第二十三話 ルゥの異変
自分の運命が他人の手にかかっているという状況がこれほどこたえるものだとは。
瑛太は落ち着きなくうろうろと歩き回りながらそう自答した。ラドマンが部屋を去ってしばらくは椅子に座ったままぼんやりとこれからの事を考えていた瑛太だったが、考えれば考えるほど頭の中は悪い方へと突き進んでいく。もしラドマンさんが証拠を見つける事ができなかったら? トッタ神父にバレてラドマンさんが捕まってしまったら?
それを考え始めてしまった瑛太は、落ち着いて椅子に座っている事など出来なかった。
「ええい、うっとおしい。黙って座っておらぬか」
辺りを忙しなく歩き回られ、長椅子に寝転がっていたルゥが怪訝な表情を向けた。
「神妙な顔でそうウロウロと歩きまわられたら、こっちまで心配になるわ」
「や、僕だってじっと座ってたいんだけど、どうも落ち着かなくてさ」
「お主が焦った所で事態は好転せぬ。今はラドマンの報告を待つしかあるまい」
トッタ神父とバーバラ商会の繋がりを発見すると言ったラドマンだったが、闇雲に只走り回るというわけではなかった。トッタ神父の依頼を受けている請負人に依頼し、トッタ神父に近づいて証拠を得ようと考えていたのだ。
普通であれば依頼主を裏切るような行為は請負人にはご法度だったが、その依頼は彼らの「育ての親」とも言えるラドマンだからこそ出来る芸当だった。
「ルゥもこんな感じだったわけ?」
「何がじゃ?」
「ほら、自分ではどうにも出来ないから僕を代理人に選んだわけでしょ?」
力が失われ、己の力ではどうしようもないからこそ、比留間家に助けを求めた。
「馬鹿者。儂はお主と違って覚悟があるからの。そう焦れるわけなかろう」
「覚悟って?」
「もちろんこの世界から消えてしまう覚悟じゃ」
ルゥの口から放たれたその言葉に瑛太は思わず息を呑んでしまった。
「なんだそれ。どういう意味だよ?」
「いや、別にお主の事を信じて無いわけではないぞ? そういうのではなくて、もしそうなってしまっても仕方がないと言っておるのじゃ。儂がこの世界に居る理由は、商人たちの繁栄を祈り、助けることじゃ。それができなくなってしまえば消えても仕方あるまい?」
「だ、だけどさ……」
その言葉に眉を潜める瑛太。ルゥが言っている事はもっともなことだった。
この世界に人たちも昔はルゥやその他の神様を必要としていたに違いない。彼らが生活の一部であり、彼らと共に生きていた。
だけど、時代が移り変わって、経済が発展して物事が神頼みじゃ無くなってしまえば彼らに頼る人たちも少なくなる。曖昧なものではなく、目に見える単純なものに。
しかし、瑛太にはどうしても納得が行かなかった。
「少なくともヘンリエッタさんは商業神を信仰してたし、ラドマンさんだってルゥの事を敬ってる。これまでずっと皆の事を考えてきたルゥが消えて喜ぶ奴なんて居るわけが無い」
「聖マリアント教会は喜ぶだろうな。特にトッタの奴は」
「う……確かにそうだけど……そういう事を言ってるんじゃなくてさ!」
「ふふ、わかっておるわ。お主は本当に素直な男じゃ」
上手く言葉にできずに悶てしまう瑛太にルゥはくすくすと小さく肩を震わせ、続ける。
「だが、そう思っていたのはお主に会う前までじゃ。儂は間違っていたのかもしれぬの」
そう言ってルゥは小さなテーブルの上にきらきらと煌めく何かを載せた。
丸い形をした、虹色に輝くふたつの指輪だ。
「シルバーアクセサリー? どしたの、それ?」
「ラドマンが儂に。どうやらヘンリエッタが儂らの為に作ってくれたらしい」
「え? ヘンリエッタさんが?」
「いざという時に必要になるかもしれんからと、な。ちなみにこっちの方はマルクスが作ったものらしい」
