第二十九話:避けられなかった運命
この日が来ることは、心のどこかで分かっていたはずだった。自分が自分で無くなる決定的出来事。しかし、忙しく日常離れした生活を続けているうちにすっかりと忘れてしまっていた。
アイデンティティの崩壊ともいえるだろうか。最もこっちの世界へ召喚され、肉体が変わってしまった以上はとっくに崩れ始めていたとも言える。だが、ひび割れ始めたそれも、完全には破損していなかった。
だからこそ、ターナは今さらになって激しく後悔している。いつか元に戻れる、何だかんだで慣れていくだろう、少なくないショックを受けながらも自分に言い聞かせて誤魔化してきた。しかし、もうそれも限界で、心の中で何度も叫び続ける言葉がある。
──サブキャラだからとはいえ、何故女性のキャラクターにしてしまったのだろう。
いつも通り、ジェシカの暴走に巻き込まれた翌朝。窓から差し込む日差しを顔に浴びて、ターナの意識は現実へと浮上を始めていた。
相変わらず、ターナは朝に弱い。しかし、今日は何時にもまして目覚めが悪かった。普段なら起きるのが面倒、程度の感覚なのだが今は不快感まである始末だ。それが無意識のうちに気になってしまい、熟睡できなかったのだろうか。
その不快感の発生個所、足の付け根のあたりに寝ぼけながら特に何も考えずに腕を伸ばす。べちゃりと、粘着質な感触と僅かな音が鼓膜を揺らし、さすがのターナでも僅かに目が覚めた。
(液体……?)
平常時の一割も働かない頭を全力で酷使する。まず、最初に思いついたのは汗だ。しかし、この世界では夏が終わり始めこれから段々と冷え込んでくる時期。かぶっているのも薄手の毛布一枚であり、汗をかくほどの気温は無い。
それなら他の可能性はと、たっぷり数分かけて思考し、ようやくターナは飛び起きた。
「嘘だろッ!?」
普段の丁寧な言葉など殴り捨て、男だった時のさらにプライベートの口調が表にでてくる。例え寝起きでも、大抵の相手には丁寧語を崩さないターナにしては珍しく、それだけ慌てていたということだ。
足の付け根、つまり太ももの辺りに湿気がある。つまり、いい歳にもなっておもらしをしてしまったのではないかと思い当たったのだ。アリシアは朝風呂にでも向かったのか、部屋におらずジェシカも隣のベッドでだらしなく寝転がっている。
それを確認すると、毛布に手をかけ呼吸を整えた。予想が当たっており最悪の結果だったことを想定し、この後の動きを高速でシミュレート。誰にもバレずに全てを処理しきる算段を立てると、覚悟を決めて毛布をどかした。
──そして視界に映った光景が、覚悟を容易に粉砕していった。
現在、着ているのは白の配分が強い水色のシンプルな寝間着だ。ジェシカがいつの間にか用意していたものなのだが、今はどうでもよいだろう。
問題があったのは例の疑惑が絶賛浮上中の部位だ。そこから太ももにかけてうっすらと赤く染まっていた。今のターナにはその意味が理解できない。
理解不能、理解不能、理解不能、理解拒否、理解不能、理解拒否、理解不能。
「あと五分寝よう……」
頭がパンク寸前になり、ターナが出した答えは見て見ぬふりをすることだった。少なくともおもらしをしてしまったわけはないようだし、後で考えればよい。
そのような言い訳を心の中で呟きつつ、再び毛布をかぶろうとしたとき、
「いやー、当たり前のことだけどすっかり忘れてたわね。初めての女の子の日はどんな気持ち?」
いつの間にか身体を起こしていたジェシカと眼が合った。そして数秒間の停滞。ジェシカの言葉をゆっくりと咀嚼し、飲みこむ。それを脳みそが正しく吸収した瞬間、考えないようにしていた単語を思い出してしまった。
急速に顔面が真っ赤に染まり、眉間が熱くなるのを感じる。その衝動をターナは抑えきることができず、暴力へと変換された。
「ちょ、ふぎゃっ!?」
「言うなっ……言わないでくださいッ!!」
顔面に決まった右ストレートによって、ジェシカはベッドから転げ落ちていった。
☆ ☆ ☆ ☆
「まさか、アリシアだけじゃなくてターナちゃんにまで殴られるとは……」
「考えたことありますか。ありませんよね? 男だった人間が女の子の日を体験して、それを他の女性に見られる気持ち。無いよなっ!?」
「ごめん、ごめんって。今回はさすがにからかいすぎたわよ」
ほんのりと涙が浮かんでいるのを自覚しつつ、隣へ腰かけるジェシカへ叫ぶ。こんなことで泣くなど男として──元男として恥ずかしいとか、隣の部屋へ迷惑だとかそのようなことを考える余裕は今の精神状態に無かった。
「はい、とりあえず拭いておきな」
ジェシカをジト目で睨みつつ、お湯で絞られた布は素直に受け取る。朝風呂から戻ってきたアリシアが急いで汲んできたものだ。最初、状況も分からずジェシカの命令に反抗的だったアリシアも、半泣きのターナを発見するとすぐに従ってくれた。
「おれにもそのうち来るのか? マジかよ、いや嘘だろ。嘘であってくれよ……?」
その後の彼女の様子はこの言葉を聞けば分かるだろう。部屋の隅でいずれ来るはずの悲劇に怯えていた。その姿を横目にしながら下半身の服に手をかける。その中が汚れているのだから脱がなければ拭くことはできない、当たり前だ。
だが、すぐそこに座っているジェシカが気になって仕方がない。ようやく風呂などにも慣れてきたつもりだったのに、彼女の目の前で下着姿になることにひどい拒否感を覚えていた。
