第一話:始まりは突然に-1
場所はとある居酒屋の個室。十人を越える人々が酒を飲みながら談笑している部屋の一角で、木製の長机にビールの注がれたグラスが叩き付けられた。
その衝撃ですぐ隣に置いてあったから揚げが皿から零れ落ちるがそれを指摘するものはいない。犯人は机にだらしなく顔を押し付けて喚いているし、向かい側に座っている人物は彼をなだめるので精いっぱいだからだ。
それ以外の人間は皆、自分に矛先が向かぬようさりげなく距離をとっている。既に酒をいれ始めかなり時間が経っているとはいえ、ここまで酷く酔っているのは彼ぐらいなものだろう。
「本当にあの糞上司が……!! なんであんな奴のために俺が残業しなくちゃいけないんだよ……。俺の時間を奪うなよ!!」
「まあ、まあ……どこに行っても理不尽な人はいますから」
「だからってそれを許す理由にはならないでしょぉ……! サブキャラまで作って時間が足りてるアベルには分からないんだよ!!」
自分の上司に対して呪いを吐き続ける男に、アベルと呼ばれた男性──永瀬 優理は引きつった笑みを浮かべるしかない。
アベルと日本人らしさが全く無い名前で呼ばれているのはここがオンラインゲームのギルドでの集まり、いわゆるオフ会という場だからだ。
今までVCで散々ゲーム内での名前で呼び合っていたのだから今更本名で呼ぶのも違和感があるのだろう。少なくとも優理はそう思う。
ゲームの集まりなだけあってここに揃っているメンバーは比較的若い。最年長でも二十代後半と言ったところだろうか。
「彼女は大学を卒業してから一度もできないし、貴重な夜のネトゲタイムもどんどん削られるし……もう嫌だぁ……」
酔っている男性──斎藤 大輔、ゲームの名前で言えばクリス──は一気にグラスに残っていたビールをあおると再び机に叩き付けた。再現のようにから揚げが空を舞う。そんな斎藤の姿を見て意外と酒癖悪いんだなと目線を逸らしながら思った。
普段VCで話している時の斎藤は正にムードメーカーと言った人物で率先して話題を提供してくれるし、誰かの失敗などで雰囲気が悪くなってもすぐに察してフォローに入ってくれる。
ただただ騒ぐのが好きなだけにも見えるがその実、非常に気づかいのうまい男性なのだ。それが今では愚痴を漏らすだけの機械と化しているのだから酒とは怖いものである。
「クリスさん、随分と出来上がってるわね……」
そろそろ相手をするのも疲れてきたなと思い始めたとき、やや離れた席にいた女性が声をかけてきた。隣にも数少ない女性が並んで座っていたが、酔っ払いがこっちに来たらどうするの? と言わんばかりの表情である。
「そりゃあ、飲んでないとやってられないからねえ!!」
その言葉に首が飛ぶような勢いで斎藤は振り向き、机に落ちていたから揚げを口に放り込む。正直汚い。しかしこれはチャンスだ。彼女たちには悪いが今のうちに避難させてもらうことにする。
「ちょっとトイレに行ってきますね」
立ち上がるとき恨みがましくこちらを見る女性と眼が合ったが、永瀬はかれこれ一時間弱も愚痴に付き合っていたのだ。そろそろ解放されても良いだろうと心の中で言い訳しながら個室のドアを開けると廊下に出た。細長い廊下を途中、料理を運ぶ店員とすれ違いながら歩く。
当初は斎藤のターゲットを外すための行動であったが歩いてみると本当に尿意を覚えるものだ。と言っても愚痴を聞いている間に酔いが冷めてしまっただけであり、永瀬もかなりの量飲んでいたのだから当たり前であるのだが。
そんなことを考えつつ、トイレのドアノブに手をかけようとし、
バリーンッ
背後から聞こえた何かの割れる音に思わず肩をはねさせた。それも一度では無く断続的に、少なくとも五回は聞こえたはずだ。一体何事だと個室に戻ろうと振り返り──
「っ!?」
「お客様!?」
胸のあたりへ黒い何かが飛び込んできた。突然、体に侵入してきた異物を認識することも悲鳴を上げる暇さえなく意識が薄れていく。最後に慌てるような女性の声を聞き、記憶に残っているのはここまでだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「うぅ……」
顔に何かが張り付く不快感と左腕に感じる寒気によって目を覚ました。これほど悪い目覚めは初めてかもしれない。それが原因か体の節々がきしむように感じるし、軽い眩暈を訴える頭はまるで回らない。
結局意識がはっきりするのにたっぷり十分程度も要した。
「一体何が起きて……?」
疑問をそのまま口に出しながら顔の左半分を埋めるように張り付いている何かをはがしにかかる。パリパリと不快な音を立てながらはがしたそれの正体を見てやろうと顔から離そうし、頭が──髪が引っ張られる痛みを覚えると反射的に手を放した。
何かがおかしい。永瀬の髪は顔の左半分を埋めるほど長くないし、湿っていたわけでも無い髪が顔に張り付くのは不自然だ。
