第5部:別れ
由樹は、「風邪を引いて、気分が悪くて帰ってきた」という嘘をついた。心配する母が何くれと世話をやいてくれるのが痛い。しかし、真相を話す気には一生なれないだろう。
明日は、どうしようか。
あさっては・・・?
限界がきたら、二葉を裏切り、外へ出るしかないのだろう。
(はやく、コートをかけてくれ。はやく、もう、大丈夫だと言ってくれ。そうでないのなら、・・・すべて冗談だったと告白してくれ・・・!)
二葉がどうしているか考える。家なら安全だと言った。それから、どうしているのだろう?一体、何がどうなれば本当の「安全」になるのだろうか?二葉の身内が由樹を狙っているというのだから、その身内が狙うのを諦めたときになる。
それは、可能なことなのか?
(まさか、危険なことをするわけではないだろうな?)
一瞬、ゾクッとした。
妄想が募って、家族を殺してしまったりはしないか?
突然、廊下の呼び出しブザーが鳴った。
一階から母が自分を呼ぶときに用いるものだ。
部屋のドアを開けて、下へ降りていく。
「今、遠野さんの叔母様って方から電話がきたの。まだ、遠野さんが家に帰ってないからクラスメイト全員に電話してきいてるみたい。あなた、何か知らない?」
由樹は、ハッとした。
「・・・まだ、電話切ってないの?」
「ええ、保留にしているのよ。」
これは、いいのか?由樹を狙っているという張本人に、自分の居場所を伝えてしまってもいいものなのか?
二葉を、信じるしかない。今は。
「俺、帰ってないって言ってくれないか?」
「え?」
「たのむから。俺、こんなこともう二度といわない。でも、頼む。友達の家に泊まりに行ってるとか言って。」
「でも、変に思われるわ。」
「じゃあ、近所に買い物に行ってるとかでもいいから。はやく、言って!」
「・・・わかったわ。」
保留ボタンで、こちらの会話が聞こえなく出来る時代でよかった。
母が言い訳する声が聞こえる。
由樹は、静かに二階に上がり、そして自室の明かりを消した。もし、携帯電話でこの近くから家を観察していたらどうだろう?
母が電話を切ったのを確認して、由樹は車椅子の母に頭を垂れた。
「ごめん。」
「・・・私の知らないところで、何かが起こっているの?」
「ああ。」
「今日帰ってきたのも、そうなのね?」
「・・・ごめん。」
「どういうことなの?それに、本当に遠野さんがどこにいるか、知らないの?」
「・・・知らない。とにかく、もう少し時間をくれ。一生に一度の我がままだから。勉強はちゃんとする。区切りがついたら、学校へも行く。」
「・・・あなたを信じているからとしか言えないわ。お父さんにも、どう言ったらいいのか。」
「とりあえず、風邪で寝てるってことにして。ちゃんと、全部話せるときが来ると思うから。」
母親の心配この上ない表情がたまらない。しかし、今の自分にはどうにもできないことだ。居留守を使ったことを、後悔するどころか、賢い選択だったと思っている。
(もう、動き出している。俺のできる最善をつくすしかない。後でばからしいと笑えたなら上出来だ。今は、遠野のことを信じるしかない。)
今、嘉納と話したい。この話を無条件で信じてくれるのは嘉納しかいない。あんなに嫌味なヤツと話そうと思う日がくるなどと考えたことがあったろうか。だが、嘉納の真剣な忠告はこたえた。だから、信じている。
しかし、この事実を嘉納に伝えることが、もし、二葉を貶めることになったとしたら。
(だめだ。・・・駄目だ。)
由樹はうなだれ、床に身を横たえた。
脳裏を何も駆け巡らなくなった。
もう、何も考えられない。
自分の知らないところで、自分を巡る事件が起こっている。そんなドラマ仕立ての現実を受け入れられなくて、受け入れている部分が引きちぎれて飛ばされそうだ。
片膝を抱えて、額を埋めながら瞳を閉じた。
眠れないが、目を開けていられない。
門に気配を感じたら、きっと、気付く。こんなに神経を研ぎ澄ましているのだ。だから、気付くはず。
マンションに戻った美鈴は、由樹が家に帰っていることを悟った。あんな下手な芝居が通じるわけがなかろう。では、今、二葉はどうしているのだ。まさか、由樹の家にかばってもらっているのか。
二葉は、己の身を刻んで欲しいと言った。とうに、死を覚悟はしているのだ。
(お望みどおり殺してあげるわよ。もう、必要ないのだから。)
いくら耳たぶとはいえ、切り取って平気でいられるわけがない。動作は確実に鈍っているはずだ。どこかで、動けずにいるのかもしれない。
押さえられぬ苛立ちを、透明なワイングラスにぶつけた。
フローリングに飛び散ったガラスの欠片をスリッパで乱暴に踏んづけ、美鈴は眉根を固く、固く寄せた。
(友情より愛情をとるなんて。馬鹿な子。そんな、報われないものを。そんな幻想を、人生と引き換えにするなんて・・・!)
