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第4部:実行

由樹を救いたい。

由樹を美鈴から救えたのなら、生きてきた意味があるというものだ。

 何人も犠牲にし、罪を重ねてきた償いに、少しくらいはならないだろうか。

 由樹がいつもどおり部活の朝練に出ているなら、もう学校にいる時間だ。

 肌を刺す冷たい空気をはねのけながら、二葉は走った。いつもは気にもならない電車が、なんと遅いことだろう。

 美鈴が家にいたかどうかは確かめられていない。だが、とにかくまだ由樹が無事であることを信じて、学校へ行くしかない。

 家を出たところを拉致されていないか。

 わからない。

 泣きたい気持ちを抑えて、二葉は校門をくぐり、レンガ敷きの中庭へ直行した。ここから、広いグラウンドを見下ろすことが出来る。

 視界の開けた先に、いくつもの蒼いユニフォームが点在していた。

 目を細めても、見えない。あんなに遠くては、いくら好きな人でも見分けられない。

「遠野?」

ハッとして振りかえる。

 そこには、武士がユニフォーム姿で立っていた。二葉は思わずその裾にしがみついた。

「保科君は?今日、見かけた?」

「俺がどうしたのか?」

武士の陰に、由樹はいた。まだ制服のままで。かばんを肩に背負って。

 二葉は開いた口がふさがらなかった。ほっとして、呼吸さえ忘れてしまう。

「よかった、もう、学校にこないんじゃないかと思ってた。」

由樹が微笑む。それは、二葉を溶かしていく。だが、今はそれに酔っている時間はない。美鈴が、由樹を諦めると証明されるまで。だから、ここでのんびりはしていられない。二葉が家を抜け出していることはもう気付かれているはずだ。そして、父は今日、学校へ来る。それと鉢合わせしたら、おわりだ。

 二葉は、覚悟を決めた。

「保科。俺、先行ってる。」

武士が、何となしにその場から離れるやいなや、二葉は由樹の腕を強くつかんだ。

「お願い、私と一緒に来て。」

「え?」

「あとで理由は話すから。早く!」

 二葉に手をひかれるまま、由樹は走り出した。二葉の乱れた長い髪が、由樹の頬をときおりくすぐる。

由樹は、二葉が休んでいる間、思い切って嘉納に声をかけていた。

嘉納は相当驚いていたがすぐに頷いた。由樹の表情の強張りが尋常でないことに気付いたからだ。

 二人は、最も人目のない屋上へ続く階段の踊り場に行った。

「嘉納が知っている遠野のこと、全部教えてくれないか。」

 嘉納は、眉をひそめた。

「興味本位で探るなって言ったのは保科だぜ?」

「興味本位じゃない。」

由樹の真剣な眼差しに、嘉納は首を振った。

「なら、知らないほうがいい。」

 意外な言葉だった。

 いつも人を馬鹿にしたような物言いからは想像ができない。

「なぜ?」

「俺、喧嘩で謹慎になったとき、親父に全部事情を話したんだ。そしたら目茶苦茶叱られた。喧嘩のことじゃなく、遠野の正体を口にしたことをさ。」

嘉納は唇をゆがめた。

「ネットの掲示板でいろんな噂が流れてるけど、真相はわからない。でも、遠野二葉は学期ごとに転校してて、転校するたびに間もなく不登校になってる。共通しているのは、遠野が回った学校ほぼすべてから行方不明者がでているということなんだよ。」

「行方不明・・・?」

「とにかく、すぐ学校に来なくなるから存在自体が薄くて確かなことは言えないらしいけど。親父もその話は聞いたことがあるらしくて、絶対に近づくなって釘刺された。」

「遠野と行方不明が関係あるのか。」

「証拠はない。でも、偶然にしては、できすぎてる。」

 由樹は、はっとした。

 二葉の態度。

 よろめきながらも、必死で由樹を追い返した。痩せた女の方は由樹を家へ招きいれようとしたが、男のほうは由樹を帰した。それは、どういうことだったのだろう。

 由樹が、二葉の家を訪ねたことを言うと、嘉納の顔色が変わった。

「馬鹿か?自分から罠にかかりにいったようなものだぞ?帰ってこられたのは奇跡だ。遠野がお前を無理やり帰したのなら、遠野はお前をかばったってことだ。二度と行くなよ。遠野がこのまま学校に来なくても、学校に来ても、絶対に近づくな。絶対だ!」

