3.救いの右手
「春、大丈夫?」
机に突っ伏して動かない少女、美山春を案ずる一人の女の声がする。声の掛け方から、昔からそれなりの友好があることは窺えた。
彼女にとって他人の声が自分にかかるというのは珍しいことなので普段おどおどするはずの春も、このときばかりは動かない。
(あ…マジで腹痛めてるな… 今市とか言う脳筋の言葉が効いたな…)
市野真子という、美山春のことを小学生のころから知る少女―いわば幼馴染の彼女は、何の障壁も感じさせず美山春と接することができる。
だが、彼女とて一人の人間。年月が経つに連れて、こんなコミュ障女よりも、流行に敏感で、一緒にいて気を遣わず遣わせずの関係である友達との関わりを持つようになっていた。
市野自身、このことに罪悪感を感じていないわけではない。いやむしろかなり感じてはいる。
だが、それでも親しくすることは出来なかった。
(ほっとけば勝手に保健室でもいくかな…)
市野真子は辛そうに机と睨み合う春の背中にかけた手を放し、自分の友人の呼ぶ声の方へと走っていく。
「美山…さん、大丈夫?」
一人の男子が隣の席に座って春に声をかける。春は豆鉄砲を喰らった鳩の如く机から顔を起こすと、声の主の方を見た。
(な、成島くんだ…)
すぐに目を合わせているのが申し訳なくなって目を逸らし、再度机に突っ伏す。
「…マジで腹痛いの??」
机と向き合っても尚、声をかけてくる成島。今市と違い、その声は真剣味を帯びていた。
「だ、大丈夫なのか…保健室いく?」
机の高さに目線を合わせて必死に話し掛ける成島の声を聞いて、無視していることに申し訳なさを覚えた春。
「…だ、大丈夫です…あ―」
「本当? 今市先生の言ってることってホント適当だよなっ」
そう言って白い歯を見せると大きめの右手を振ってその場から立ち去った。
いいかけた『ありがとう』という言葉のやり場を失って、また俯く。
頬を纏う熱に後に気付き、また背中を丸める。
気付けばまた腹痛が酷くなっていた。
入学式を数分前に控えた今も、春の腹痛は治まらなかった。
(…うぅううう…)
冷や汗を垂らしながら、ただただ腹痛と格闘する少女は背筋を伸ばす周りの新入生の中で一人うずくまっていた。
「おいおい…美山ー。 まだ痛いのか?」
無神経に遠くから春に声をかける今市。
「生理痛か? お?」
今度はその大声に体育館全体が重たい空気を帯びた。
「まあ、なんだ、そう…誰か保健室連れてってやれ。 な。 おおっと…柴田! お前でいいから連れてけ」
今市はたまたま春の前に座っていた細身の少女、柴田絢佳を呼ぶ。
「はぁ? だりぃよ、何でアタシが」
駄々をこねる柴田だったが、後ろを振り返って見ると、長い前髪の向こう側に、目に皺を溜めて腹痛と戦う少女がおり、ため息一つすると立ち上がった。
「ほら、行くよ…」
春の前に立ち、右手を差し伸べる柴田。春は片目だけ開けて彼女の顔を見る。
(お、怒ってる……)
口を一文字に結ぶ柴田の顔を直視できず、顔を俯かせたまま右手を差し伸べてしまった。