第3部:決意
二葉は、重い足取りでマンションへ戻った。事の顛末を美鈴が盗聴器で聞いていたら何をされるかわからない。謹慎処分など受けて、叱られるのではないか。それより、自分の持ち物を売って金銭を得たことの方が、許されないのではないか。
ところが、二葉を迎えた美鈴は出かける支度を完璧に整え、待ちわびた様子だった。
「研究所へ戻るわ。」
美鈴はヒールの低い黒いパンプスに足を入れながら、二葉の腕をつかんだ。
「謹慎ですって?ちょうどいいわ。一緒に来なさい。」
二葉は鞄を置く間もなく美鈴に引きずられるようにして、地下駐車場にやってきた。今の美鈴は赤いスポーツカーなど乗り回さない。地味な中古車の助手席に二葉を放り込み、すぐにエンジンをかけた。
美鈴は何も言わないが、引き締められた唇の端が、何かただならぬ雰囲気を漂わせている。二葉が取り付く島も無い。
(まさか、セシリアに何か・・・?)
今までも、こういうことが無かったわけではない。研究所で問題が起こると、必ず美鈴が助っ人に戻る。そしてそれはいつも、研究所員だけではどうにもならない重大事に決まっている。
美鈴にとって、というより、研究所にとってセシリアは冷凍保存の成功を賭けた大事な症例だ。他の実験台はすべて失敗に終わっている。セシリアだけが唯一、生き残っている。
夜遅くに、山奥の研究所に着いた。
一年ぶりだろうか。
二葉がここへ来るのは健康診断という名の検証のためだけだ。
厳重な扉を幾重も通り抜け、やっと所内に入る。
美鈴は出迎えた所員に二葉を引き渡した。
「いつもの部屋へ入れておいて。」
「かしこまりました。」
ここでの美鈴は研究主任という立場にあり、研究所員すべてを指揮下に置く。
目元から下をすっぽり隠すマスクで顔がわからない所員に連れられ、いつもの実験室に入れられ、鍵をかけられた。
ここで逆らっても、何もならない。
美鈴にとってセシリアがどんなに大事な存在かわかっていながら、いつ、反旗を翻すかわからないという不安。
間もなく、二葉には栄養ドリンクのような液体が与えられ、ほどなく深い眠りについた。
眠っている間に何が行われているのか、まったくわからない。夢を見ても、覚めたときにはそれさえも覚えていない。
セシリアの夢を見ても。
由樹の夢を、見ても。
週末、美鈴は二葉を連れてマンションへ戻った。どういう経緯かはわからないが、とにかく学校と連絡をとり、家で面倒見るからと登校謹慎を断ったらしい。謹慎になったことについて、美鈴は何も言わなかった。それが、かえって不安を駆り立てる。
月曜の朝、美鈴は静かに言った。
「保科由樹をつれてきなさい。」
二葉は、呼吸を忘れて立ちつくした。
「決めたわ。彼が欲しいの。」
二葉は何も言わず、外へ出た。
二葉が眠っている間、美鈴は研究所の総力を挙げて由樹を調べ上げたのだろう。そして、由樹が類まれなる逸材だと認めたのだ。
いつか、来る日だと思っていた。
由樹を隠しとおせるとは思ってはいなかったが、できることなら隠しておきたかった。
重い足取りで、少し懐かしい道をたどっていく。だが、校門をくぐる気持ちになれない。久々の登校であることもあるし、とうとうこの日が来てしまったという胸苦しさもある。
今までも、平気だったわけではない。いつも「この日」はそれなりの覚悟と気持ちの準備に体中がしめつけられていた。
二葉は、学校へ続く道を一つ手前で折れ曲がり、広い公園に入り込んだ。
ペンキのはがれかけた雨ざらしのベンチにそっと腰掛け、背からうなだれた。
わからない。
どうすればいいか、わからない。
由樹は週明けであるその日、謹慎が明けて登校した。車椅子の母と早朝に校長室を訪れ、謹慎の解除の申し渡しを受けた。しかし、母が一人でここから帰るのは大変だ。もちろん、来るのも。だから、由樹は二度とこんな過ちを繰り返すまいと硬く誓ったし、自分の軽率さを悔いていた。