 嘉納の食い入るような形相に、由樹は初めて全身に鳥肌が立つほどの恐怖を覚えた。嘉納が嘘を言っているとは思えない。真実なら、恐ろしいことだ。もしかしたら、あのままどうにかなっていたのかもしれないということか。

 嘉納の話と、二葉の家でのできごとは考えるほどシンクロして辻褄が合う。

「もう絶対に関わるな。脅しじゃないぜ。」

嘉納は耳元に念を押し、席に戻っていった ―


― 嘉納の話を思い出しながら、由樹は二葉の後姿だけを見ていた。

 二葉の細い身体のどこに、こんな持久力があったのだろう。普段から身体を鍛えている由樹さえ、相当息が切れているのに、二葉は少しもスピードをゆるめない。

 弾む息が苦しげなのに、由樹をつかむ腕の力は変わらない。

嘉納の一言で怖気づいたのだと思いたくない。だが、二葉を救えるなどと思い上がっていた自分が嫌で、情けなくてたまらない。

 今の二葉は、自分を救おうとしているのか。それとも、自分を、実験台にするために連れ去ろうとしているのか。

 どちらにせよ、もう、運命を二葉に委ねるしかないのだろう。

 それでいいと思う。

 二葉を信じている。

 すべてを、委ねていい。

 それは、遠い昔から知っていた夢の続きのような気がするから。


 「馬鹿な子だわ。」

 美鈴は、二葉の行き先を受信器で眺めながら鼻先で笑った。

「私たちから逃げられるわけがないのに。」

 だが、基の表情は厳しかった。

「甘いよ、美鈴。二葉は、これが「死」を意味していることぐらいわかっているだろう。自分だけでなく、セシリアの死にもなることもだ。相応の、覚悟だよ。」

「あの子に何ができるというの?みすみす保科由樹の居場所を教えているようなものじゃないの。やっぱり、ばかよ。」

「二葉はもう、何も恐れていない。それを侮ってはならない。」

「どこへ行って、どうしようというの?誰も助けてくれるわけがないって、知ってるはずよ。警察だって、私たちには手も出せないのだから。」

 基はソファから立ち上がった。

「私は研究所に戻る。美鈴も一緒に来なさい。」

「ええ、行くわよ。二人を連れて。」

「いや、駄目だ。二葉はともかく、保科由樹は捨てろ。」

「いやよ。」

美鈴は、きっぱりと言い切った。

「セシリアが失敗した以上、新しい実験台が必要よ。やっと見つけたまれな逸材だわ。諦めないわよ。」

「二葉がセシリアを捨ててまで、守ろうとしているんだぞ。」

「だから、なおさらよ。冷凍保存しなくてもいいの。生殖実験がしたいから。」

「いいや。嘉納の息子のこともあるし、今回は手を引け。」

「いやよ!私は、保科由樹を殺してでも手に入れるわ。いいのよ、私が生き返らせるのだから!」

「ばかなことを!思い上がりもいいところだ。」

「この世の不可能を可能にするっていつも言っていたのはお兄様でしょう!それを、今さら何?研究のために、私はすべてを捨ててきたのよ!私の人生と引き換えにしてでも手に入れる価値のある成果がでなければ、私は・・・!」

 美鈴は興奮で震えた唇を固く噛み、基に背を向けて黒いコートを羽織った。

「私は、この世に可能性がゼロの現象なんてないと信じているの。不可能なのではなく、今はまだ期が熟していないだけ。だから私がそれを可能にするのよ。・・・お兄様は先に研究所に戻っていて。」

 基は、美鈴自身が人工授精の実験結果であることを知っている。基の父が、長年かけて成功させ、世に認められた唯一の例だ。しかし、美鈴がそれを知ってしまったとき、どんなに苦しんでいたかも知っている。自分のデータをとる父を、一度、なぐってもいる。

