第十二話 パンツと殺意の波動
「ええい、離せ瑛太! 離さぬか!」
西の空が琥珀色に染まり、エルトンを吹き抜けていた暖かかい風が幾ばくか肌に寒い冷風へと姿を変えつつある夕暮れ。只ならぬ空気を放つ少女の怒号がエルトンの大通りに響き渡った。瑛太に担がれたまま、じたばたと暴れているルゥだ。
「ひぃ……ひぃ……静かにっ……皆が……見てるからっ」
ぜぇぜぇと息を切らしながら、なけなしの体力を総動員して大通りを走り抜ける瑛太がうめき声に近い声を放つ。バーバラ商会を飛び出し、ホワイトムーンへ戻るために大通りを走る瑛太の肩に担がれたルゥは未だに怒りが収まらない様子で、ひっきりなしにわめきちらしていた。いつの間にか姿を見せているフードの下に隠されていた白銀の毛に覆われたルゥの両耳が珍しいのか、それとも単に喚き散らす少女の姿が珍妙なのか、側を駆け抜けていく瑛太達の姿を見た誰もが驚いたような視線を送っていた。
「だったらはよ降ろさぬか馬鹿者!」
「降ろしたら……何するか……判らない……から……」
「な、何もせぬわっ!」
ルゥを抱えたまま、自分達に向けられる視線から逃れるように走り続ける瑛太。いまだに怒りが収まらないルゥが何をしでかすか判らないという理由もあったが、瑛太が危惧しているのは他でもなく、ルゥの存在が知れ渡ってしまう事だった。
いまでこそ信仰する商人達が居なくなってきているとはいえ、ルゥは一昔前は神殿に祀られるほどの知名度を誇っていた商業神だ。その姿を知っている人達がこの中に居るかもしれない。そうなれば、僕が商業神じゃないという事がばれてしまい、計画が全てダメになってしまう。
「離せっ! むがっ!」
「……ッ!! 痛っったぁぁあッ!」
ルゥを担いでいる瑛太の右肩に激痛が走った。あんぐりと大きく開けたルゥの口に見える鋭い犬歯が瑛太の肩をぱっくりといったのだ。
「てめっ、今、本気で噛み付いたなっ!」
「はよ降ろさねばもうひと噛み行くぞ! 良いのか!? 良いのか!? 儂の牙は鋭いぞ!?」
ルゥの可愛い口元から覗く鋭い犬歯に思わずぎょっとしてしまう瑛太。
このケモミミ少女神が狐だって事すっかり忘れてた。今はケモミミ少女だからまだ大丈夫だけど、狐の姿で噛まれたらひとたまりもない。
「隙有り、じゃ!」
「……あっ!!」
瑛太が慄いたその隙を突き、ルゥは瑛太の腕からするりと抜け出すと、音もなく地面へと着地した。慌てて両耳をフードの中に隠すと、ルゥは乱れたワンピースを素早く整える。
「人前で恥ずかしげもなく儂を抱きかかえおって……! 見えておったではないか!」
「は? 見えてた? 何が?」
恥ずかしそうに頬を染めながらジロリと睨みつけるルゥに、瑛太はまさかとルゥがしきりに気にしているスカートをみやった。ひょっとして、見えてたのって──
「……ルゥのパンツ?」
「く、口に出すな!」
ぼっ、と火がともされたようにルゥの顔が真っ赤に染まり上がる。
ずっと向けられていた視線の理由がやっとわかった。見えてたからか。ルゥのパンツが。
「何じゃ!? これは一体何の罰じゃ!? 何故儂が辱めを受けねばならん!?」
「そ、そんなの決まってるだろ! いきなり魔術をぶっ放そうとした罰だっ!」
「ぶっ、ぶっ放すワケあるかっ! あの娘をビビらせようとしただけじゃ!」
「ぜってぇー嘘だッ! 魔王も裸足で逃げる位の恐ろしい魔術をぶちかまそうとしてたくせに!」
「……うっ」
言葉を詰まらせてしまうルゥに瑛太はじとりと疑惑の視線を送る。ルゥのあの目は絶対ビビらせる程度で終わらせるつもりは無い殺意に満ちた目だった。商人達を助ける神様とは思えない暗黒面に染まったあのルゥは……「殺意の波動に目覚めたルゥ」と名付けよう。
「う、うるさい! それもこれも全てお主が悪いのじゃ! あのような小娘に情けなく鼻の下を伸ばしおって!」
「伸びてなんかねぇよ!」
といいつつ、思わず鼻を押さえてしまう瑛太。
「いーや、でれんでれんに伸びておった! それに断れといっておるのに、必要ない銀細工をみっつも買わされそうになっておったではないか!」
「うっ、あれは……」
