第五話 畳の向こうは異世界でした
グランドルーフの南部に多く住まう人間族はこの世界で最も力を持った民族だ。
だが、魔術に秀でた魔人族や、世界各地で名だたる功績を残し、その類まれな才能と、美しい容姿から「神の眷属」と呼ばれる亜人族、そして魔人族と生活圏を共有し、その恐ろしい半獣の姿から「人あらざるもの」と呼ばれている獣人族と比べて、人間族に突出して優れている能力は無い。
その昔、百年戦争の原因である「最初の経済危機」以前は「いつも怯えている劣等種」と蔑まれる民族だった人間族が、この世界を席巻するに至った理由、それは彼らが自ら創り出した「武器」にあった。
思慮深く繊細な民族である彼らが創り出したもの──それは腕力でも魔術でも無く、無形でありながら全ての民族を支配できる「経済」だった。
そしてここ、グランドルーフの南部に位置する美しい森林地帯に囲まれた荘園「エルトン」もまた、人間族によって作られた彼ら独特の経済構造のひとつだ。
エルトンは、この地を治める大領主ヘンドリクスが持つ領地で、荘園差配人と呼ばれる領主の代理人、修道院長ファミュールが統治する荘園だった。
中心に教会を置き、開放耕地や緑地、家畜の囲場や商店などが立ち並ぶ中規模の荘園エルトンには、そこで暮らす商人や農奴以外にも、世界を旅する行商人や、教会の依頼を受け、荘園に被害を及ぼす害獣を駆除したり、犯罪者を捕縛する業務を請け負う「請負人」と呼ばれる人間が多く訪れ、賑をみせていた。
その荘園エルトンの中心を通る大通り。すれ違えば思わず振り返ってしまう程のひときわ美しい女性の姿があった。
年齢は二十代後半程か、丈の長いチュニックの上に着たゆったりとした上着から覗く四肢は華奢で美しく、最も特徴的なのは、髪留めでハーフアップされたブロンドに輝く頭髪の間から覗いている細長い耳。
エルトンで銀細工ギルドを営む彼女、ヘンリエッタは魔人族に次ぐ高位の魔力を持つ亜人族の中でも、最も高貴で美しいとされる長耳人だった。
「おや、誰かと思えばヘンリエッタさんじゃありませんか」
ヘンリエッタが丁度教会の前を通りかかった時、甲高い声で一人の男がその名を呼んだ。
「トッタ神父……っ!」
金の刺繍が入ったケープを羽織った神父らしきその男、トッタ神父の姿を見たヘンリエッタの表情は何故か瞬時に凍りついてしまった。
「何処かにお出かけですかな?」
「ええっと……はい、ちょっと、そこまで」
涼しげな表情で囁くトッタ神父とは対照的にヘンリエッタの表情は引きつっていく。
一番会いたくない嫌な人に会ってしまった、と心の中でヘンリエッタは毒づいた。
「それはそれは。ヘンドリクス様へ上納する貨幣地代を滞納していらっしゃるのに、のんきに散歩とは大変良いご身分ですね」
──来た。来ましたよ。
トッタ神父の口から、まるで息をするように吐出される嫌味にヘンリエッタは思わず視線を伏せてしまう。貨幣地代とはこの荘園を治める領主ヘンドリクスへ上納する土地の賃貸料の事だ。現在この荘園は領主の代わりに修道院長ファミュールが管理しているため、毎月の貨幣地代はファミュールが修道院長を務める教派「聖マリアント教会」に上納する事になっている。そしてヘンリエッタは二ヶ月分、貨幣地代の上納が遅れていた。
「貴女の父の代からの付き合いで大目に見ていますがね、これ以上遅れるのであればそろそろこちらも然るべき対応をさせていただきますよ」
「申し訳ありません。今月には必ず」
深々と頭を垂れるヘンリエッタの美しいブロンドの髪がふわりと風に揺れた。直謝りする美しいヘンリエッタにトッタ神父は上機嫌になったのか、卑下するような笑みを携える。
「おお、なんと今月に? 荘園に来た新手の銀細工ギルド『バーバラ商会』に客が流れているせいで貴女の銀細工ギルド、ホワイトムーンは閑古鳥が鳴いていると聞きますが、滞納した貨幣地代を上納する策がお有りで?」
「え、ええ……まぁ」
いやみったらしく問いかけるトッタ神父に曖昧な返事を返すヘンリエッタ。
ヘンリエッタが営む銀細工ギルド、ホワイトムーンは主にこの荘園を訪れる請負人を相手に、彼らの必需品とも言える「シルバーアクセサリー」を販売するギルドだ。
