1・4月 【上旬】
4月。
春なんて来ないんじゃないかと思うほどの寒さに思わず身を震わせた月の初め。いつもより増して霧が濃く、視界は零。全く周りが見えなかった。
木で作られた古い家は、中に入れば暖かく僕を迎えてくれる。
今年こそは命に関わることになると戦々恐々として迎えたエイプリルフールを無事に終え、拍子抜けしつつ出しっぱなしのコタツから窓を見ながら「もうそろそろか」と思っていると案の定、コンコン、と控えめな音が響いた。
「すみません、どなたか、いらっしゃいませんか?」
その声は少し困惑したようだった。高めの、女性の声。
「はい」
しぶしぶ暖かい天国から出て、戸を開ける。木製で引き戸だから開けにくいことこの上ない。
「何か御用でしょうか?」
思ったとおりの女性。しかし、彼女はきょとんとしていた。
「…あの、ここ、本当に―」
「黒い封筒を受け取られた方ですね?」
彼女は驚いて僕を見ていた。
「なんで―」
「では、お入りください。ご説明いたしましょう」
僕はにっこりと笑って、彼女―青原 舞子を迎え入れた。
「寒かったでしょう? どうぞ、コタツにお入りください」
僕は頼まれたとおりにアメリカンコーヒーを入れた。知人に淹れ方を教わっておいて本当に良かった。
「あの、どういうことなんでしょう? 失礼ですが、君みたいな子どもがこんなところで、しかも封筒のこと…」
彼女は警戒…というよりは、疑うように僕を睨んでいる。
僕はにこりと笑いかけながら、コーヒーとお茶を運ぶ。
「驚かれるのはもっともだと思います」
コタツの上に、お茶とコーヒー。コーヒーカップはお店で使っているようなものだから不釣合いもいいところだ。
「けれど、僕のことよりも封筒のことを話さなければなりません。僕の説明中、一切口を挟まないことを約束してください。話は、それからです」
「…わかりました」
渋々頷いたのを確認してから、一呼吸おいて話し始める。
およそ一千年の昔。
―この国の何処かにある海域。地図にも航海図にも載っていないその海域は、しかし確かにそこに存在している。年中霧に包まれ、その海域は危険地帯として知られている。暗礁が多く、海流も早い上に渦を巻いている。普通の船では、行くことはおろか、通り抜けることさえできない。そしてその海域の中央には島がある。知っている者は少ない。ほとんどの冒険者達は、海域に何があるのかを知りたいらしいのだが、島を訪れようとする者達は例外なくその霧に包まれた瞬間に命を落としている。けれど彼らは挑戦をやめようとはしない。
そうまでして島を目指す理由、それが。
―島の神殿に行けば、自らの時間と引き換えに、願いと永遠の命が手に入る―
勇敢な者たちは無謀なことに、何も持たずにその海域に踏み込む。それが、島の神を怒らせているとも知らずに。
僕が話し終えた後、僕は彼女を見てみる。呆れたような顔をしていて、如何でもよさそうに見える。彼女、どうやら僕をかなり疑っているみたいだ。
…っていうか本当に一切口を挟まなかった。この人疑い深いくせに素直というか、単純というか、何と言うか。
「…そのお話と、この状況と、どう関係があるのでしょうか」
なんだか当たり前の反応をされてしまった。まあ、そりゃそうだろうな…わけのわからない方からすると、わけのわからない話だろうから。
「ええまあ、それはそうですよね」
「一千年も昔の話ではなく、今の話が聞きたいのですが」
「一千年前の話じゃなかったとしたら?」
「…はい?」
僕はため息を吐く。一千年前の事だったら、僕だって苦労してない。
「今もその島が実在するとしたら、どうです?」
「実在…といいますと」
彼女は胡散臭そうに僕を睨む。
「言葉通りですよ、実在するんです。そして」
一旦言葉を区切って、言う。
「本来なら見ることすら出来ないその島に行くためには、その黒い封筒…僕は『護符』と呼んでいますが…それが必要なんです」
「あの…1つ質問なのですが」
「はい、どうぞ?」僕は頷く。
「どうして貴方はそこまで知っているのですか?…その、島のこと」
何度も説明していると飽きてくるんだよな、いい加減。それが、僕の仕事だとしても。
「僕は島の神に許された、唯一の案内人なんです」
大げさに言ったつもりは微塵もなかったのだけれど、彼女はくすりと馬鹿にしたように笑った。
「貴方が、ですか?」
笑い混じりにそういう。
「ええ、まあ」
僕はうんざりしながら、それでも表に出さない。