嫌な予感がするが確かめないわけにはいかない。今度は引っ張りすぎないよう用心しながらそれを視認できる距離まで顔から離し、ようやくそれの正体が分かった。
本来は美しい銀髪だったのだろう。絹のように細いそれはしかし、顔に張り付いていた原因であろう乾いた血によってカピカピとなっておりお世辞にも綺麗なものとは言えない。どうしてこんな色の髪が永瀬から生えているのか、どうして血塗れなのか。
あまりに予想外で理解しがたい光景に悲鳴を上げることさえできなかったが、他にも異常があるかもしれない。それだけは何とか考え付き、恐る恐る自身の体を確認していく。
すぐに目についたのはやけに肌寒く感じる左腕だ。それもそのはずで左肩から先の布が何故か無い。何かに切られたかのようにそこから先がカットされていた。
着ている服は恐らく、現実ではコスプレ程度でしか見たことのない白い騎士服のようなもの。恐らくが付くのはあちこちが破けあるいは、血が染み込んでおり元の原型が分からないからだ。
「うわ、血がこんなに!? ってあれ?」
一瞬大怪我をしているのかと恐慌に陥りそうになったが、特に痛みなどは感じない。どうやら体に血がかかっているだけで永瀬自身のものではないらしい。
手で体の表面の血を少しでも落としていくがすっかり固まり、あるいは服へ染み込んでしまっていてとてもじゃないが全ては処理しきれない。それでもこの気持ち悪い感覚を少しでも取り除こうと手を動かし、胸の辺りを触った途端マシュマロのような柔らかい感覚が返ってきた。
「え、いや、え……?」
疑問と現状を理解できない恐怖とを等分に混ぜた声が口から零れる。今の感触はもしかしてと、頭にとある考えが過りすぐにそれを否定する。だがそれを否定する材料は優理の常識にしかなく、その常識は現在まるで頼りにならない。
訳が分からず心臓が大きく脈打ってるのが分かる。しかし確かめなければならない。覚悟を決め今度は破けた服の隙間に手をかけその内側を覗いてみた。
そしてそこにあったのは白い陶器のような二つの丘、男にはないはずのもの。小さすぎず、大きすぎずその頂上だけを別の色に染めた──
「どうなってんだよ……」
そこまで確認して恥ずかしさから手を離した。顔を赤くして思わず悲観気な呟きをし、その声もまた二十年以上を共にしたものではなく、鈴のようで尚且つ凛としたソプラノのだった。
唖然としたままは思わず天を仰ぐ。木々の隙間から見える満点の星空と満月は優理の心情などお構いなしに輝いていた。とても日本の都会では見れないであろう絶景──そこまで考えたところで慌てて辺りを見渡した。
まず目につくのはひらすら続く緑。何十年も、あるいは何百年も生き続けている木々がそこら中に根付いており、誰にも手入れされていない植物たちは我先にと自分勝手に体を伸ばしている。月明りに照らされたその大自然はどこか力強さを感じさせ、安全が保障されているのなら散歩してみたりするのも悪くない。
今は残念ながら安全快適な旅行ではなく遭難と言った表現が適当なのだが。
「どこだか知らないけど、ここから出ないと」
楽しくゲーム仲間たちとオフ会を楽しんでいたと思ったら、見知らぬ土地へなぜか性別まで反転されて放り込まれる。全く持って意味が分からない。そんな理不尽な状況に対する怒りを自覚しながら倒れていた体を起こし立ち上がった。
立ち上がったのはいいが、どちらへ歩けば森から出られるのか、安全な場所へ行けるのか検討もつかない。それでも動かなければ始まらないと足を動かそうとし、
──木々の隙間、その暗がりに浮かぶ赤い光をを見つけたのは偶然だった。
あれはまずい、と初めて見るものであるのに本能が全力で警報を鳴らす。それと同時に眼を離してはならないとも思った。長い銀髪のかかる背中に冷や汗が流れるのを感じながら、この状況に最大限の悪態を付く。もしも神様なんてものが存在するなら殴り飛ばしてやるところだ。
そして先に痺れを切らしたのかその赤い光の持ち主が闇をかき分けて姿を現した。大きさは大型犬ほど。鼠色の毛皮に包まれたその四足歩行の狼はしかし、日本で飼われているような犬とは比べ物にならないほど強靭な肉体を持っているのが遠目からでも窺えた。
さらにはその肉体と負けず劣らずの迫力を持つ鋭い牙と爪を併せ持ち、一度捕まれば生きて帰れないのは想像に難くない。そんな狂暴を具現化したような存在が爛々と赤く輝く双眸を優理に向けていた、それも三体も。
(もしかしなくてもやばいっての!?)
大人になり切れていない遭難中の少女──中身は男性だが──に対して狩りのプロが三体だ。過剰戦力にもほどがある。そのプレッシャーに負けてゆっくりと後ずさり、木の枝を踏み抜く乾いた音が静かに鳴った。
それを合図に優理は後ろへ振り返り全力で走り出す。月明りで照らされた森に獲物を見つけた歓喜の咆哮と、少女の悲鳴が響き渡った。
オフ会なんて数回しか行ったことが無いので微妙なのですが……お互いゲームの名前で呼び合うのが普通ですよね?