第二話:始まりは突然に-2
「はあ、はあ、はあ……」
自分の口から漏れる聞きなれない息づかいと、前から後ろへ次々と流れていく景色を感じながら優理は一心不乱に足を動かしていた。当たり前だが森の中に道なんてものはなく地面は荒れ放題、所々に木の根っこが飛び出ていて何度も転びそうになるし、好き勝手に伸びている植物の枝に引っかかりただでさえ血塗れだった体が更にボロボロになっていく。
普段ならとうの昔に力尽き、背後から追跡してくる狼の胃の中だろう。しかし火事場の馬鹿力なのか、あるいは別の要因なのか全力疾走を五分以上続けているのにあまり息が上がっていない。理由は分からないがそのことに感謝した。
このまま森の外までたどり着ければ狼たちも諦めるかもしれない。そんな楽観的な考えをして気づく。
(どうして追い付かれないんだ?)
確かに今の優理は普段とは段違いの速度で走っているし体力もまだまだ余裕がある。だがそれも一般人を基準にした場合であって、本業のアスリートとは勝負にもならないだろう。それに対して狼たちは狩りのプロであり、この森での生活にも適合しているはずだ。
──それなら追い付かれないはずがない
嫌な予感がするが足を止めるわけにもいかなかった。具体的には分からない何かを解決しようと頭を働かせるが、そんなことできるはずもない。
酸素不足気味の頭を全力で酷使しながら、ふと気がつくと目の前に開けた空間があるのが見えた。さしずめ森の広場といったところか。邪魔な木々が無いだけでも走りやすいだろうと特に疑問に思わずそこへ飛び込み、数秒後その判断を後悔した。
「これは……まずいかな」
思わず足を止めて唖然と呟く。背後から狼たちが追い付き、唸り声を上げているがそれを気にする余裕もなかった。
見渡す限りの鼠色、つまりその広場に居たのは数えきれないほどの狼だ。強靭な肉体に牙と爪、背後にいるものと同じ種族なのは間違いない。それらが広場を取り囲みながら一匹残らず優理に、今晩の食事に喰らい付こうと身構えていた。
万事休す、絶体絶命、四面楚歌。色々と言葉は浮かんでくるがその全てがピンチを表すのはもう笑うしかない。完全にやつらの手の平の上を転がされていたのだろうか。確かに狼は集団で狩りをする生き物だがそれにしても誘導がうますぎる。あるいは今の非現実的な状況と同じくこの狼たちもどこか異常なのかもしれない。
包囲され逃げ場は無く相手が一匹なら倒すことも考えたかもしれないが、これほど頭数がいればせいぜい先頭の鼻っ面を一発殴れるかどうかだ。
「意味が分からない。理不尽すぎる……」
どこか達観したような声色で生きる気力を吐き捨てると、それを合図に狼たちが我先にと飛びかかってきた。元々大した距離は無いうえ彼らの強靭な脚力なら獲物に喰らいつくまでに数秒とかかるまい。真っ先に飛び出た先頭の一匹が、固く目を閉じその瞬間を待ち構える優理の肉を噛み千切り、
「そこで諦めちゃうのは感心しないね」
眩しく冷たい青い光が辺りを包み込んだ。今度は何だと目を開き慌てて周囲の様子を探ると青色の壁へ、氷で作られた巨大な壁へ牙を叩き付けている狼たちが見えた。その壁は優理の四方向を囲うように生み出され、彼を喰らおうとする狼の群れの完全に足止めしている。それを唖然と見ていると、いつの間にかすぐそばに一人の女性が姿を現していた。
身長は女性としては高くて百七十には届きそうだ。艶のある長い茶髪を現在の優理のように背中まで伸ばした姿は、落ち着いた雰囲気を醸し出しそれなりに年齢を重ねていることが分かる。
それだけを材料に判断するのなら三十路を超えた程度だろう。しかしその顔や長い指を付けた手などは老化が進んだ形跡がまるでなく大学生だと言われても信じる自信があった。
そして青いゆったりとしたローブに体を包み、先端に青い水晶を取り付けた短杖を持つ女性は、優理の体を頭の頂点から足の先まで遠慮なく観察し、
「ひどい格好だけど目立った怪我は無いみたいだね」
「大怪我こそしてませんが満身創痍ですよ……。助かりました、正直もうだめかと」
色々と聞きたいことはあったが彼女が助けてくれたのは明白なためまずはお礼を言う。小さく頭を下げると女性はお気になさんな、と返した。そのまま優理たちへ襲い掛かろうと一心不乱に氷の壁へ攻撃を続けている狼を見る。
「大きい魔力は感じたけど、こんな大量の魔獣が集まるとはね。一応聞いておくがあんた何かしたのかい?」
「知りませんよ! 気が付いたらこの近くで目を覚まして……本当に訳が分からない……」
もう何度も口にした言葉を吐くと、ようやく落ち着けた安心感も合わさり思わず泣きそうになる。さすがにそれでは格好がつかなすぎるため必死に耐えた。姿形が変わっても男のプライドはそう捨てられるものではないのだ。
「あんた、もしかして”天の落とし子”かい?」
「聞いたことないですが、少なくともぼく……自分は違いますよ」
普段の仕事モードに引きずられて一人称が”僕”になりかけたのをそれっぽいものに修正しながら、女性の質問へ素直に答えた。先ほどから”魔力”だの”天の落とし子”だの可哀想な人だと思われそうなことを言っているが、目の前の超常現象を見せつけらていると一蹴にできないのが困りものだ。
「聞いたことが無いって……自覚もなくて存在も知らない? ここがどこなのかと自分の名前は分かる?」
「ここがどこなのかはさっぱりで……名前は」