「マルクス君が作った? このシルバーアクセサリーを?」
テーブルの上に置かれた指輪はどちらも美しい虹色に輝いている。それはつまり、付与された魔術が安定して定着し、質が高い事を意味する。
瑛太には、マルクスがヘンリエッタのそれと違いが無いほどの練度が高いシルバーアクセサリーを作った事にも驚きだったが、それ以上に彼が嫌っていた銀細工に手をつけた事のほうが驚きだった。
「ホワイトムーンを助けてくれた儂らの力になりたいと自分から言い出したらしい。その話を聞くとな、心の中がぽかぽかとするんじゃ。儂をまだ想ってくれておる人間が居るのじゃと」
そう語るルゥの表情はとても優しく、穏やかな表情だった。
「そ、そうだよ。だから言ってるじゃん」
「瑛太はどうじゃ?」
「へ?」
その言葉に瑛太の身体はぴん、と固まってしまった。
「瑛太も、彼らと同じように儂を想うてくれるか?」
「そ、それは……」
心配げな表情でルゥが瑛太の瞳を見つめる。深く、吸い込まれるようなその瞳に瑛太はぱくぱくと金魚のように口を動かすだけで言葉を失ってしまった。
「ふふふ、人の『心』とはまことに温かいものじゃな、瑛太」
そう言ってルゥは、ころりと長椅子に身体を預け、ふたたび夢の世界へと旅立つ。現実世界に取り残された瑛太は息をすることも忘れ、石像のようにその場に立ちすくんでいた。
***
一体どれくらい時間が経っただろうか。小さな窓から見える空から差し込む日差しが西へと傾き、黄金色に輝いた部屋が次第に暗く落ちてきたそのとき、その異変に気がついたのはまたしてもルゥだった。
「瑛太」
「……んあっ!?」
先日までの落ち着きのない浮ついた姿からは想像できないほどに落ち着き払って寝息を立てていた瑛太がルゥの声に飛び起きるように椅子から立ち上がる。
「えっ? 何? 何かあった?」
「お主のその性格、少しうらやましいの」
きょろきょろと辺りを見渡す瑛太にため息混じりでそう漏らすルゥ。
「なにやら付近の空気が妙じゃ」
「空気? ……別に何にも臭わないないけど……?」
すんすんと鼻を震わせ、辺りの空気を確かめる瑛太だったが、特に変な臭いはしない。
「たわけ。そういう意味ではないわ。空気が張り詰めとる」
「……ラドマンさんが戻ってきたとか?」
多分、他の請負人の人たちと行動しているに違いないから、空気が張り詰めてもおかしくはない。そう楽観的観測をする瑛太だったが、妙に顔を強ばらせているルゥの姿にごくりと固唾を飲んでしまう。
「瑛太。指輪を」
「指輪? な、なんで指輪?」
「念の為じゃ。魔術を使えぬお主の役に立つはずじゃ」
ルゥの言葉に瑛太の表情がひくりと固まった。
魔術を使えない自分の役に立つ──それはつまり、これから魔術を使わざるを得ない状況が待っているかもしれないという事だ。
そしてその言葉にあわてて指輪を手に取り、両方の人差し指へと通した、その時だった。
窓ガラスの向こうにぽつんと浮かぶ小さい光の玉が瑛太の視界に映った。火の玉とはまた違う青白い光の玉は、ふわふわと宙に舞いながらゆっくりと窓ガラスへと近づきガラスにあたって跳ね返るかとおもいきや、そのままガラスを通り越し部屋の中へと姿を現した。
「な、何だ?」
ふと、これはこの世界で特に珍しくもない雨や嵐が来る前の自然現象なのかと考えてしまった瑛太だったが、同じくその光景を見ていたルゥの表情が瞬時に強張ったのがはっきりと判った。
「瑛太っ! 目を閉じろっ!」
咄嗟に腕で両目を隠しながら、ルゥが叫んだ。その言葉の意味を瑛太が理解できたのは、目の前に浮かんでいた光の玉が大きく爆ぜた瞬間だった。
それに音は無かった。ただ目の前に突然太陽が現れたのかと思うほどに光の塊が膨れ上がり、瑛太の両目を襲った。