今度は瑛太がぐうの音も出ない程にしどろもどろになってしまう。確かにあのタイミングでルゥが実力行使で止めて無ければ、買わされていたかもしれない。宿に泊まれない一文無しなのに。
「のっ、伸びて何が悪い! ルゥこそ所有物ってなんだよ! ヒトを物みたいに!」
「事実を言ったまでだ! 代理人とは、言わばこの世界に呼んだ神の所有物に近い物なのだ! だから儂以外の女と──」
と、そこまで流れるようにまくしたてたルゥは咄嗟に両手で口元を押さえ、ぴたりと言葉を止めた。
「儂以外の何だよ!?」
「な、なんでもない! 馬鹿ッ! 馬鹿馬鹿!」
「うわ、なんだ、やる気かこのっ!」
顔を真っ赤に火照らせて、ぽかぽかと殴りかかってきたルゥに瑛太は受けて立つと言いたげに身構える。
今だ帰路に付く村人達が多い大通りで、大人と少女が罵倒し合いながら殴り始める異様な光景にさすがに関わるべきではないと感じたのか、瑛太たちの周囲数メートルに立ち入ることができない空間が作られていく。
だが、そんな瑛太達に「関わらないわけにはいかない」者達が運悪く大通りに現れたのはすぐだった。
「止めなさい」
お互いの頬を引っ張り合う瑛太とルゥの耳に甲高い男の声が飛び込んできた。
どちらかというと不快な部類に属するその男の声に、瑛太達は頬を引っ張ったままの格好でぴたりと固まってしまう。
「一体何の騒ぎですか?」
その声の主は明らかに普通の村人ではなかった。背後に数人の屈強な男を従え、針のように鋭く尖った視線を投げかける金の刺繍が入ったケープを羽織った男。
その男はこの荘園を納める教派「聖マリアント教会」に仕えるトッタ神父だった。
「だ、誰だ!?」
見覚えの無い男だったが、その雰囲気からから聖職者であろう予感がした瑛太。
だが、瑛太よりも素早く反応したのはルゥの方だった。目の前に現れたトッタから逃げるように瑛太の後ろへとするりと滑り込むと、フードの端を掴んだままじっとうつむく。
「私はこの荘園を収めている聖マリアント教会に仕えるトッタという者です。見たところこの荘園に住んでいらっしゃる方では無さそうなので念の為に申し上げますと……私には貴方を詰問する権利があります」
見慣れない服を来ている瑛太を荘園に住む村人ではない、と判断したトッタが丁寧にそう説明した。瑛太には何故そんな権利が教会の聖職者に有るのか判らなかったが、ここで反抗すればどうなるかはトッタの背後に控える男たちの姿を見て自ずと理解できた。
彼らが請負人って人たちなんだろう。抵抗すれば力でねじ伏せるって空気で語ってますもん。
「一体そこで何をしているんですか?」
「え、いや、その……」
鋭く尖ったトッタ神父の瞳に感じる忌避感に瑛太はついどもってしまう。それがさらに怪しいと感じたのか、トッタ神父はより強い口調で詰問を続けた。
「そちらの女性もエルトンに住んでいる方ではありませんね。顔を見せなさい」
トッタ神父の言葉に、背後で身を隠しているルゥがぴくりと身を竦ませた事がはっきりと判った。
「ルゥ? どうした?」
「儂への信仰を禁止しておる宗教の話をしたな?」
「戦争後に人々の間に広がっていったっていう宗教のこと?」
「そうじゃ。それが奴ら『聖マリアント教会』の連中じゃ」
「この人が?」
この世界に起きた百年戦争後に台頭してきた宗教だとルゥは言っていた。そして、その宗教が自らが崇める神以外への信仰を禁止した事で、ルゥへの信仰が失われ、由々しき事態が起きる原因のひとつを作った、と。
「何をしているのです? 早く姿を見せなさい」
その口調の奥に潜む忌避感が次第に敵意へと変わっていくのを感じ、周囲で足を止め成り行きを見ていた村人達が、さぁ、と蜘蛛の子を散らすように広がっていく。
「怪しい者じゃ、ありません」
何か嫌な予感を感じた瑛太が、震える膝を必死に抑えながらぽつりと漏らす。ぞわぞわと言葉に表せない恐怖が足先から這い上がり、全身の毛が逆立った。
「貴方達が怪しい者じゃないかどうかを決めるのは私です。これが最後の警告ですよ。早く顔を見せなさい」
ゆっくりと右手を掲げながらトッタ神父は冷ややかに言い放つ。その合図を見た請負人達は、腰に携えていた剣を躊躇せずに抜いた。
剣の切っ先と鞘が擦れる嫌な音が放たれた瞬間、瑛太の胃がびくりと痙攣してしまう。
