、取り敢えずそちらを見上げる様に意識して見ると、扉の星空に、大きな船体が浮かんでいるのが見えた。何故今まで気付いてなかったのか不思議な程の、異様な大きさだ。
「こっちに来るのじゃ、舳先の方じゃよ。といってもその姿だときついかの?ちょっと待つがいい」
そう声が聞こえて直ぐに、視界の全ての星が流れ星に変わる。
「うおお!?」
思わず目を瞑り、ジェットコースターに乗った様な浮遊感に耐える事数瞬、両足の裏に硬い感触を感じて、恐る恐る目を開ける。
「ここは、船の上? 足が、ある! 手も!」
腕も足も、ついでに服まで、今日家を出たそのままだ。驚きながらも、足から伝わる感触に安堵する。
「ほっほ。やはり人間は体が無いと話し辛かろうしな。因みにさっきまではこんなんじゃったよ。」
体を確かめていた視線を上げる。
目の前には、豊かな白髪と白髭、長身でがっしりとした体格だ。傷一つない、まるで西洋の騎士のような白銀の鎧を着た老人が、優しい笑みを此方に向けている。
体格のせいか鎧のせいか、若干の威圧感を感じる。
老人は、胸の前でバレーボール位の大きさの光る珠を浮かせていた。
(勇ましいサンタクロース、みたいだ、後アレに似てる。ガキの頃集めてた、チョコのおまけのレアシールの)
「ちなみに儂の姿は、お主が考えるさいきょうのかみ、と言ったものじゃからな」
(おっと、心も読まれているらしい)
びくっとして、姿勢を正し、腰を折って礼をする。
「案内していただいて、ありがとうございます。神様。で、良いですかね?」
光る珠を手の中に吸収するかのように消した神は、ゆっくりと頷く。
「如何にも、儂が、お主の世界の神である。と言っても、信じる信じないはお主しだいじゃよ。『初めまして』と、お主感覚ではなるのかの、我が子よ」
きっと、会ったことが在るのだろう。多分、生まれる前に。
「そう、ですね。初めまして。それでその、ここは、何処なのでしょうか? 地獄か、天国か、死後の世界の裁判所か……それに、私が死ぬ前のあの揺れでの被害は、どうなのでしょうか? 近くに家があるんです。中には妻もいたはずで、妻はどうなったのでしょうか、それで私はこれからどうなるのでしょうか」
矢継ぎ早な質問を聞き、老人の優しげな目が少し開かれる。
「大丈夫じゃ、まず、あの揺れは魔方陣を踏んだものしか知覚できん類いのもんじゃ、物理的に周囲には何の影響もないわい」
答えを聞き、思わず大きく息を吐いて安堵した。溜息と共に、考えている事まで口に出る。
「はぁ……良かった……ほんと、良かった。」
ただ、妻の安全が分かっただけで、自身の身の上は死んだと言う事は間違いなさそうだ。異常な空間、異常な船、異常な自分の状態を確認するかのように、両手を見た。
(いや、万事良くは、ないか、多分、俺は死んだのだろうし。愛子が無事なのは、良かったけど、俺はこれから、どうなるのか)
「まあ、最良ではないのう」
「はは……やっぱり、読まれてますね。心」
苦笑いをした顔に、神も苦笑いで応える。
「殆ど最初から分かっておったろうに。さて、お主の質問にもあったが、一つずつ話そうかの。今の状況。ここは何処か。お主はどうなるのか。まあ、余り時間はないが」
深呼吸し、覚悟を決める。
「……はい、宜しくお願いします。」
「うむ。さて、今の状況じゃが。死ぬ前にお主が思っていたことは、ほぼ、そのままじゃな。異世界転移。その巻き込まれというやつじゃ」
(やっぱりか…、ある意味予想通りの答えだ。だけど)
「両腕と左足だけとはまた、中途半端ですね。おかげで転移前に死亡しました」
もう、乾いた笑いしかでない。
「うむ、だが、あの魔法の効果は肉体の転移だけではない。触れたものの魂も、向こうに持っていくのだ」
「え? なら、私はもう、異世界にいると言うことでしょうか?」
「ふむ……、異世界と言えば異世界じゃが、この後お主が連れていかれる場所ではないの。ここは次元の狭間。無数にある世界と世界の隙間じゃな。人の身でも分かりやすいように、お主の感じる認識は変えておるがの」
「と、言うことは、まさか、あの扉は全て、別の世界に?」
豪勢なのから粗末な扉まで様々な扉を見つめる。そして鉄格子はなんとなく行きたくない。
「左様、まあ、簡単には移動は出来んし、出来たとして適当に扉を開けても、高確率で別の世界の宇宙空間だろうがのう」
(面積的にそうだろうけども。だけど、今はそれより……)
「私は今、魔法によって運ばれている途中、と言うことでしょうか?そして、向こうに魔法によって飛ばされると言う事は。行く先は、剣と魔法のファンタジーですか」