悲鳴ともうめき声ともとれる声が瑛太の喉から放たれた。まるでブレーカーが落ちるように瞬時に黒く落ちてしまった瑛太の視界。
「ルゥッ!」
じんじんと熱を持った両目を押さえながら、パニックに陥ってしまった瑛太は、咄嗟にルゥの姿を手探りで探す。方向感覚だけを頼りに、ルゥが居るであろう場所にあたりをつけ、手をのばす。そしてすぐに小さな手のひらが返事を返した。
「瑛太、ここじゃ」
「ルゥ、今のって……」
「魔術じゃ! あの光の玉は、強烈な光で視界を奪う魔術じゃ。追手の中に魔術を使える者がおる!」
「ま、魔術!?」
「亜人族か、あるいは──」
と、そこまで言いかけたルゥがひくりと息を呑んだ。
続けて部屋に響き渡ったのは、窓ガラスとドアが破られるけたたましい音だった。
「下がれっ!」
瑛太の手を握るルゥの小さな手がきゅっと力を込めたと同時に、稲妻が走ったような轟音が轟く。瞼の向こうが青白く光輝き、空気を震わす衝撃が瑛太の頬を撫でた瞬間、思わず瑛太は声にならない悲鳴を上げてしまった。
そして、轟音に続いたのは、部屋に乗り込んできた追手らしき男たちの悲鳴と、がらがらと何かが崩れ落ちる音。その物々しい騒音で瑛太はルゥが魔術を発動したのだと察した。
「ル、ルゥ、大丈夫か!?」
状況が把握できない瑛太が慌てて傍らに居るであろうルゥに問いかけた。未だに僕の手をにぎりしめてるから無事だとは思うけど、魔術を発動したということは、追手がすぐ近くまできたということだ。もしかすると傷を負ってしまったかもしれない。
「……瑛太、逃げるぞ」
大丈夫、と言いたげにぎゅっと瑛太の手を握りしめながらルゥがぽつりと零した。ルゥの声にひとまずはほっと胸を撫で下ろした瑛太だったが、その胸に別の不安がよぎる。
「逃げるって……どこに?」
ホワイトムーンにもトッタ神父の息がかかった請負人たちが張っているだろうし、逃げる場所はもうどこにもないはず。
「ラドマンが戻ってくるまで時間を稼ぐならば、うってつけの場所にひとつ思い当たるフシがある。ルーヴィク神殿じゃ」
「……ルーヴィク神殿……あの境目か!」
目を丸くしながらそう返す瑛太。確かに、時間を稼ぐだけであれば僕とルゥが出会ったあの「境目」に行けば可能かもしれない。
「行くぞ瑛太。儂の手を離すな」
次第に戻りはじめた瑛太の視界に、ルゥの煌めく美しい髪が映った。
視界がもどりつつある。視界が戻ればもう大丈夫、と言いかけた瑛太だったが──続く言葉を飲み込んでしまった。
ぼんやりとした視界の向こう、そこに見えたルゥの表情はエルトンの空を支配する闇夜の影響なのか、酷くやつれているような気がしたからだ。
「ル、ルゥ?」
妙な胸騒ぎを覚え静かに問いかける瑛太。だが、瑛太の視線を感じたルゥは何も言葉を返すことなく、慌ててフードの下にその表情を潜めた。
***
ルゥが請負人ギルドで放った魔術は結果的に様々な幸運をもたらした。
まずひとつは取り囲んだ追手たちを一時的に追い返す事に成功したこと。そしてもうひとつは、エルトンの各所で網を張っていた追手を逆に誘き寄せることに成功したことだ。
請負人ギルドに追手たちが集まった事で、エルトンと外界をつなぐ各所が手薄になり、結果、瑛太たちはエルトンを脱出することに成功した。
しかし、エルトンを出た事で、追手の恐怖から開放された瑛太だったが、それはほんの一時だった。追手に代わりに、まとわりつくような森の闇と、いつ襲い掛かられてもおかしくない魔獣たちの気配が瑛太の心を憔悴させていく。
「すまぬ瑛太、少し休憩しても良いか?」
夜目が効くために、瑛太の手を引き先頭を小走りで進むルゥがぴたりと足を止め、苦しそうにそうつぶやいた。森に入って小休止を入れるのはこれで三度目だ。