「ギルド」とは、その土地を治める領主が商売を許可した組合の事を指す。物を売る事に特化した商人が経営する「商人ギルド」と、物を作る事に特化した職人が営む「職人ギルド」があるが、ホワイトムーンはその中間、つまり、ヘンリエッタ自身がシルバーアクセサリーを生産し、販売するという特殊な商法を取っていた。
生産から販売まで一括して管理する事が出来るために価格調整が容易に行え、市場動向に順応に対応できていたホワイトムーンは順風満帆なギルド経営を行っていたが、数ヶ月前、同業者である銀細工ギルド「バーバラ商会」がエルトンに現れ、膨大な資金力をバックに安価なシルバーアクセサリーを大量に販売し始めた事でホワイトムーンに足を運んでいた請負人達の姿はぱたりと無くなっていた。
「まさかですが、貴女『商売を立て直す為』にルーヴィク神殿に行くつもりじゃ無いでしょうね? あの汚らわしい商業神とやらに祈りを捧げに」
「えっ?」
冷ややかな視線を送るトッタ神父にヘンリエッタの背筋にぞわぞわと悪寒が走る。
「ご、ご冗談を。礼拝が禁止されているルーヴィク神殿に行くはず無いじゃありませんか」
私の心よ落ち着け、と祈る思いでヘンリエッタはそう返す。トッタ神父のそれが彼ら聖マリアント教会の「異端容疑者探し」のやり口であるということは荘園に住む人々には良く知る事実だったが、ヘンリエッタには彼の言葉を鼻で笑い、さらりと聞き流す事が出来なかった。何を隠そう、ヘンリエッタは祖父の代から長くに渡りルーヴィク神殿に祀られている商業神を信仰する数少ない商人の一人だったからだ。
「まぁ、噂には背びれ尾びれが付くと言いますが、ね。しかし、もし貴女が商業神を崇拝しているとわかれば、私たちは『貴女達』に罰を与えなくてはなりません」
貴女達、という言葉にヘンリエッタは思わず息を呑んでしまう。
「ふむ、そうですね、まずは貴女の父の形見である銀細工ギルドは取り壊される事になるでしょう。そして貴女は処刑され、弟のマルクス君は同じく処刑か、良くて投獄されてしまうでしょう。そうなればもちろん彼の夢である請負人になることは不可能になるでしょうねぇ」
トッタ神父はわざとらしく誇張しながら身振り手振りを付け加えそう囁く。そんな嫌味たらしいセリフを吐くトッタ神父にふつふつと怒りが込み上げてくるヘンリエッタだったが、貨幣地代の滞納という非があるヘンリエッタには唇を噛み締める事しか出来なかった。
「貨幣地代の滞納でこの荘園を追い出されるのが先でしょうか? それとも異端の罪を犯した犯罪者として裁かれるのが先でしょうか? あぁそうだ、もし支払いが難しければ、聖マリアント教会の『神聖娼婦』の職を斡旋しましょうか?」
「しっ……神聖娼婦……ッ!」
神聖娼婦とは、信者へ神の祝福を授けさせる為に己の身体を売る聖職者の事を差す。
しかし、表向きは信者に対する洗礼のひとつとして説明されている神聖娼婦だったが、その正体は、聖職者でも無い困窮した女性を売春婦として斡旋している人助けと名を打った、ただの売春斡旋業であった。
「……大丈夫ですよトッタ神父。私は異端神を信仰してなど居ませんし、貨幣地代もしっかりとお納めしますから」
「そう願いますよヘンリエッタさん」
「それでは私はこれで。ごきげんよう、トッタ神父」
ヘンリエッタは小さくお辞儀をすると、その場を逃げるように去る。だが、毅然とした態度で出来うる最大の言葉を返したヘンリエッタだったが、その表情には次第に影が落ちていった。
ヘンリエッタには文字通り神頼みをしたくなるほどに難解な頭痛の種があったからだ。
ひとつは先ほどトッタ神父も言っていた、祖父の代から続くホワイトムーンの売上が右肩下がりになっている事。そしてふたつめは、弟のマルクスだった。
物心付く前に父と母を亡くし、両親の代わりにマルクスをひとりで育ててきたヘンリエッタだったが、マルクスは目立たない職業である銀細工師では無く、派手で危険な請負人になることを夢に語っていた。
剣や魔術を巧みに操り、その身ひとつで生きていく請負人は、特に子供達の憧れの存在だったが、請負人という職業の危うさを良く知っていたヘンリエッタはこの世界に残された唯一の家族であるマルクスを死なせる訳にはいかないとその夢に猛烈に反対していた。
「あぁ、腹が立つ。あの性悪神父っ。何が神聖娼婦の職を斡旋しましょうか、よ!」
心地よい日差しが舞い込むエルトンの森にどすどすと重い足音が響き渡っていく。