「その質問の答えは、どちらも是である。お主には今現在魔法が発動中じゃ。詳しくは向こうに行った時に向こうの神から説明があるだろうが、お主の予想通り、剣と魔法のファンタジー世界じゃよ」
神は頷き、そしてさらに続ける。
「そして、いまお主にかかっている魔法には、向こうの神々の力も含まれておる。情けない事ではあるが、儂としては自分の世界の時間を止め、被害がより少なくなるようにするのが精一杯じゃよ。あれに触れたものを、この狭間に留めることすら永くは持たぬ。無理に留めようとする事も出来るが…お主の魂で神が綱引きをするようなもんじゃぞ」
結果は聴かなくても大体分かる。引き裂かれるだけではすまなそうだ。
「あの三人組は体ごと、私は魂だけアブダクションされるだけですか……」
「三人組の方は、予定されておったからのう」
「は?」
つい、声に出た言葉も表情も、恐らく神の前で見せるものではなかったろう。
「それは、神様同士で取り決めた上で、選ばれた人間の人格を無視し拉致したと、言うことでしょうか。そんな理不尽が私達を襲ったと?」
最期にみた、光に包まれていく黒髪の少女の顔と声を思い出した。そして、その前の、青春を謳歌していたであろう三人組の顔も。
「その通りじゃな。今回も、事前に向こうの創造神との綿密な打ち合わせによって実現した事じゃ。ただし、予定では地球の時間で後30秒は後だった。30秒後、道路横断中に暴走車に撥ねられての三人は事故死。そして、それがあの三人の寿命だったのじゃよ。儂の世界での寿命、と言う事だがな。だが異世界からの召喚により、跳ねられる直前に転移。そういう予定であったのだ。儂が変えられぬ我が子達の死の運命を他の世界の力で変える。異世界転移元々はそういうものでもあるの。そして、その場合はお主は巻き込まれては居なかった」
そこまで一気に喋り、神の表情が曇る。
「人と同じように、神も、世界も、ただ存在すると言うことはない。全ては、関係し影響しあっておる。我が子よ。そしてそれは、神のルールでもある。神と神の意思、世界と世界の相性、距離、時間的なタイミング、そして飛ぶ人間の魂の相性等、様々な要素が絡み、世界間の移動は実現する。そして実現しなければ、滅びた世界もまた無数にあるのだ。無論、儂の世界も」
「なんとなく、理解はしますが、その立場に巻き込まれた身としては、納得は、出来かねます。」
「そう強く感じる価値観の者は、そもそも選ばれることもないんじゃが、な」
聞き分けの無い子供に向けるような苦笑いだ。
(心を読まれている以上、取り繕っても、無駄だが、感情的になりすぎたぞ、俺)
直立し、腰を曲げ、頭を下げる。
「すいません。何も知らないのに、感情で話してしまいました。お許し下さい」
「いや、儂も、飛ばされる立場であればそう思うだろう。それに、さらわれた側の世界の力というべき物は減るのだからな。世界を止めるエネルギーも、そして魔法の進行を緩めるエネルギーも無限ではないしの」
その言葉に呼応するかのようなタイミングだった。
突如、遥か頭上に、今いる巨大な船がまるごと入りそうな、とてつもない大きさの、鉄の両開きの扉が現れた。もう既に半分ほど開いており、ゴーン、ゴーンと、扉が大きな物で叩かれるような音が聞こえ、音とともに扉の向こうが発光している。
この音は、目覚めた時から聞こえる音だ。
「これは、まさか、私が行く世界の、入り口?」
頭上の扉を見上げ、次いで神を見ると、神は頷いた。
「うむ。だがまだ少しの時間はある。お主への贈り物もな。いきなり連れていかせはせんよ。そしてその扉は、入り口であり、出口じゃな。向こうで死ねば、魂は挟間を通り、儂の世界に戻る。そして此方の輪廻に再び加わるのじゃ。死んだ時に此方に戻るか、向こうの輪廻に混じるか、選択はできるがの」
その言葉に、目が細くなり、ぴくり、と体が震えた。希望が見えた気がした。恐ろしく後ろ向きな希望だったが。
「私の魂が行くのは確定、だが死ねば戻れる、と?」
「その通りじゃ。だが、こちらで死んだ時と輪廻に至る過程は同じとなる。死んで魂がこちらに戻った場合は、記憶を失い来世に旅立つ。残酷かもしれんが、儂は儂の世界のルールは自分で乱すわけにはいかぬでな」
言葉を聞き、俯き、考える。指を顎に添えるのは、小さい頃からの癖だ。某考える人の真似をした時、幼稚園で愛子に「カッコいい」と誉められて調子に乗って続けていたら、そのまま癖になってしまった。
(向こうでの死亡はこちらでの死亡と同じ事。愛子にはもう、会えない。だが生きたままこちらに戻れば?)