― 私は人間よ、実験のデータじゃないわ! ―

 そう言っていた美鈴だからこそ、二葉をああいう扱いにするのだろうか。自分と同じ境遇の実験台が本来あるべき姿を、自分では実現し得ないそれを、二葉に強要するのか。

(二葉が命を賭けて抵抗する日がくることも、知っていたはずだろうが・・・。)

 苦渋をのみ、基もマンションを後にした。

 鍵を持たない二葉が、ここへ帰ってくることはないだろう。

 基は、研究所へ戻った。

 ああなった美鈴を止めることはできない。

 二葉を娘と認めたくない気持ちが、二葉を救うことを、いつもためらわせる。せめて、乳飲み子の頃から自分の手元においておけば、基はもっと素直に情を表せたのだろう。

 研究所は基の唯一の居場所であり、心の拠り所であり、逃げ場所でもあった。


 「遠野!ちょっと待って。」

 冷たい空気が肺をちくちくと刺す。

そんな中、由樹は、二葉を呼び止めた。

 二葉がふりむき、歩みを緩めた。

「電話させてくれないか。家に。」

「・・・。」

「学校から家に連絡いってたら、心配かけるだけじゃなくて、面倒なことになる。」

「・・・そうね。」

 由樹は二葉に背を向け、携帯電話をとりだした。

 どんな言い訳をしているのかわからない。

 だが、これからどうしたらいいのかわからないのは二葉自身だ。本当は、学校にいたほうが安全だったのではないだろうか。いや、美鈴はそんなに甘くはない。

 由樹の電話が終わり、二葉は尋ねた。

「今、いくら持ってる?」

「・・五千円くらいかな。」

 遠くへ行ける額ではない。どちらにせよ、このピアスで追跡可能な範囲から逃れられそうにない。

 とりあえず、人ごみに紛れるか。

 車で簡単に横付けされるようなところからは離れるべきだ。

 電車に乗り、渋谷へ行った。

 駅前は方向感覚を失いそうなほど複雑に絡み合っている。空の方向にそびえる灰色のビルにめまいがする。 

 嫌な街だ。靴下を売ったとき、こんな吐き気をもよおす街へは二度と来まいと誓った。なのに、今はこの街の雑踏に頼ろうとしている。

 平日の朝。若者の、しかも制服姿は奇妙に目立つ。

九時前。開いている店も限られる。

 モーニングで賑わうお洒落なカフェが見えた。意を決し、二葉はそこへ入った。

 カウンターでカフェオレを注文し、それを受け取ると、店の一番奥の二人がけテーブルに着いた。

「事情、話してくれるか?」

 店にいるサラリーマンも若いOLも、皆食べることや新聞、仲間とのおしゃべりに夢中で、周りには無関心だ。制服姿の男女がいれば、学校をさぼっているか、単位制で時間が不規則なのだろうくらいにしか思わない。

「いいえ、まだ、だめよ。」

これからどうすべきか、頭の中をフル回転させている二葉には由樹の言葉が素通りする。

 こんなところに長い間留まっているわけにもいかない。それは、美鈴に捕まえてといっているようなものだ。わずらわしいこのピアスを何とかしない限り、どうにもならない。もちろん、こんな人目のある中で拉致はできないだろうが、待ち伏せさせる時間を与えるには十分だ。

 二葉は下唇を噛み締めた。

 決意の時だ。

 鞄の中のノートを取り出し、シャープペンを走らせた。それを、由樹に無言で見せる。

 一ページずつ、紙芝居風に。

『私には盗聴器がとりつけられている。』

由樹の目の色が変わった。

『だから、声を出さないで。』

二人の呼吸が止まった。

『これから、あなたは荷物を持って男子トイレに入って。個室に。そして、十分たったら、出てきて。』

「・・・」

『あなたのコートを、私にわたしてほしい。これは、お願い。』

 由樹は、濃紺のフードつきのコートを静かに二葉に差し出した。これは、学校指定の高級なものだ。二葉は、買ってもらえていないが。

『十分後、もし私が見当たらなければこの席に戻っていて。すぐ、必ず、もどるから。』

 由樹は、二葉の手からノートとペンを奪った。

『なにをする気だ?危険なことか?』

二葉はだまって首を振った。そして、力強く頷いてみせた。大丈夫、というように。

 由樹の顔は、不安で歪む。だが。

 二葉は、音を立てないように立ち上がり、「Lady」という札のついたトイレに入っていった。

 由樹も、指示通り男子トイレの個室に入ったが、その途端心臓が大きく鳴り始めた。

 嘉納の忠告が脳裏を駆け巡る。頬が熱くなり、額のあたりがくらくらする。

 盗聴器?