「この話にまつわる人たちになら、結構有名なんですけどね」
彼女は笑いを止めた。
「この髪に」僕は深くかぶっていた帽子を取り「瞳の色」レンズの上から瞳を指し、名乗った「 」
「…それ、」
「今は、司会者の『司』で、つかさって名前ですけれどね」
今の様子を見る限り、彼女は僕の特徴を知っていたみたいだ。つまり僕を探していた中の1人なのだろう。そうでなければ、こんなところまで1人で来るはずがない。
「やっと…」
そうつぶやいた声を、僕は聞き逃さなかった。
それからしばらく他愛もない世間話をした。無愛想もここまでくるといっそ清々しいと思った。
彼女の年齢は29才。そうは見えないといったら、童顔である事を気にしていると言っていた(ちなみに僕は、23才くらいだと思っていた)。仕事は会社員だと言う。役職は教えてはくれなかったので推測だけれど、僕は秘書をしていると思う。持っていた鞄の中が見えたときに分厚い手帳のページが見えて『社長の予定』と書いてあったからだ―まあ、それだけでは断定できないよな、うん―
そして、彼氏は募集中だとか。このあたり要らない情報だった。
「…あの、もう帰らないと…」
「ん、ああ、そうですね」
僕は立ち上がって、最初の大仕事に取り掛かる。
「では、契約をしましょう」
「…契約?」
彼女はきょとんとする。…やっぱり、30前には見えない。
「今日は島にお連れすることは出来ません。貴女にも都合があるでしょうから、日を改めることにしています」
「ああ、そうですね」
少し残念そうに見える。
「都合がいい日はいつですか?」
少々お待ちください、と言って手帳をめくる。手つきがスムーズだ。やっぱり、この人秘書だな。
「そうですね、来週の土曜がいいです」
「では、その日に必ずお越しください。11時に出発ということで、その時間を過ぎるとお連れすることは出来ません。形式上必要なものなのですが、ここに契約書があるのでお読みください」
陽に焼けてボロくなった紙を手渡す。僕が手で書いた契約書。少し、薄くて読みにくい。
―――
契約書
島に渡るにあたり、以下の点を厳守していただきます。
守れると約束できない場合、又は、契約内容を破ってしまった場合、島には渡らず、命の保障は出来かねます。
・契約する者(以下あなた)はこの島に関わる一切のことを誰にも話さないこと。
(黒い封筒『護符』のこと・案内人の住む場所・島の場所・約束事など)
・あなたは、何があっても案内人の事を一切恨まないこと。
・あなたが島に渡った後、滞在する時間は一日間(24時間)とする。
それ以上は滞在できないこと。
・あなたは24時間内に舟に戻ってくること。
・案内人は、島の中でのあなたの行動、生命、その他一切の責任を負わないこと。
ただし、案内人は島へ送る際は責任を持って行動する。
・あなたが島に持ち込めるものは、案内人が貸し出す物のみとする。
それ以外を持ち込んだ場合、案内人は持ち物への責任を一切持たないこと。
・あなたは案内人に対し、案内料として出発日に全財産の半額を現金で支払うこと。
・あなたは島から本島に帰ってきたその日に、案内人に島で体験してきたことを必ず話す。
氏名 印
―――
「…この、現金で全財産の半額というのは…」
「僕も生活するのにお金が要るし…いろいろ、必要になるんです。それに最近ではここを訪れる人も少なくて…」
彼女はかなり悩んでいる。それはそうだろう。全財産の半分。彼女の場合、かなりの大金になるだろうから。
「…まあ、金額は少なくてもいいですが、その場合安全性が低くなることになります。それでよければ」
「いえ、わかりました。半額だと証明できるものは当然必要ですよね?」
「いりません。半額かどうか、それは貴女がわかっていればいいことです。島に渡る際の安全は書いてある通りに僕が責任を持ちますが、それ以降の責任は全て貴女に委ねられますので」
彼女は驚き、何度も確認した。何度言われても同じだというのに。
契約書に名前を書き、印鑑がなかったらしいので朱肉を出すと親指の指紋で代用した。
玄関口。彼女は戸を開けて、振り返る。
「半額、必ず当日お渡しします」
「はい」
「では、また後日」
「またお会いしましょう」
こうして、青原 舞子は帰って行った。
僕が次に彼女に会うのは、来週の土曜日だ。
…それにしてもやっぱり30前には見えないよな。
うん、あのくらいの人もかわいいかも……痛いっ!?
上からタライが落ちてきた…
エイプリル・フールの影響!?