「そう、生きたまま儂の前に現れれば、その限りではない。神の名において、異世界の魔法に巻き込まれた不幸な魂を身体に戻してみせよう。だが、人の身で、生きたままで、この場所に戻ってくるのは未だ嘗て無い、とは言わんがな。ほんの一握りじゃよ。今からお主が行く世界からの生還者は、一人しかおらぬ」
「因みに巻き込まれ込みで、他の世界に行ったのは何人ですかね?」
「一万人は超えとるの。全て同じ世界に飛んだわけではではないが。魂だけ戻って来たのが7割、残りのものは、他の世界が気に入ったのか、魂も戻らぬよ」
(もう一度、愛子に会える可能性が、ある)
神の言葉に、希望を見出だした自分の様子を見て、神が語りかけてくる。
「儂としては、儂の世界でも、向こうの世界でも、我が子が幸せであれば、嬉しいのじゃがな。余り無茶をして苦しんでほしくもない。巻き込まれたの者も、選ばれた者もじゃ」
「私は、愛子のいるこちらの世界で幸せになりたいのですよ。現に幸せだったと思います。そして、まだ可能性があるのに、その幸せを手放す気はないんです」
「そう言ってくれるのは神としては嬉しいがの、その割には愚痴が多い毎日じゃったようだが」
「仕事はまあ、それはそれ。嫁がいればオールオーケーです」
確かに嫌なことも、沢山あった。楽しい事や幸せな事の何倍も、数だけなら有ったと思う。毎週月曜日の朝は今でも嫌だし、毎日の仕事も落ち込んだり疲れたり。けれど家には愛子がいて、それだけで楽しい事、幸せな事の質なら、圧倒的に幸せが勝っていた。
神の皮肉にいい笑顔で返してやると、ふっと息を吐いて、神が笑い、そして虚空に呼び掛けた。
「来い」
神の目の前に、自分の身長程の高さの大きさの砂時計が現れた。中の砂時計は3分の1ほど量が下に落ちていた。
「ふむ、残り100時間といった所かの…。儂の世界の時間が止まっている間に、生きて戻ってくると良い。それが、お主が再び、儂の世界で同じ時間でお主の妻と生きていく事の出来る条件じゃ」
口が大きく開き、声もでない。その余りに少ない制限時間を聞いて愕然とした。
「いやちょっと、それは短くないですか!? 俺、魂だけで行くってことは転生コースでしょう!? 生後約4日で異世界移動とか無理でしょ!?」
「この世界の時間をいつまでも止めておくわけにはいかぬ。さっきも言ったであろう、世界と世界は関係していると、それは距離においてもそうじゃ。ギリギリ7日間、それがこの世界の時間停止の限界、それを過ぎて止めれば、停止したこの世界にどっかの世界がぶつかって滅ぶわ。そして、もう今は三日目じゃよ」
「前の三日は何してたんです!?」
「異世界の魔法によって壊されたお主の魂の修復じゃの。移動だけするのなら、もうちょっと穏便な術もあったろうに。結構危なかったんじゃよ?お主」
そう言われてしまうと、もっと早く起こせとはいえない。それに丸々7日の状態で飛んだとして、一週間で戻れるわけもない、余程の運がなければ無理だろう。
「ぐ、すいません、治して頂いていたのに」
(転生先が死んだばかりの、超絶時空間魔術師とかならいけるのだろうか)
そこまで考えて、ある事が頭をよぎった。
「あ、まさか! 向こうの世界の流れはこっちよりもすっごい早いとか、一万倍くらい」
(それであれば可能かもしれない。百万時間だ。何年だ?)