 そんなものが、取り付いているのか。

 だから、誰とも会話しなかったのか。

 いや、これは、二葉の妄想ではないのか?バーチャルな世界に取り付かれているのではないのか?

 嘉納の話が、それを否定する。

 嘉納までもが二葉の妄想につきあうわけがない。

 とりあえず、二葉の言うとおりにするしかない。

 ワイシャツのネクタイをむしりとった。

 息苦しくて、たまらない。


 二葉は小奇麗な個室で、メスをとりだした。学校の生物の解剖実験で、刃の先が破損し、廃棄されていたものを持ってきておいたのだ。

 さっきカフェオレをたのんだときについてきた消毒液の染み込んだ紙製のお手拭をとりだして、耳と、刃先を拭いた。

 生唾を呑み込む。

 メスの欠けた刃先を見ているだけで痛い。

 二葉は、由樹から渡されたコートを手に取った。まだ、温かい。

 紺色のウールの生地に触れ、そしてそれを思い切り胸に抱きしめた。

(私に勇気を・・・!)

舌を噛まないよう、ノートをしっかりと口に咥える。

(ためらってる暇はないんだ。)

 今まで、何十回も失敗している。

 みみたぶを切り落とすことができないで来た。だが、今こそは決断のときだ。

 もう、帰る場所は無い。

 由樹を逃がしたら、後は地獄へ墜ちるだけだ。学校へ通うなんてことはおろか、この世で生きていくことはない。

 美鈴がそこまで来ているかもしれない。

 さあ、急がねば!

 二葉は首を上へもたげた。

 右の耳朶を左の指でひっぱった。

 小ぶりなメスを握る手のひらが汗で滑っている。

 そのまま、力をこめた。

「!・・・っ!」

 ノートを咥えた口の端から溜まった唾液が滴り落ちる。たまらず、ノートが口の端から滑り落ちた。灰色のタイルとノートの上に、透明な唾液にまじった赤い血が一滴、二滴と染みをつくっていく。

 思わず壁を拳で圧迫する。叩きたいのだが、かろうじて理性が「騒ぐな」と脳裏で叫ぶ。

 切り取った肉片を見れるほどの神経はない。

 頭の中が朦朧としてきた。

(だめ、まだもう片方残ってる!)

 耳の神経は他の場所より弱いはずだ。だから、耐えられるはずだ。

 血の染みたノートを見ることはできない。 

 二葉は急いでトイレットペーパーを引き出し、丸めて口につっこんだ。

 舌や口中の粘膜にまとわりつく紙に吐き気がおこったが、痛みで舌を噛まないためには必要だ。自分ひとりならこの場で死んでもかまわないが、由樹を無事に逃がさない限り、そうはいかない。

