第九話:天使狩り
状況をようやく飲み込み、最初にターナの心を占めたのは怒りでも恐怖でもなく困惑だった。理由はもちろん男の言い放った内容である。腰が抜け、座り込んだままの体勢で疑問を口にした。
「キャラクターID……?」
ターナとミリアに向けたその言葉はそのままの意味で捉えると何かを識別するためのコードか何かだろう。だがそれは人間相手に向ける言葉では当然なく──まるでゲームのデータを指すような言い方だ。
「その意味を知る必要はない。どうせ何も分からなくなる」
ターナが思わず口から溢した疑問を律儀にも男は反応する。大きな目から涙を流し、恐怖に震えるマリーを押さえたまま男はターナへ顔を向けた。
「この娘を無事に返してほしければ言う通りにしろ。とりあえずお前は……ん?」
何かに気がついたように男は唐突に言葉を切った。相変わらずフードで顔を隠しているが、じっと見つめられていることは分かり、ターナは反射的に自分の体を抱く。男の方はそんなターナの様子を気にも止めず観察を続け、納得したように声を上げた。
「お前はこの間の騎士の"器"……いや、今は違うのか。ともあれ、降ろしたあとの個体を見るのは初めてだな」
男が何を言っているのか全く理解できない。器がどうとか一体何を意味するのか分からない。
だが、何故だろうか。男の仕草を、男の声を、男の格好を一秒認識するごとに心の奥から何かが沸き上がってくるのは。
恐怖に支配されていたはずの体の震えが止まり、その代わりに血が滲むほど拳を握りしめているのは。
──この手に剣が無いのを悔やむのは何故だろうか。
「お前はどこまで記憶がある? 俺のことは覚えているのか? あの剣技は、魔法は、今も使えるのか?」
「知らない、お前なんて知るわけがない!! "俺"がここに来たばっかりだから、この村以外何も知らないはずだ……はずなのに!」
恐怖に震える"ターナ"と、怒り狂う"ターナ"が同時に心の中に存在する奇妙な状態に感情をうまく制御できない。半月ぶりの素の口調に戻った恐怖に震える“ターナ”は男の言葉を真っ向から否定し、怒り狂う“ターナ”が自分でも理解できないことを叫んだ。
「でも! どうしてか、分からないけど、思い出せないけど……お前は殺してやるッ!! “私”がこの手で殺さないといけないッ!!」
「ふむ、記憶が混乱しているのか? 色々とパターンは聞かされていたが……」
怒り狂う“ターナ”が殺してやると呪いの叫びを吐き続けるものの、身体の主導権を握っているのは恐怖に震える“ターナ”の方だ。身体の震えこそ収まっているが男に魔法を撃ち込む勇気も殴り掛かる勇気もない。
怯えながら睨み付けるという矛盾した行為を行うターナを男は自分のペースを崩さず、あくまで冷静に観察する。新種の生物を見つけた学者のような、少なくとも人間に対して向けないはずの視線でそれを続け、
「あんたが何を話しているかは知らないけどね……私もターナもそんな番号で呼ばれるつもりはない。それとね」
膨大な魔力を身に纏い、うつむきながら話すミリアの声に反応して中断した。表情は隠れて見えず、先ほどまで激情に駆られていた声も今は静かなものになっている。だが怒りが収まったわけでは無く、沸点を通り越して逆に落ち着いているだけだった。
その証拠に声は静かだが、そこに含まれる怒りは全く減っておらず、
「私はその汚い手をどけろって、そう言ったんだよ?」
実力行使によって憤怒がぶつけられる。ミリアの声に従って季節外れの吹雪が巻き起こり、男の動きを阻害した。だが未だ男の腕の中には人質のマリーがいる。ミリアの反撃に男はマリーの首筋を僅かに切って脅そうとするが、
「さすがは氷の魔女、やるな」
「アルフレッドッ!!」
ナイフを持った左手が氷漬けになっていることで失敗した。完全に意識の外で行使された魔法に男は純粋に感嘆の意を込めた言葉を口にする。ミリアはそれを無視すると男の背後へ向かって巨漢エルフの名前を叫んだ。
もちろんその先にいるのはリグル村の村長ことアルフレッド以外にあり得ない。背後へ回り込んでいた彼は、いつの間にか手にしていた巨大な刃渡りの両刃斧を男の頭へフルスイングする。その威力、攻撃範囲ともに接触直後の右ストレートとはケタ違いだ。