「待って」
小さく掠れるようなルゥの声が瑛太の背後から放たれた。ゆっくりとトッタ神父の前へと姿を現したルゥは、深くかぶっていたフードを脱ぐと、美しい夕焼けが写り込んだ瞳をトッタ神父へと向ける。
「……ほう?」
「お前、獣人族かッ!」
フードの下に隠れていたルゥの獣の耳を目にした二人の請負人の空気が一瞬でぴり、と危険度を増す。
そして、すかさず重心を小さく落とすと、今直ぐ斬りかからんと剣を両手で構えた。
「ななな、何スか!?」
張り詰めた空気に瑛太は思わず身をすくめてしまう。剣を向けられた経験など無い瑛太はその場にへたり込まないだけで限界だった。
「これで満足か?」
すくみあがっている瑛太と違い、請負人達に気圧される様子もなく、ルゥは冷めた口調でそう言い放った。
「まさか獣人族がエルトンに居るとは思いませんでしたよ。人あらざる呪われた種族の貴方たちが」
明らかに蔑んだ視線を送るトッタにルゥの表情が曇る。
だが、トッタのその言葉に心がざわついたのは傍らで聞いていた瑛太だった。
「……なんスか、その言い方」
震える声でそう言い放つ瑛太。じわじわと広がっていく苛立ちに縮み上がっていた瑛太の心は息を吹き返し、震え上がっていた両足を前へと動かす。
「良くわからないスけど、失礼でしょ、今の言葉」
「フン」
剣を携えているわけでもなく、かといって魔術を使える様子もない瑛太にトッタ神父は脅威は無いと感じたのか、あざ笑うかのように小さく鼻で笑った。
そして、その空気が瑛太の心をさらに逆なでする。
「てめ……ッ!」
「瑛太、やめるのじゃ」
ちょんと瑛太のスーツの裾をじっとトッタ神父に視線を向けていたルゥの手が引いた。
「こやつらに手を出すでないぞ」
「ルゥ、でも……」
もちろん手をだすつもりはないけど、口は出させてよ。そういう瑛太に、ルゥは小さく笑みを浮かべるも、首を横に振るだけだ。
「今奴らに睨まれれば、お主の命が危うい」
小さく囁くルゥの言葉に、瑛太の身体に嫌な悪寒が走った。
そうだ。今、商業神だと名乗っているのは僕の方だった。商業神への信仰を禁止している教会がそれを知ったら、ひどい目に合うのは僕の方だ。
「ふむ、どうやらそちらの女性は獣人族にしては利口なようですね。分別をわきまえていらっしゃる。血に飢えた獣のように有無をいわさず襲いかかる事が獣人族の習性だと思っていたのですが」
どちらかというとその方が面白かった、と言いたげに含みのある笑みを浮かべるトッタ。
それは神に仕える聖職者らしくない、どこか欲にまみれたような笑みだった。
「騒ぎがあったというバーバラ商会に行かねばなりませんので、こちらとしても無駄な時間を使わなくて良かったです。貴方も賢い人間族ならば、少しはそこの獣を見習いなさい」
「なっ……!」
思わず頭に血が登ってしまう瑛太。
だが、右手に感じたルゥのひんやりとした指に瑛太ははたと我に返る。
「良いですか、今回は不問としますが、次何か騒ぎを起こせば教会は黙ってはいません。例え外の人間であろうともです。この荘園に居る限り忘れる事無きよう」
そう言ってトッタ神父は小さく瑛太達を一瞥すると、大通りの先に見えるバーバラ商会へと向かい踵を返した。残された二人の請負人達は剣を鞘に収めつつ、敵意に満ちた視線をルゥへと残すと、トッタ神父の後を追い、姿を消していく。
トッタが大通りの向こうに消え、辺りが息を吹き返したかのように雑然としていく中、瑛太は一歩動けないままその場に立ちすくんでしまっていた。
「ルゥ、行こう」
ルゥの頭にフードをかぶせ、瑛太は小さくそう促した。
トッタ神父は、バーバラ商会で僕達が起こした騒ぎに呼ばれたんだろう。とすれば、あの店員が僕達の特徴をトッタ神父に話し、この場所に引き返して来る可能性がある。
余計なトラブルに巻き込まれる前に急いで姿を消した方が得策だろう。
「……うん」
今だ瑛太の手を握ったまま、ルゥが小さくさみしげな声で答える。
ちらりと見上げたエルトンの空、琥珀色に輝いていた西の空は少しづつ深みを増し、藍色に衣替えしつつあった。
突然連れて来られた異世界、右も左も判らない世界での瑛太の最初の一日はこうして静かに終わりを告げた。