「大体114年かの。だがそんな事は無い。残念ながら時間の進み方はほぼ同じじゃ、こちらが時間止めている分、多少向こうとのズレはあるかもしれんがな」
「う……」
それを聴き、下を向いて、顎に指を当て、無駄な計算やら自分に限りなく都合のいい希望的観測やらを考えていた俺は、項垂れるしかない。
「まあ、考え的にはいい線いっとるよ」
神の言葉を聞いてがばっと顔を上げる。
「向こうの創造神との打ち合わせの時に聞いた事で、儂は実際には見ておらんがの。向こうの世界では限定的にではあるが時間移動の魔法は存在するらしい。儂から言わせてもらえば、危険すぎる代物じゃがの」
神がそう言った直後、一際大きな音が扉から響き渡った。頭上の扉がこちら側にギギっと重い音を出し開き出している。
「さて、向こうの召喚魔法の効果を止めるのは、あと少しで限界のようじゃの。」
神がその様子を仰ぎ見る。あれが開き切ったら時間切れとなると、確かに余り時間は無さそうだ。
「運ばれる前に、望みを言うといい、何でもは無理じゃ。例えば『向こうの世界に行って肉体を得たら、すぐにここに戻ってくる能力』とかは無理じゃよ。向こうには向こうの神々がいて、世界のルールがあるでの。それに、もう一つ、ここで与えられる力は儂の世界の中にあるもの、そしてお主があると信じている物に限られる。こっちは、儂の世界のルールじゃ。そして断言するが、魔法はない。儂は世界をそう言う風に作り、育ててしまったのでな」
そういった神の顔は、少し沈んで見えた。今まで生きてきた世界に魔法が無いのは理解しているし、そんなものがなくても、普通に幸せに生きてきたのだ。そんな顔することはないと思うが。
(何より、俺が欲しいのは自分の力じゃない)
「力はいらないから、私の嫁と、生まれてくるであろう子供を幸せにして下さい」
その要求に神は少し驚いた顔をする。
「さっき絶対帰ってくるみたいな顔しとらんかったか?」
「保険は大事ですし。それに、私にとっては、大切な事ですよ?」
「まあ、心配せんでも、その事は巻き込まれた時点でもう確定しておるよ。巻き込まれた本人だけでなく周りまで不幸にしたら神の名が泣くわ。安心するといい。お主の今の家庭や、関わるもの全ての幸せは保証しよう」
神のお墨付きという、世界で一番信用できる保証を貰って、胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます。じゃあ、保険ついでになるのかな。世界の時間、まだ止まっていますか?私の死体、もしかしてまだグロいままだったら、綺麗に治してくれませんか? 顔も、ひどいと思うんで。もし私がダメだった場合。妻にあの恰好、見せたくないんです。」
「まあ、それも保険のうちじゃ。これは別に見せてもよかろう。……来い」
神の左手側に金色の豪華な装飾で飾られた半径3mほどある大きな楕円形の鏡が何処からか飛んで来る。鏡には余り視界に入れたくない自分の死体が映っていた。
だが、その死体は自分が死んだ時の、あの酷い状態とは違い、スーツと体、血溜まりまで元通り綺麗になっている。表情も、そして姿も、まるで眠っているようだ。実際永遠の眠りについている状態だとは思うが。
「あの、私の体を治した力もらうのは?今この瞬間。その力、すごい信じたんですけど」
「お主の身体を治したのは、人ではないのだよ。それにあの力も儂が作った世界のものではない。神の世界のものとでもいっておこうか。当然渡せんよ。というか、渡す術が儂にはないの」
「うーん、そうですか……」
「さて、どうするかね?」
(こっちの世界にあると、俺が信じているものの中。か、一番俺に必要なのは、多分、これだろうな)
「超記憶能力でしたっけ? お願いします。今までの記憶全部持っていきます」
思い出せば、ちくりと胸の奥が痛くなる記憶。昔、交流のあった一人の女性の顔が頭をよぎった。
「人生の記憶というものは、良い事ばかりではなかったと思うがの。それに向こうは、剣と魔法のファンタジーじゃ。今まで見てきたものよりも、より残酷なものを見ることになる。本当に良いのか?それに、今時点、お主が覚えている事はそのままじゃぞ。能力をもらって、いきなり今忘れていることを、いきなり鮮明に思い出すなんて事はない」
胸の痛みを察したのだろうか。心配するような問いだ。更にすっかり忘れてしまっている高校時代に習った化学やら物理やらの法則や、ネットで調べた事がある戦略戦術内政その他サバイバル知識は思い出さない限り使えないらしい。
だが、その能力が欲しい理由の本質はそこではない。
「忘れたくないんですよ。妻の事。少しでも。今覚えている嫌な出来事を覚えておく苦しさより、妻の事を忘れるのが辛いだけです。ていうか、今覚えていることだけでも鮮明にいつも思い出したいです」
沈黙が、一人と一神の間に流れる。