 そして、左の耳たぶを左の指でつまんだ。

「・・・・っ!」

 床に手をつき、タイルをかきむしる。

 切られた部分の神経の一本一本が苦しさでみみずのようにのたうつのがわかる。

 二葉は口の中からペーパーをとりだし、別のペーパーで切り取った二つの肉片を包むと汚物入れにしまった。

 これで、二人がずっとこのカフェに潜んでいると思うはずだ。

 トイレに流そうかと思ったが、それで電波がとぎれたら何かあったと証明してしまうようなものだ。だから、あえてここに残す必要がある。

 額から脂汗が滲む。

 だが、行かなければ。

 血で汚れたノートを鞄にしまった。

 床に落ちた血を気にしている余裕はない。

 由樹のコートを着れば、汚れた制服は見えないし、フードをかぶれば耳も血も隠せる。

 立った足が震えている。

 今の二葉を支えるのは、ただ、由樹への強い思い。その使命感。自分にしか由樹を救えないのだという優越感。

 二葉がトイレから出ると、由樹が鞄を背負って待っていた。

 由樹には、二葉の顔色が尋常でないことがよくわかったし、その額に汗で前髪がへばりついていることも異常さをかきたてる。

「大丈夫なのか?」

 この十分間に何があったのかなど、由樹には想像がつかない。

 二葉は、頷いた。

「もう大丈夫。あとは、あなたの家へ帰るだけよ。そこが一番安全だから。」

「・・・わかった。」

「コート・・・、借りて、ごめん。」

 それ以上説明する力はなかった。由樹の腕が、二葉の肩を支える。

「何も言わなくていい。」

「・・・。」

 盗聴器を取ったといいたかったが、それが傷を伴うことを隠していられそうにないため、二葉は口をつぐんだ。

 そして、ハッとなる。

 由樹のそばから離れた。

 血の臭いがする。それを由樹に勘付かれてはならない。

 由樹を先に行かせ、後を追う。大通りを往来する高級車の排気ガスが傷口に染みる。

 息があがる。

 だんだん目の前がぼやけてくる。

(だめよ、いくら発信機をとったっていったって、油断しちゃ。)

 まだ人ごみの解消しない山手線に乗ると、気分が悪くなった。

 「少し降りて休むか?」

 由樹の言葉に首を振る。そんな余裕はないのだから。

 美鈴が由樹の家の前で待っていないことを祈る。カフェにおいてきたピアスを信じて欲しい。それを、祈るしかない。

 もし美鈴とはちあわせしたら、もう、最後の手段しかないだろう。それは、覚悟している。

 由樹をこんなに好きでなかったら耐えられないだろう。由樹が横にいることをこんなに甘く感じられなければ、とっくに倒れていただろう。

 それを噛み締めればいい。

 今、由樹は確かにここにいる。そして、その存在を守るためだけに自分は存在しているのだ。

 都心から離れるにつれ、人は少なくなっていった。そして、由樹の最寄の家に着いた。

 駅前のバスロータリーは、昼前の静けさにつつまれていた。日当たりの良いベンチでは、二人の老女が談笑している。

 こんな長閑な風景なのに、二葉には戦場に見える。

「ここから、どういけばいいの?」

「歩いて二十分くらい。バスなら五分。」

「・・・バスでいい?」

「わかった。」

 歩きのほうが連れ去られる可能性が強い。

 昼間のバスの本数は少なく、次までは二十分ほど待たなければならなかった。

 なるべく人目から離れていたほうがいい。そのため、駅構内の狭い待合室に入った。

 腕を抱えて、壁にもたれる二葉に、由樹は言った。

「俺にできることはある?」

「・・・私から離れないで。」

「わかった。」

「理由を・・・話さないとね。」

フードで陰る表情なら、由樹にいろんなことを悟られずにすむだろう。

 由樹は息を呑んだ。

 とうとう、秘密が明かされるのか。

 だが、二葉の苦しげな息遣いが気になる。絶対、あの十分間で何か危険を冒したのだ。決して外さないフードの奥に、何かを隠している。

 待合室の外の広い構内を、のんびりと人が往来している。

 どこかで、甲高い笑い声がする。

 どこかで、赤ん坊の泣き声がする。

「あなたは、狙われているの。」

「誰に?」

「私の身内に。・・・嘉納君が言ったことを私は否定しない。遠野遺伝子研究所は、初代所長が戦前に始めた人体実験をいまだに引き継ぐ、悪魔の巣窟よ。研究のためなら、人の命は犠牲になってあたりまえ、むしろ名誉だとか言う人たちよ。その証拠に、私の親友は八年間、冷凍保存されて眠っているわ。」

 嘉納の真剣な眼差しを思い出す。

 すべて、真実だったのか。

「俺を、どうしたいんだ?」

「・・・実験台にしたいのよ。」

「俺を救うと、君はどうなる?」

「それは、知らなくていい。」

宙を睨み付ける白目に血管が浮き上がっている。由樹は、すべてを知りたくてたまらない衝動をかろうじて抑えた。守られている以上、無茶は要求できない。だが、すべてを話すと言った二葉の言葉の真相がこれだけというのも合点がいかない

「警察とかへ行けば、何とかならないのか。」

「ずっと昔、やったことがあるわ。警察が守ってくれるなら、こんな無茶なこと、あなたにさせないわよ。」

「・・・そうか。」

「そうよ。だいたい、話したって現実逃避の頭のいかれたガキのたわごととしか思われないしね。」

 バスの来る五分前に、席を立った。

 回廊の細長い窓から差し込む強い光が、一瞬、二葉の首筋に当たり、コートの中の黒髪を透かした。

(えっ?)