ガレージの脇の茂みに身を潜めた二葉は、鋭く突き出た枝に触れないように腕を抱え、うずくまっていた。アスファルトを闊歩する音が寒空に響き渡るたびに硬直し、息を潜めてその正体を見極めた。そんなことを何回繰り返したかわからない。そんな中、見知った影を見つけた。
武士だ。
部活を終えた帰りなのだろう。スポーツバッグを重そうに肩に抱え、由樹の家のチャイムを鳴らす。武士の家は二葉と同じ駅なのだから、正反対のこの場所まで、わざわざ出向いたということだ。誰とも連絡を取るなと言った以上、由樹がそれを忠実に守れば、武士が心配して当然だ。
武士はインターホンで二言三言話をし、そのまま踵を返した。会えないといわれたのだろう。
申し訳ない。
平穏な由樹を巻き込み、しなくてもいい心配をさせてしまっている。武士にすがりつき、伝えて欲しい。由樹に、心からの謝罪を。武士なら、信頼の置ける伝書鳩になる。
だが、喉から今にも吐き出しそうな叫びを、二葉は必死に飲み込んだ。
武士をも、巻き込むつもりなのか。
由樹は、武士を巻き込んだり、心配させたりすることなど決して望まない。
顎をあげ、由樹のいる方向を見つめ、二葉は思った。由樹も、一人で絶えているのだと。二葉がこんな目に遭うのは仕方のないことなのに、関係のない由樹が、こんな辻褄のあわない目にあってしまっていることを、心からすまないと思う。
深夜。
とうとう、雪が降り出した。
見上げた濃紺の闇夜から白いものがゆっくりと舞い降りてくる。由樹に借りたコートの上に落ちたのは、六角形の星形の結晶だった。まるで、白い砂糖菓子のようだ。
指先でそっとつまもうとすると、触れた先からしゅるしゅると溶けてしまった。
身体の芯を震わせる寒さが襲ってくる。
美鈴が早く来ればいい。待ち伏せにだって限界がある。いくらなんでも三日以上は待てない。
由樹が家から一歩も出ないことを悟るとき、美鈴は動き出す。由樹が家の中にいる以上、手出しはできないからだ。由樹が自ら出てこないなら、無理やり追い出すしかない。そのとき、家に火を放つだろう。
(今晩放火することはないとは思うけれど・・・。)
それはわからない。美鈴の考えていることは、いくら一緒にいたってわかるはずがない。
ピアスをはずして、意味があったのだろうか。あのままにしておいて、居場所をわからせてしまったほうが話、が早かったのではないだろうか。
だが、あのまま追跡を受けていれば由樹を自宅まで無事送り届けることは無理だったと思う。だから、よかったのだ、と思いたい。そうでなければ、むなしすぎる。
今、何時だろう。
待つ時間というのは、いつも長い。
中古の地味な車は、未明に、静かに現れた。