「大丈夫?」
「……うむ、少し休めば走れる」
手を握ったまま、すとんとその場に屈みこむルゥ。この手は離したくない、と言いたげに強く握りしめるルゥにやはり何かを感じた瑛太は、ルゥの傍らに腰を降ろした。
追手がいつ何時現れるかわからない為に急いでルーヴィク神殿に向かってはいるものの、時間的にそう長い間走っているわけではない。現に、虚弱体質の瑛太がぴんぴんしていることから、ルゥのそれは明らかにおかしかった。
「あの時、請負人ギルドでなんかあった?」
ルゥがおかしくなったのは請負人ギルドを出てからだ。考えられるとすれば、あの魔術で一時的に視界を奪われた時だ。
「何も無い」
「でも、なんかメチャしんどそうじゃん」
「ここの所ヤバイ状況が続いておるからな。単に気をもんでしまっただけじゃ。心配ない」
だが、ルゥのその言葉が嘘だということは鈍い瑛太にもはっきりと判った。一体ルゥの身に何が起きたのか。ひょっとするとこの数日で何か病気にでもかかってしまったのかと考えた瑛太だったが、すぐにそれは頭の中から消した。そもそも神様であるルゥが何か病気にかかるわけはないし、ちょっとやそっとじゃこんな状態になるはずは無い。
と、瑛太の頭にとあることが思い起こされた。
「ちょっと待って。ルゥ、さっきなんかすんごい魔術使ってなかった?」
それは、請負人ギルドでルゥが放ったと思われる、あの轟音の正体だった。
「ルゥ、最初に言ってたよね? 儂にはもう商人たちを救う力は無い、って」
ルゥが静かに顔を伏せたのが闇に慣れてきた瑛太の目に映った。
「今、魔術を使うのって、もしかして凄く身体に負担がかかるとかじゃないだろうね?」
追い立てるように言葉を連ねる瑛太に、ルゥは何も返せなかった。
だが、否定しないということは、それは間違ってはいないという事を意味する。無言で肯定するルゥに、思わず瑛太は手を離し、怒りに満ちた表情で飛び上がってしまった。
「な、なんで黙ってたんだっ! ていうか、ヘンリエッタさんの魔術で受けた傷を癒やしてくれた魔術も、ホワイトムーンの二階から飛び降りた時に使った魔術も、全部ルゥの命を削って使ってたって事か!?」
「仕方ないじゃろ! 儂の魔術でサポートせねばお主はあっというまに死んでおるわっ!」
「ばっ……馬っ鹿野郎ッ! ルゥは自分の命を救ってほしくて僕を呼んだんだろ!? なのになんで自分の命を削ってまで僕を助けるんだ! そんなの変だろ!」
森の深い闇の中に瑛太の声が通って行く。
僕が依頼されたのは、ルゥの命の危機を救うということなのに、僕のせいでルゥの命がさらに危なくなるなんて本末転倒すぎる。自分の非力さを恨みながら拳を握りしめる瑛太。
ルゥの瞳に夜月が残り、水面に輝く湖月のように白銀の髪がちらちらと光に揺れる。
「……瑛太、いつか、儂が神へと昇華したのはどれほど前なのかと問うたな?」
ぽつりとルゥが小さく零した。
「あれは、この世界に来て最初の日じゃったか。覚えておるか? 瑛太」
「……覚えてる」
だけど、今それが何の関係があるんだ。
「あの時儂は、覚えておらぬと返したが、あれは嘘じゃ。儂が神へと昇華した日は今でもはっきりと覚えておる。儂が神へと昇華したのは百五十年前じゃ」
「てか、そんな昔の事、逆によく覚えてるな」
「忘れるはずもない。儂は──百五十年前に殺され、神へと昇華したのじゃからな」
まるで時間が静止したかのような静寂が辺りを支配した。
しんと深夜の森を支配する静寂が瑛太の身体を取り込み、ふわふわと空中に浮いているような浮遊感が生まれる。
「……なんだって?」
瑛太はそう聞き返さずにはいられなかった。
それまで抱いていた森の闇と魔獣に対する恐怖はいつの間にか消え去っていた。