荘園を離れ涼しげな風が舞う森の中を歩くヘンリエッタはそうひとりごちていた。
「確かに悪いのは貨幣地代を滞納している私よ? だけど、あそこまで言う必要無いじゃない。トッタ神父は絶対私達をこの荘園から追い出したいんだわ」
さわさわと囁く葉擦れの合唱が、そうだそうだと賛同してくれているように聞こえてしまうほど、ヘンリエッタは怒りにふるえていた。
「マルクスも全然言うことを聞いてくれないし、それに急に現れたバーバラ商会! 安価だけど質の悪いシルバーアクセサリーばかりを請負人に勧めて、自分達の利益しか考えて無い。請負人の事を考えているのなら、粗悪で安価なシルバーアクセサリーじゃなくて、身を守る魔術の付与効果が高いアクセサリーを勧めるべきなのに」
いつの間にか怒りの矛先がトッタ神父からバーバラ商会へと向かっていたヘンリエッタ。
「あぁ、助けてください商業神様。父の形見であるホワイトムーンと弟のマルクスを──」
そして、まだルーヴィク神殿に到着していないにもかからわず、祈りを捧げんとヘンリエッタが両手を組み天に突き上げた、その時だった。
「ぅわぁぁぁぁぁぁッ!!」
ふとヘンリエッタの耳に届いたのは、男性のものらしき叫び声だった。
だがその声が何処から放たれているのか判らない。
「な、何?」
不気味な叫び声にヘンリエッタは思わず辺りをきょろきょろと見回す。
そして、ふと空を見上げたその時だった。ヘンリエッタの目に映ったのは上空に浮かぶ豆粒ほどの黒い影。その影は──人間の影だった。
「えっ!? ひ、人!?」
ヘンリエッタの瞳に映るそれは、明らかに手足をばたつかせている人の影だった。助けないと、と心の中で叫ぶヘンリエッタだったが、彼女の脳から送られて来た指令に身体が反応する前に、その人影は瞬く間に目前に迫り、ヘンリエッタの直ぐ脇に轟音を轟かせながら激突してしまった。
「きゃぁぁっ!」
揺れる地面。舞い上がる粉塵。逃げ惑う森の小動物達の後を追うように放たれたヘンリエッタの悲鳴。
そして、幾ばくかの間を置き、舞い上がる煙の向こうにふたつの人影がぼんやりと浮かび上がった。
「げほげほっ……し、死ぬかと思った……」
煙の向こうに見えたのは、大人ほどの人影と、少し小さい人影。
空から落下してきて何故元気でいられるのかヘンリエッタには到底判らなかったが、どうやら落下してきたのはこの大きな影のようだった。
「だから着地に注意しろ、と言ったのじゃ」
「だからっていきなり落とすなっつの! 本当に身勝手な神様だなっ!」
「あっ、こ、こらっ、儂を神様と言うな! ほれ、はよ行かんか」
「いや、だから無理だって! それに、女の人だって聞いてないし!」
困惑するヘンリエッタをよそに人影は、砂煙の向こうでやいのやいのと喧嘩を始めた。
そして暫くその二つの人影は訳の分からない言い合いを続けた後、押し負けてしまったのか大きい方の人影が粉塵をかき分けてヘンリエッタの前に姿を現す。
重苦しいため息を引き連れながら、人間の物とは思えない凄まじい形相で。
「おうおお、おおお、お姉さんっ!」
「ひぃっ!?」
この世界には存在しないリクルートスーツに身を包み、女性に話しかけるという緊張からか、とてつもなく血走った目を携えた冴えない青年──瑛太の姿は、どこからどう見ても美しい女性に襲いかかる暴漢のそれだった。
「お待たせしましたッ! 僕が商業神ルゥです!」
まるでピザの届けにきた宅配の兄ちゃんのセリフかと思ってしまうほどに、瑛太は自信満々に言い放つ。僕が今から貴女を助けますと言いつつも、全然助ける空気を出していない瑛太に、ヘンリエッタの表情はみるみる青ざめて行った。
そして──
「……ぎゃぁぁぁっ!!」
こののち、瑛太は深く反省することになる。女性へ声をかける時は身だしなみに気をつけ、優しく、紳士的に、それとなーく声をかけるべきだと。
その声が聞こえたと同時に瑛太の視界いっぱいに広がったのは、ヘンリエッタの右指から放たれた凄まじい光だった。この世界で魔人族に次ぐ高い魔力を持つ亜人族が最も得意とする白魔術。その中でも特に殺傷能力が高い「退魔魔術」が炸裂したのだ。
刹那の間を置き、空気を震わし大地を揺るがすヘンリエッタの退魔魔術の爆音が轟く。
「……ッひぎゃぁぁぁぁっ!」
そしてその爆音を追いかけるように森に広がったのは、哀れな瑛太の断末魔の如き叫び声だった。