 赤い筋が見えた気がした。ほんの一瞬だから確かなことはわからない。だが、確かに赤いものが見えた。

(そういえば、ピアスしてるっていってたよな?)

 それのことだろうか。

 そうに違いない。

 バスは時間通りにやってきた。

 由樹が先にタラップを上り、二人分の料金を払った。二葉がそれに続く。と、そのとき。

「!」

 後ろにいた背の高い男性の腕が、不意に二葉の耳脇にぶつかった。

「あ、すみません。」

 そうだ、普通ならそんなものだろう。

 だが、今の二葉にとってそれは叫びたいほどの衝撃となった。

 神経がちぎれたままの傷口に、自分の髪やら何やらがすべておそいかかったのだ。

 二葉は思わず顔を苦痛にゆがめた。

「遠野?」

 由樹には、それが尋常でないことに思えた。

 二葉は、すぐにそばの椅子に腰掛け、窓の外をながめるように由樹から顔をそむけた。

「平気、気にしないで、」

 痛いのが何だ。どうせ死ぬとわかっているのに、生きている証を感じてどうする。自分を可哀そうがってどうするのだ。

 由樹はすぐ前の座席に座った。

 二葉の脳裏には嫌な予感ばかりがよぎる。たとえば、今、この場に美鈴が現れて風のような速さで由樹を刺してしまったら。

 何のために由樹を守ってきたかわからない。

 美鈴ならやりかねない。どんなことも。

 二葉は弾かれたように立ち上がると、由樹の座る椅子の脇に立った。

 途端、頭のてっぺんで一回転する感覚が襲った。思わず目を閉じる。眉根をきつく寄せずにいられない。

「遠野、座ってろよ。」

「・・・いい。」

 由樹にはわからない。いまだ、狐につままれているかのような感覚だ。二葉がバーチャルな妄想にとりつかれているのではという疑念を振り払うことができない。

 いや、その方がいい。

 二葉や嘉納の言うことが真実であることのほうが問題だ。嘘なら、いい。そうであってほしい。

 区画が密集する住宅街のバス停で降りたのは、二葉と由樹だけだった。

 歩く間も気が抜けない。すべての五感を研ぎ澄ませ、少しの変化も見逃せない。

「ここ。」

 二階建ての木造瓦葺。狭い庭に樹木が所狭しと植えられている。車道から門、そして玄関まではゆるやかなスロープになっている。

 それは、由樹の母親の車椅子のためだ。

 門を開け、由樹が二葉を中へ促そうとしたが、二葉は敷地の外で立ち止まった。

「お願い。私がいいと言うまで、絶対に家から出ないで。誰とも連絡をとらないで。」

「・・・それは、どれくらい先のこと?」

「わからない。なるべく早くしようとは思ってる。」

 由樹は二葉を玄関へと誘うように手を差し伸べた。

「寒かっただろ。家で休んでいけよ。母もいるし、お茶くらい出せるから。」

それは、優しい誘惑だ。しかし、二葉には許されない。

「ありがとう、でも、だめよ。」

「どうして?」

「どうしても。さあ、家に入って。」

 合点のいかない顔で肩越しに振り返る由樹の横顔が綺麗過ぎて切ない。

「合図をするわ。私がこのコートを門にかけたら、あなたは安全で外にでてもいいということよ。」

「・・・わかった。」

 玄関の扉が閉じられ、二葉は門の脇の塀にもたれて座り込んだ。

 だが、こんなところにいたら不審者に思われそうだ。だから、両手で這いずるようにしてガレージと植え込みの隙間を見つけ、身を潜めた。

 寒いのに、熱い。

 額から流れる汗が冷たい。

 頭の中が割れるように熱い。

 身体のあらゆるところを太くて長い釘で刺されているような痛み。

(いけない、しっかりしなくては。)