新聞配達が来る寸前の、最もひと気がない時間。
車から降り立った黒のコートを見るや否や、二葉はすばやく美鈴の後ろに回り、やわらかな首の血管に刃の欠けた理科実験用のメスをつきたてた。
待ちに待った瞬間だ。
何度も計画を頭の中で繰り返し、修正し、実行に備えてきた。
思いがけない二葉の行動に、美鈴は声が出なかった。
「・・・!」
首を仰け反らせ、美鈴は背中越しに二葉を睨みつけた。二葉は抑えた声で言った。
「そのまま車へ!研究所へ行ってください!」
「・・・ばかなことを。」
二葉は、メスの刃を首の血管に強く押し当ててみせた。実際に痛みを感じれば流石の美鈴も少しは考えるだろう。
しかし、体力の無い二葉に分は無い。片や武道をたしなんだつわものだ。あっという間に美鈴のひじでみぞおちを殴られ、コンクリートの上に倒されてしまった。
首に刻まれた細い傷など、美鈴にとってどうということはない。
耳たぶを切り取って気絶と寒さに体力を使い切ったか細い人形など、怖るるに足らない。
だが、命がけという執念は、美鈴の不意をついた。
二葉は倒された腕を伸ばし、美鈴の細い足首をつかんで力いっぱいひっぱった。
足をとられた美鈴は、よろめき、ひざをついた。
二葉はその上へ、全体重をかけるように身体を投げ出した。そして、今度は背中から首に腕をまわし、思い切り締め上げた。
「・・・っ!」
美鈴は喉を鳴らし、苦しげに腕を振り回している。
「さあ、どうします?私が、あなたを殺さないとでも思いますか!?」
二葉は、さらに腕で締め付ける力を強めた。全身全霊、とはこういうことを言うのだろう。すべての痛みを、すべての疲れを忘れて、今はただ美鈴をこの場から離すことしか考えられない。
と、そのときだった。
「どうしました?」
顔を上げると、まだ青が濃い空気の中に、バイクに乗った男性がいる。それは、新聞配達の若い学生だった。二葉が言葉を躊躇し、ほんの少し力を緩めたその瞬間。
パ・・・ン!
男性の動きが不自然に止まり、それからゆっくりバイクとともに横に倒れる様子が、二葉の目にスローモーション映像のように映った。
その銃は、人を殺すものではない。
美鈴が緊急に相手を気絶させて眠らせる、「拉致」のときに用いる常套手段だ。
美鈴は背中の二葉を払いのけ、男性をバイクの下から引きずり出すと、鮮やかな手つきで車の後部シートに投げ込んだ。そして、二葉にもその銃を向けた。
二葉は、身体を硬直させた。
撃たれたら、終わりだ。
ここまでのすべてが、終わる。自分が眠っている間に、由樹は連れ去られる。セシリアと同じように、冷凍保存にされてしまい、一生、日の目など見ることなく朽ちていく!