「……分かった。その魂に、この世界の力を刻む。お主の今ある記憶、これから得るであろう記憶の全て。儂がその力を消さない限り、例え向こうに行ったとしても忘れる事は無いだろう」
「ありがとうございます」
「では、いくぞ」
神がこちらに向けて右腕を一振りすると、胸に熱く硬い何かが押し付けられるような感覚がある。
「…っ!」
結構辛い時間がしばらく続く。身体が弱い光を発し、それと共に熱さは引いていった。
「死んでも生きていても、戻ってきたら、その力も、ここの記憶も消させてもらうからの。世界について、多少、儂もしゃべりすぎた事もある。その知識を持っているものを、儂の世界の下界には下せん」
その言葉を聞きながらゆっくりと息を整え、答える。世界の真理は確かに好奇心を刺激されたが、自分には必要の無いものだ。
「承知しました。私は、妻と同じ時間を生きれたら、それで良いので。帰って来れたら消してください」
帰って来れればそれで良い。愛子が居れば。能力等無くても、頑張れる。今までだってそうだったのだから。
「うむ、では、そろそろかのう。あの扉を通った後、向こうの神々との会談もあるであろう。儂は創造神にしか会った事がないが、あやつが出てくるのであれば大丈夫じゃろ。気をつけていくんじゃよ。我が子よ」
「はい。ありがとうございます。文句位は隙があったら言うと思いますが」
「行ってすぐ向こうの神に殺されて魂だけで戻って来ないようにな」
その忠告に若干の恐怖を抱く。
「心読まれたら同じだと思いますが……頑張ります」
全力で気を付けよう。そう決意を固めていると、いよいよ時間が来たのだろう。バチンっと、何かがはじける音がした。それと同時に、頭上の扉がガゴンと、大きな音を立て全開になる。
ゆっくりと、身体が宙を浮き徐々に扉に引き寄せられていく。
下を見れば、舳先に乗った神が、こちらを見上げて見送ってくれていた。
最後に手を振っておこうと右手を上げた時だった。
先程死体を自分の写していた鏡が目の前まで飛来し、弱く一度光ると、ある映像を映し出した。
白い壁紙。暖色系のカーテン。身重の妻のために、内緒で金貯めて買って、「ベビーベッドとかチャイルドシートとか、買うものだったら沢山他にもあるでしょ」と、怒られながら、最後には感謝されたソファー。
そしてその椅子に座る、世界で一番、いや、異世界も含めても、一番、愛してる女性が鏡に映し出されていた。
(ああ、完全記憶、貰っていて良かった)
深くソファに座り、お腹を撫でていた時に時間が止まったのか、両手をお腹に添えている。目を閉じ、微笑を讃えた唇が少し開いている。
何を、語っているのだろうか?
愛子はお腹が大きくなりだしてから、ああやって座って、あの優しい表情で、お腹の子どもに話しかけることが多かった。
どんな宗教画も、この神聖さには敵わないだろう。
例え女神であろうと、この美しさには敵わないだろう。
じっと、瞳に焼きつけるように、その鏡を見つめる。不意に画面が歪む。魂でも、涙は流れるのか。後から後から、止めどなく溢れ頬を伝う。
(ありがとう神様)
全開に広がった扉から、赤い糸が、何本も降り注ぐ。さながら、血の雨のように。
その糸が、身体の周りを取り囲み。纏わりつき、絡みつき、縛りあげる。
特に痛みもないので小指には巻き付いて欲しくないなと、赤い糸から連想される詰まらない事を考えていると。
グンっと一気に扉の方に引き寄せられる。
「ちょ、うおおおっ!?」
大きな船がみるみる遠くなり、扉がどんどん迫ってくる。鏡ももう、一瞬で小さくしかなった。
ふと、昔テレビで見たとある言葉の意味を思い出した。
多分、今このタイミング。この決意。そして言う相手には、バッチリのものだ。
今の身体は魂だけらしいので、効果はあるか分からないが、こういうのは気分だろう。すうっと肺に息を溜める。
腹に力を入れて。
「いってきまああああああああっす!!!!」
(出来るだけ、早く帰るよ、愛子)
神は、船の舳先に座り、運命の赤い糸に絡まれ、縛られ、連れて行かれる我が子の魂を見上げ、見送る。
自分が作った世界で育った我が子の決意を聞いて、口角をくいっと上げて。神は言う。
「最後まで、のろけていきおったのう。心の中が妻で一杯過ぎて心読むのに苦労したわ。」
そして、鏡に写る女性がいつも言っていた言葉の前半だけでも、伝えようと口を開いた。
「いってらっしゃい。気を付けて。」
後半は、口にはしない。
例え神が口にしても、きっとあの男には意味はないだろうから。
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世界が動き出すまで。残り、四日。
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