殺人医師
延命治療に関して、時々、病院の利益優先主義ではないか?というような声が上がる。確かに、もしかしたら、そういった病院もあるのかもしれないが、少なくとも私のいる病院ではそれはない。
何故なら、この私に終末期の患者が回って来るからだ。特に、人工呼吸器を付けた患者が……。
……延命治療、終末期の医療現場は矛盾に溢れている。人間の尊厳死の問題が訴えられているにもかかわらず、延命治療を中止すると警察の捜査が入り、マスコミに報道される場合すらあるのだ。裁判では無罪となるケースがほとんどとはいえ、マスコミの報道で医師は被害を受ける。医師としてのキャリアに傷がつく。当然、医師はこれをやりたがらない。
更におかしいのが、同じ様に延命治療を中止しても、警察がまったく動かないケースもある点だ。警察は延命治療の中でも人工呼吸器を取り外す場合にしか何故か捜査をしないし、人工呼吸器の場合でも全く無反応の事も多い。こういった奇妙な点は、多くの臨床医を困惑させている。
……私は、一度、生死の境をさ迷った事がある。死の縁にいる状態は、苦しいと想像していたのだが、まったく苦しくはなかった。意識が不鮮明で夢うつつ。反対に、そこに医療の手が入り、病状が回復し、意識が覚醒してくると苦しくて堪らなくなった。そのままにしておいて欲しかったと思ったほどだ。
もちろん、こんなケースばかりではないだろう。医療の手が入らなくても、苦しい死に際は当然あるはずだ。
が、その後の私の死生観はそれで変わった。苦しみ続ける長寿を送るのなら、例え短命でも安らかに死にたい。つまりは自然死だ。それには或いは、妻に去られ、天涯孤独となった我が身に対する、ある種の諦観のようなものも含まれてあったのかもしれない。私は地位にも名誉にも金にも興味が持てなかったのだ。この社会にも生にも、もうそれほど、執着をする気にはなれない。
ただ、それだって、生命の正しい姿ではあるのだろう。何故なら、生命とは繁殖の役割を終えれば、死に行くものだから。
常日頃、そうして自然死を主張し続けていたら、私の元に終末期の患者が回ってくるようになった。既に死が確定した患者を、自分では扱いたくないという医師達が、私にそんな患者を押し付けてくるのだ。
自分の手で死を早めたくはない。刑事事件もご免だ。が、患者の家族や患者本人が延命治療の停止を求めてくる。そんなケース。先にも述べたが、刑事事件のリスクが高い、人工呼吸器の場合が特に多かった。他の助かる見込みのある患者の為に、ベッドを空けたい。だから、無駄な延命治療は終わりにしたい。そんな病院側の事情もあったのだろう。誰か、延命治療を終わりにしてくれる者が必要だったのだ。
私はそんな患者を受け持つと、本人の意志や家族の意志に問題がなく、酷い苦痛を伴わないと判断した場合には、即刻、延命治療を中止にした。助かる見込みがないのなら、せめて安らかな死を迎えるべきだ。そう考えて。そしてその内に、私は一部の人間達から“殺人医師”とそう呼ばれるようになっていった。
元より誹謗中傷は覚悟の上だった私は、そう言われても気にせずに、延命治療の停止を行い続けた。
患者が感謝しているかどうかは分からないが、少なくとも、安らかに死んでいったし、家族の多くからは感謝された。中には、死の前は苦痛のない死を望みながら、実際に延命治療を中止すると、怒りだした患者の家族もいたが、私は気にしなかった。そのまま、続けるつもりでいた。人の死を引き受ける、その役割を。
――が、その内に、その問題は大きくなっていってしまった。ある人権団体が、私を刑事事件の殺人者として告発したのだ。
それはマスコミによって大きく取り上げられ、私は鬼か悪魔のように罵られ、糾弾された。病院を解雇され、そして遂には裁判の席に立つ事になった。
「殺人者!」
そう言われた。
面白い。私は思った。これで私が自殺でもしたら、彼らは私をどう思うのだろう? また、彼ら自身は彼ら自身をどう思うのだろう? 殺人者と思うのだろうか?
どうせ生きる意味も見出せなかったから、本気で死んでやろうかと思っていたら、そんな頃にこんな声が上がった。
「あの人は、拷問のような延命治療から故人を、救ってくれた恩人です! 殺人者なんてとんでもない!」
その多くは、自然死を望んだ患者の家族達だった。中には、自然死を普及する団体の存在もあったが。
私はそれに驚いていた。
そして、世間を巻き込んだ喧々諤々の議論の結果、私は裁判で無罪になった。その時、私は、不覚にも泣いてしまった。そして皮肉にも、私は生に感謝していた。
――高齢社会を迎え、医療資源も限られている中、どう足掻いてもこういった問題は、表面化してくる。避けられない。
もう、助からない患者に対する、治療とは言えない治療行為。
さて。
あなたは、どう考える?
人間とは、否、生命とは死ぬものだという現実を、どこまで受け入れられるのか……