一度は負かされた屈辱を払うとばかりに振るわれた一撃に、さすがの男もマリーを解放すると身体を横に転がし逃れた。
男は素早く身体を起こすと、二の腕辺りから氷漬けになった左腕を見てから右手で手刀を入れる。それだけで氷は粉砕し左腕は元の自由な状態に戻っていた。調子を確かめるように握ったり開いたりする男の正面で、右手一本で両刃斧を担ぎ、投げ出されたマリーを反対の腕で抱きしめるのはアルフレッド。
「さっきはしてやられたが、マリーさえ戻ってくればこっちのもんだ。オレの村に手出したこと、後悔させてやる」
「分かっていると思うけど相当な実力者だよ、気を付けな。それとこいつが来てから魔獣が動かない。何か関わりがあるはず」
油断なく戦意を高める二人に対して男は特に反応せず静かに様子をうかがっていた。
「ターナ、マリーをお願い! バラバラに居られると護りきれないから!」
しばらく経っても男は動かず、それを確認したミリアはターナへ指示を飛ばす。それを聞き、一瞬だけ自分も戦うと言い返そうとしたが、喉からその言葉が出る前に押し込めた。
今はだいぶ落ち着いているが、心の奥から沸き上がってくる、原因不明の怒りは中々収まらない。もちろんマリーを襲った男に怒りを抱くのは当然だ。
だが、ターナの中で渦巻いている炎は、可愛い妹分に危害が加えられたにしても不自然なほどに激しかった。
「うっ、ひっく……」
しかしそんな激情も、アルフレッドの腰にしがみつき押し殺した泣き声を上げるマリーを見て幾分か収まる。
(恩人に娘を頼まれているんだ……。だから落ち着け、"私")
小さく深呼吸をして心を落ち着けると立ち上がり、男の挙動に注意しながらアルフレッドとマリーの元へ向かった。襲うのなら絶好の機会だろうに男は動かない。そのことは不思議であり、不気味だったが今は好都合だろう。
「本当は逃がしてやりたいが……離れられると何かあったとき動けない。悪いな」
「いえ、二人がいるだけで安心できますから」
アルフレッドがマリーから手を離すと赤くした目で少しだけ顔を上げたが、ターナが手招きしているのを見るとすぐに抱きついてくる。
一瞬だけ見えた顔はいつもの活発な少女と同じとは思えない、酷く暗いものだった。
「一つ尋ねるが……」
ターナがマリーを抱き締めながら後方へ下がると身動ぎ一つしていなかった男が口を開いた。
「ここには"器"が……"天の落とし子"が二人いるはずだ。そこのターナは既に処置済だったのなら、もう一人どこにいる?」
「……答える義務があるとでも?」
男の図々しい質問をミリアは一言で切って捨てる。彼女の言う通り律儀に答える理由などないのだ。その言葉に男も確かにそうだと同意し、
「──ああ、そういうことか」
直後何かを納得したように声を上げた。勝手に会話を続ける男にアルフレッドが顔に苛立ちを浮かび上がらせる。
「質問を変えよう。この村の墓地はどこにある?」
突然出てきた単語にターナは首をかしげる。先程から訳の分からないことばかり言っている男だが、この質問も中々意味が分からない。しかし、だからといって何も意図無く話しているとは思えない。それはアルフレッドも同じだったのか疑念をぶつけた。
「てめえ、なんでそんなことを聞いて……」
「言い方が悪かったな。"天の落とし子"、ルスベルの墓はどこにある?」
またもやターナの知らない単語、いや人名だ。しかし思い当たることがあったのか、アルフレッドの表情が一転。その言葉を吟味し、怪訝そうな顔で男を睨み付ける。そしてミリアは──
「ああ、そういうこと。あんたが最近噂の“天使狩り”ってやつね。──ふざけるんじゃないよ!? どこのどいつだか知らないけど、あんたは私の娘だけじゃなく夫の尊厳まで汚すのかッ!!」
既に人質もいない男に対してもう手加減する必要は無い。右手に持った短杖を男に向け、足を開いて僅かに腰を下ろした体勢になると、普段よりも長い詠唱を経て魔力が集中し、
「──凍てつけ『凍結』!!」