まっすぐ向けられた銃口に、二葉は身構え、後ずさる。
美鈴の顔は、無表情だ。いつもそうだ。人を研究材料にするとき、こういう顔をする。人の感情のない、人でない顔をする。
だが、そのとき二葉が最も怖れていた瞬間がやってきた。
玄関のドアが開いたのだ。
それは、ずっと門扉にコートがかけられることを意識して眠らず、神経を尖らせていた由樹だった。
「遠野!」
まだ明けない朝なのに、由樹の姿をはっきりと捉えた。
美鈴の銃の先が、向きを変えた。
「来ちゃダメェっ!!」
静寂を引き裂く声だった。
由樹の制服の白いシャツの襟が、風もないのにはためいた。
二葉は駆け出した。
それは、美鈴の方向だった。
銃口が、由樹を捉えないためには、それが一番だ。
「邪魔よ!」
美鈴の黒い銃口が、二葉の額を狙う。
二葉は羽織っていた由樹のコートを剥ぎ取り、美鈴の上半身目掛けて思い切り投げつけた。
重いウールのコートは、ほんの数秒でも美鈴の動きを止めてくれる。
二葉は美鈴の右手の甲を、メスで思い切り突き刺した。
「あぁっ!」
喉がつぶれるような叫びも、次の瞬間に、消えた。
二葉が奪い取った銃で、美鈴の、その深い皺が刻まれた眉間を貫いたからだ。
あまりの騒ぎに周りの空気が動き出したのを感じ取った二葉は、気を失った美鈴を車の中へ引きずり込み、代わりに、先ほどの新聞配達の男性を外へ放り出した。丁寧に扱う時間はないし、体力もない。男性は、病院で適切に処置されれば問題ないはずだ。
二葉は一瞬、由樹のほうを見た。
玄関先で呆然としている由樹を、目の奥にしっかりと焼き付けた。
(本当に、さよなら。)
風が吹いた。
冷たい、しかし、少しだけ頬にやわらかい、春を予感させる風。
それが二葉の頬にかかった短い髪を、すべて宙へと舞い上げた。
(!!!)
その瞬間、由樹は見た。
耳たぶから下が、ないことを。そして、固まった紅蓮の血の塊を。
(遠野、まさか・・・。)
盗聴器がつけられているといった。それは、きっと「物理的に取れない」というピアスのことだったのだろう。
そしてそれがちぎられているのは。
それがなくなっているのは・・・。
二葉は車に乗り込み、そのままエンジンをかけて走り去っていった。
あのカフェのトイレで、十分の間に二葉が何をしていたのか。
なぜ、フードのついたコートが欲しいといったのか。
あんなに顔色が悪く、脂汗をかいていたのか。
バスの中で男性に軽くぶつかっただけで、死にそうなうめき声を出したのか。
すべて、繋がるではないか!
盗聴器がなくなったから、秘密を口で語りだしたのだ。
全然、気付いてやれなかった。
妄想だったらいい、なんて思っていた。
目の前の現実が、今さら脳の中で認識されていく。
由樹がコンクリートの上に取り残された男性に近づくと、どこも怪我をしたり、血を流していないことがわかった。脈もあるし、かすかな呼吸もある。
(あの銃は、殺すためのものではなかったんだ。)
それがわかり、少し安心した。二葉はあの「叔母」を殺したわけではなかったのだ。
由樹は救急車を呼び、長い時間待ち、やがて警察の事情聴取を受けた。だが、その話の中に、「二葉」の存在はなかった。
見知らぬ車が止まり、その音で目が覚め、外を見たら男性が倒れていた、とだけ由樹は言った。あの男性が目覚めれば、きっと二人の女の話をするのだろう。それを口止めすることはできない。もし男性の証言で警察が動き、美鈴と二葉が逮捕されるようなことがあれば、二葉がどんな境遇でどんな目に遭ってきたか明らかになり、絶対に罪には問われないはずだ。
しかし今、自分の口からそれを語る気にはならない。
あの、蒼い景色に繰り広げられた、自分をめぐるドラマを、語れはしない。夢物語だろうと笑われそうだからだ。
騒動を聞きつけた両親とともに家の中へもどろうとしたとき、由樹はハッとした、
門扉に、コートがかけられている。
いつの間に?
わからない。
コートは、美鈴との争いの楯に二葉が放り投げた。それからは、覚えていない。
― 合図をするわ。私がこのコートを門にかけたら、あなたは安全で外にでてもいいということよ ―
(約束を、守ったということか。)
コートを手にとり、由樹は震える唇を噛み締めた。
(バカなヤツ。こんな神業使えるなら、あんな・・・!)
何も出来なかった。
ただ、守られただけだった。
これから、二葉はどうなるのだろう。
わかることは、ただ一つ。
もう、二葉は二度と学校には来ない。
もう、自分のクラスメイトではない。
もう、会うことはない。