「ほら、しばらくあっち向いてるから早く終わらせちゃいな」
それに気づいてくれたのか、珍しく気を利かせて背中を向けてくれる。それを確認すると、下半身だけ寝間着を脱いだ。そして今回の騒動の原因が露わになる。
本来であれば一生訪れることの無かったはずの生理現象。それが自分の身体で起きている。変に意識してしまい、どんどん顔が熱くなっていくのを感じると無理やり意識の隅っこへ追いやった。
「おーい、起きてるか? ルーカスさんが来たんだけど準備は」
「ちょっと待って!」
部屋の入口のドアへノックする音とクリスの声が聞こえてくる。すっかり忘れてしまっていたが、今は遊んでいる暇ではない。ターナたちの今後の人生を揺るがす可能性すらある事件の真っ最中なのだ。
この程度のことに時間を掛けている暇では無い。すぐに処理を終わらせようとして、
「そんなに慌てなくていいから」
「いや、でも早くいかないと」
「それがダメなの! 最低でも何日かは休んでいなさい!」
突然、語尾を強くされてターナは思わず身体をビクつかせる。クリスに応対するために立ち上がっていたジェシカが振り返り、こちらを見下ろしていた。
別にこちらを睨み付けているわけでも無く、ただ体勢の問題でそのような形になっているだけだ。そのことは頭でしっかり理解しているはずなのに、何故だか涙が溢れてくるのを止められない。
「あー、ごめん強く言いすぎたね。ちょっと大丈夫?」
「ぐすっ。いや、これは……別に平気ですからっ」
「全く平気に見えないわよ……」
一体どうしてしまったのだろうか。自分のことなのにまるで理解できず、その疑問
が余計に心を不安定にしていることにターナは気づかない。
明らかに情緒不安定に陥っているターナをしばらくなだめていたジェシカだが、ふとドアへ目線を移し、続けてアリシアへ目配せする。
それを受け取ったアリシアもターナをちらりと一瞥すると、顎を引いて部屋の外に出ていった。そのまま廊下で話声が聞こえるが、内容までは部屋の中に届かない。
「すいません、今度こそ平気ですからっ……早く準備しないと」
「だからダメ。そんなに精神不安定なのにマジメ過ぎよ。ターナちゃんは少し事情が特殊だし、実質初めてなんだから余計に休んでないと」
無理やり起き上がろうとしていたターナの身体を、ジェシカが優しく押し返す。それから未だ役目を果たすことなく、ターナの手に握られっぱなしの布をもう一度お湯に浸した。
少し温くなってきたそれを絞りながら、ジェシカはターナへ語りかける。
「こっちに来てから、もう一か月とちょっとは経ってるわよね。今まで来てなかったのが少し不思議だけど、何か予兆はあったりしなかったの?」
「ひゃっ」
ジェシカは尋ねながら布を丁寧に二つ折りにすると、ターナの太もも辺りに付着している血を綺麗にしていく。副産物として発生するこそばゆさに変な声が出てしまい、元々真っ赤だった顔をさらに上塗りしてしまった。
とても男が出していいような声では無い。それを誤魔化すようにターナは少し思い返してから、質問に返答した。
「特には何も。本当に朝起きたら突然って感じでして……」
「うーん、そうなら特別弱いっていうより、自分で見た時のショックが大きかったのかな?」
「誰のせいでショックが大きくなったと思ってるんですかッ!?」
主にジェシカがからかったせいだ。本人が答える前に心の中で勝手に正解を言う。赤く腫れた目で睨み付けるターナの姿にジェシカはごめんごめん、と適当な言葉を返すと続けて、
「ついつい、いつものノリでやっちゃったのよ。特にターナちゃんとアリシアは見た目もリアクションも一級品だから」
などと悪気の無い様子で笑って見せた。それをやられる側の気持ちにもなってほしい。ターナよりも被害の大きいアリシアに向けて、深い同情を胸に抱く。そして一言物申してやろうとした途端、先手を打つようにジェシカが再び口を開いた。
「ちょっとは落ち着いた?」
「……ええ、おかげさまで」
そんなこと言われてしまったら怒りの言葉を素直にぶつけることなどできないだろう。さらにジェシカの気遣いに気づけなかったことも自覚し、どれほど今の自分に余裕が無いのか今更になって理解する。
処理は終わったのか、ジェシカがターナの脚から手を退かし、お湯だったものに使用済みの布を突っ込む。その様子を見ながら半分脱げていた寝間着を穿きなおし、少し間を置いてから切り出した。
「言われた通り休ませてもらいます。今の状態じゃ、足手まといにしかならなそうだし……」
「そうするといいわ。別に仕方が無いことなんだから誰も攻めたりしないって」
毛布をわしづかみ、頭にまでかぶる。色々と恥ずかしいことが多すぎて穴があったら入りたいとは、正にこのことだ。生理で寝込むなんて周りに知られた特に、
「あー、もう少し寝よう」
自分で考えたことなのに、見事に自爆して何度目か分からない顔面の発火が起きる。これ以上は毒にしかならないと判断すると、枕に顔を押し込み全てを忘れて寝ることを決心した。
今回は少し短いですが、次の場面を入れると今度は長すぎるのでここまで。TS要素全開、というよりTS要素だけの話になってしまいましたが、最近不足してたから仕方がないですよね。