男の座標を中心に熱量が急速に奪われていく。空気中の水分が凍り付き、細かい氷の結晶が現れるほどの圧倒的冷気だ。どんな実力者でも人の身である以上、巻き込まれればただでは済まないのは明白であり、男も外套の一部を凍らせながら後方へ飛び退く。
そこへミリアが追加で発現する氷の刃が追撃し男の身体を貫く直前、“いつの間にか”持っていた白銀の長剣を男は一振りした。たったそれだけで氷は砕け散り、魔力へと還る。
その長剣は曇り一つない芸術品としても使えそうな一品だが、不気味な雰囲気を漂わせる男が持つとひたすらに歪な印象しか与えない。ミリアの攻撃を見事防ぎ切った男は、気を抜くことなく今度は背後へ振り返りながらその剣を振るった。
「同じ策を使うのは悪手だぞ?」
そこにいたのは先ほどと同じように背後へ回り込んでいたアルフレッドだ。男の首から上を飛ばそうと振り上げていた両刃斧を、男に気づかれたと察知するや否や慌てて盾代わりにし身体を覆うように構える。
直後に衝撃。アルフレッドが構えた両刃斧ごと吹っ飛び、今度は予め察知していたためか足から着地する。何度見てもおかしな光景だ。体格の大きさはアルフレッドの方が見るからに上で、長剣は人を力任せに吹き飛ばしたりするものでは断じてない。そのはずなのにそれをやってのけるのは男の能力と長剣の性能、両方が兼ね備えられているからか。
「質問に答えてほしいのだがな」
「用意できる返事は、氷漬けか、引き裂かれるか、粉々になるか。どれがいい?」
「本当にバカみたいな力しやがって!!」
質問に皮肉を返し、殺意を魔法に変えて放つミリアと、悪態を付きながら重厚な両刃斧を振るってくるアルフレッドに男は肩をすくめてみせながら対処していった。
アルフレッドが愛用の得物を振り下ろし、それを半歩動いてだけで回避した男は、隙を見せた巨漢のエルフの腹を切り開こうとするが──すぐに飛来した氷の刃を見て中断、身体を屈めそれを凌ぐ。それに要した時間は僅か数秒。だがアルフレッドが体勢を整えるには十分。
再び両刃斧を構えなおしたアルフレッドは屈んだままの男へ渾身の一撃を放った。それに合わせてミリアも男の逃げ道を塞ぐように氷の刃を撃つ。
いくら男の身体能力が高くとも重力も加算される今の状態では両刃斧の一撃を受け止めるのは不可能だ。だがそれを避ければミリアの魔法に引き裂かれることになる。一瞬の思考、そして男は氷の刃を受けることを選んだ。
そのままの体勢で体を横へ転がし巨大な質量の一撃を回避する。狙いを逃したアルフレッドの一撃は地面を大きく抉るだけに終わった。だが次に来る氷の刃に対処することはできない。それでも急所を避けるために胸と顔を腕に庇い、
「っ!?」
右肩を氷の刃が大きく引き裂き、男が苦悶の声を上げた。もしかしたら男が人間らしい感情を表に出したのはこれが初めてかもしれない。真っ白な外套を赤く染め上げるが、その痛みを感じさせない動きで後続の魔法攻撃は全て避けて見せた。
結果として男は最善の選択をしたのだろう。場合によっては詰みの盤面から肩一つを差し出すだけで生き延びたのだから。しかし、だらりと重力に逆らわず垂れ下がったその肩ではとても剣を振ることは不可能に見えた。
「その腕じゃもう剣は振れないはずだよ。……本当だったら今すぐに殺してやりたいけど、ターナのことを何か知っているみたいだったからね。投降すれば命までは取らない」
勝利を確信したミリアはそれでも警戒は解かずに投降を勧める。既に男の選択肢は強引に捕らえられるか、素直に捕らえられるかの二つしかないはずだ。そのはずなのに”ターナ”の本能は警報を上げていた。男と会ったのは今日が初めてなのに何故か男の能力を”ターナ”は知っている。けれどもそれを思い出せない。
「何がおかしいんだ?」
それを思い出そうとしている間にも時間は刻一刻と進んでいき、
「俺は戦うのが好きでな。だがそれ以上に……」
ミリアの背後にもう一人の”男”が空間を引き裂いて現れる。彼女もすぐにそれに気づいて逃げようとするが──致命的に遅い。
「相手を殺すことが大好きなんだ……!」
これまでで一番感情を、フード越しにさえ分かる歪んだ笑みを浮かべる。
そしてもう一人の”男”が剣を振り下ろし、氷の魔女の背中から真っ赤な花が咲いた。