──永瀬 優理。そう口に出そうとし、直前で思いとどまった。自分でもなぜそうしたのか一瞬分からず、すぐに自分の体を見下ろして理解した。優理は自分が自分であることの自信が無くなってしまっているのだ。
見たことも無い土地に放り出され、目の前にはフィクションの世界でしか見たことの無いような超常現象。極めつけに肉体まで見知らぬものになっている。優理が優理である証拠は記憶の中にしかなく、これでは不安になるのも仕方がない。
「はあ……こりゃあ厄介だね」
女性は言葉に詰まり黙ってしまう優理を、泣きそうに見える銀髪の少女を瞳に映して大きくため息をついた。
「そう泣くんじゃないよ。とりあえずここから脱出しようか」
「泣いてませんよ! ……この狼たちはどうするんですか?」
「こうするんだよ」
直後、女性を中心に不可視の何かが放たれた。目に見えず、音もなく、臭いもない、だが何かが飛んでいったのは確かに感じて、気がつくと狼たちが大人しくなっていた。
あの狂暴さはどこへいったのか壁への攻撃もやめてただこちらを観察、ではない。恐怖をその瞳に宿し女性から眼を離せなくなっているのだ。震えているように見える個体もいて、迫力の無くなった彼らはちょっと大きいだけの普通の犬にも見えてしまった。
「さっさと行きな。残るってんなら容赦しない」
その一言を切っ掛けに狼たちは散り散りになってこの場を離れていく。一分もしないうちに森の広場には優理と女性以外誰もいなくなっていた。それと並行して優理たちを守るという役目を全うした氷の壁も空気へ溶けるように消滅していく。青い光が霧散していく光景は大自然の中なのも後押ししひどく幻想的だった。
「ちょっと魔力を当ててどっちが格上か教えてあげたんだよ」
一体何をしたんだと疑問を目で訴える優理に気づくと女性は何気なく答えた。つまりこの女性はあの狼の群れよりも強いということなのか。実はかなり規格外の存在なのかもしれない。
「魔法とか言ってますけどそんなものあるんですね」
「魔法すら分からないのかい? 何があったかは知らないけどかなり重症だよ……」
女性からしてみれば知らないことが異常なのか困ったような表情。そんな顔をされても優理にとって魔法なんてものは創作の中だけの存在なのだから仕方がない。
「さっさと森を抜けようか。他の魔獣に絡まれても面倒だから」
そう取り直すように言って歩き出す女性に優理も慌てて付いていく。彼女の背中は森の中であっても優雅で力強い。まだ名前も聞いていない女性のその強さが頼もしかった。
☆ ☆ ☆ ☆
それから優理の体感で一時間ほど。二人は無事に森を抜けだし、森の周囲に広がっていた平原を歩いていた。遠くには民家が見えそこが女性の住む村だそうだ。
のびのびと生い茂る草に膝をくすぐられながら目的地へ足を進めるが、如何せん変わらぬ景色の中での移動は気が滅入った。このままなのはつらいと判断し、隣を歩く女性へ声をかけてみる。
「今更ですがお名前を聞いても?」
「ああ、そういえば質問してばっかりで言っていなかったね。私の名前はミリア、どこにでもいる村暮らしの平民だよ」
「どこでもいるって……あのレベルの魔法って誰でも使えるんですか?」
「確かに私ぐらい魔法使えるのなんてあまりいないだろうけど」
どこにでもいる村人があんな、威圧だけで獣の群れを追い払えて済むかと突っ込みを入れる。案の定、彼女は魔法の腕はかなり高いらしい。どのくらいがどの程度凄いのか今いち基準が分からないのだが。
「それとあの場に居合わせたのって偶然、じゃないですよね」
これは歩きながら思いついた疑問だ。優理が森で目覚めてからミリアに助けられるまで長くても十分程度だったはず。その僅かな時間でたまたま人に会えて、その人が狼を追い払う能力があったなど都合が良すぎるだろう。
「娘と食事を取っていたんだけどね。突然寝ていても気づくようなバカでかい魔力を感じたもんだから慌てて向かったんだ」
「それであの場面と……」
「あんたも記憶が混乱しているみたいだし、何かしらの魔法実験でもあったのかも知れない。それに巻き込まれて今のあんたがいると、そんなところじゃないかな」
魔法実験。ミリアの言っていることはかなり参考になる。魔法が一体どこまでのことができるのか分からないが、その何かしらの実験で日本にいた優理の体が作り変えられてここに飛ばされたと。
──考えてみてさすがに無理があるんじゃないかとも思ったが、他に何も手掛かりが無いのだから仕方ない。
「帰れる……じゃなくて元に戻れるんでしょうか?」
「記憶がかい? 悪いけど何とも言えないよ。そもそも魔法の実験ってのも私の適当な予想だしね」
「そうですか……」
もう家には帰れないかもしれない。そんな絶望的な考えがよぎり表情を暗くする。一人暮らしを始めてからは色々と大変だったが仕事は嫌いでは無かったし、学生時代の友人やネトゲ仲間と遊ぶのは楽しかった。こうやって考えてみると中々に充実していたのだろう。
「私も調べてみるからそんな顔しない、可愛い顔が台無しだよ」
「か、かわいいって何を言ってるんですか!?」
男に向ける言葉ではないだろうと反射的に答え、すぐに自分の今の容姿思い出す。顔こそまだ確認していないが何故か女になっていることは確認済みのためミリアの言い方は何もおかしいことは無いのだろう、客観的には。
そんな優理の内情も知らないミリアは、妙に顔を赤くする銀髪の少女を不思議そうに見つめていた。