 ここで倒れてどうする?意味がない。美鈴が由樹の家に火を放ったら。

 守りきらねばならない。何としても。

 セシリアを捨てたのだ。変わりに一人は救わねば意味がない。

 セシリアを犠牲にした罪を思えば、どんな身体にも鞭打てるはずだ。


 美鈴は、ある一点から少しも動かない赤いランプを凝視していた。

 自分達が追われているとは思っていないのか。連れて逃げているのではないのか。

 ランプが点滅している限り、発信機が壊れたわけではない。音もしている。水音や・・・女性たちの声。

(洗面所にでも隠れているのだろうか?)

 渋谷の喧騒に揉まれ、美鈴はカフェに入った。何も注文することなく、受信器が示す赤い光の方へと近づいていく。店員の一人がそれに気付いて声をかけたが、美鈴は目もくれない。

 たどり着いた先は、やはり化粧室だった。

一つの個室が、反応する。

(ここに?でも、まさかこんなところに保科由樹と一緒にはいないだろう。)

 閉じられたドアは、すぐに開かれた。

しかし。

 美鈴の驚いた表情に、出てきた女は怪訝そうな顔つきでその脇を通り過ぎていく。

「ちょっと待って!」

 受信器は間違いなくここで赤く点滅しているのだ。なのに、二葉がいないというのはどういうことだ。

「ここで、高校生みなかった?」

女は明らかに訝しげな表情で、「いいえ。」と応える。

(そんなわけない。そんな!)

 美鈴は、とりあえずその個室に入り、鍵を閉めた。

 赤い点滅の先に、白い汚物入れがあった。

(なぜ、こんな・・・?)

 だが、すぐに美鈴はハッとなった。そして、ふたを開けてみる。

 ためらいもなく中に手を入れ、そして、血の滲んだ小さなペーパーの塊を手にした。

(まさか・・・!)

 それを開き、そして。

 目にしたものは・・・!

 どす黒い血がルビー色のプラスチックにへばりついている。

(あの子・・・!)

 切り落とされた肉片を腹立ち紛れに水で流し、美鈴は走り出した。

 何と言うこと。

 何と言うこと!

 今まで、何度その耳にナイフをつきたてていたか知っている。だが、それはどんな拷問よりつらいから、なせず仕舞いでいたはずなのに。

 それをとうとうやりのけた!

 セシリアが無事でいられないと覚悟したのか。それとも、自分たちがセシリアに手を出すはずがないと確信したのか。それとも、ばれたか、セシリアが死んでしまっていることを。

今どこにいるのだ?

 こんなことまでして、今、どうしているというのだ?

 学校か?いや、こんなことまでしてすぐに捕まるようなところにいるわけがない。

 由樹を連れて、どこへ逃げた?

(いえ、落ち着けばわかる。あの子はお金がない。保科由樹だって、所詮知れてる。そうそう遠くへ逃げおおせるわけがない。第一、逃げたってどうやって生きていくの?そうよ。こんなことをしたって、一時の気休めにすぎないんだから。)

 真昼の喧騒に飛び出し、美鈴は足早に風を切る。

 許せない。

 逃げたことではなく、ピアスを切り取ったことに。

 自分たちからの呪縛を、解き放ったことに。

 人間ではないくせに、人間の男のために人間の女を裏切り、自らを犠牲にするという人間のような行動をとったことに。

 腹が立って、たまらない。

 このどうしようもない苛立ちを、どうしてくれよう?

 十二年間、人間として幸せに暮らしてしまったのだから、その人間としての自我をつぶすことなどできないと基は言った。

 そんなことはない、と美鈴は言い切り、奴隷のように扱った。そして、ようやく「道具」としての身分を自覚したと思っていた。だが、その殻をやぶり、再び人間として目覚めてしまったのだ。

 閉じ込めて置けばよかったか?だが、あんな半端な出来損ないは、実験にも限りがある。

(許せない。許さない。・・・こんどこそ、息の根を止めてやる!)


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