「大丈夫よ。大通りまで出てしまえばバスも電車も手伝ってくれる人がいるのだから。」
「じゃあ、大通りまで送るよ。」
「だめよ、授業が始まるでしょ。大丈夫。私のことは、心配しないで。」
天気が良いことを幸いに、由樹の母は一人、校門を出た。細いが、車も良く通る道をゆっくりと慎重に進んでいく。通りの端は僅かに斜面になっていて、健常者は気付かないが、車椅子にはつらい。
少し進むと、緑の生い茂る公園が見えた。ここを通り抜けると、大通りに近い。
わずかな段差を上り、園内に入った。アスファルトで舗装された緩やかな道を進んでいくと、噴水が見えてきた。しかし、冬の最中では水は止められているため、枯れた寂しさが漂う。
と、そのとき。
少しわき見をしたのが悪かったのか、車輪がわずかな窪みにはまり、動かなくなった。ちゃんと見て、注意しているはずが油断した。
これは、自分ひとりではどうにもならない。第一、こんな寒空の下では散歩する人影もない。住宅街なのだから、暇を持て余した老人がいても良さそうだが。
もがいても、もがいても、車輪は窪みから外れない。
なす術がなく、額に汗が滲んできた。
こうなったら、携帯で由樹を呼ぶか。
「お手伝いしましょうか。」
はっと振り向くと、そこには制服姿の女子が立っていた。青いサテンのリボン。由樹と同じ学年だ。そして、思い出した。由樹の傷を見て涙を流した、事件の発端となった少女ではないか。
二葉はその場にしゃがみこみ、はまった車輪をゆっくりと持ち上げ、正常な道まで押していった。
「どうもありがとう。一人でどうしようかと思っていたのよ。」
車椅子の女性は、美鈴よりずっと年を重ねてはいるが、小奇麗で清潔な感じが漂う。優しく穏やかな笑顔だ。何となく、見覚えがある。
そうだ、思い出した。
由樹の母親だ。上品な目元が似ているような気がする。
― 保科由樹をつれてきなさい ―
美鈴の言葉が頭を殴りつけるように木霊する。
二葉は、唇がひきつるように、震えだした。
「顔色が悪いわ。大丈夫?」
覗き込むような視線に、二葉は思わず顔をそらせた。一番、会ってはいけない人に会ってしまったのではないか。
「とりあえず、そこのベンチに座ったら?」
不自由な身体を乗り出して促す女性を振り切ることが、二葉にはできない。言われるまま、さっきまで自分が座っていたベンチに再び腰掛けた。
「ちょっと、待っていてね。」
なす術も無く額を抱えてうなだれた。
どうすればいいのか。
さらって行かねばならない少年の母と、今、どう向き合えばいいというのか。
気だるく頭をもたげた。と、その視線の先に由樹の母が懸命に腕をのばしているのが見えた。自販機で、上のほうにあるボタンを押したいらしい。
考えるより先に、身体が動いた。
二葉は、由樹の母の腕を押さえた。
「いけません!もし車が倒れたらどうなさるんですか?」
つかんだ手の甲にはいくつも筋が浮き出ていて、年を感じさせた。だが、しっとりとして、やわらかい。
「どのボタンですか?」
二葉が代わりをつとめると、由樹の母はその缶を二葉に渡した。
「これは、あなたの分。」
温かな赤い缶。
「・・・そんな。」
「ココアは、お嫌い?」
「・・いえ。」
ココアなど、何年ぶりかわからない。
昔、幸せだった頃、養母が冬に入れてくれたきりだ。養母はいつもココアに少しのバターかチョコレートを落としてくれた。すると、何も入れないときに比べ、魔法のように素晴らしくおいしくなる。
缶の中からは、そんな優しい時間を思い出させる香りが漂ってきた。
人のいない公園はとても静かだ。しかし、陽の光に誘われるように、雀のさえずりや鳥の羽音が風に混ざる。ほんの少し、春の訪れを予感させる。買いたての飲み物で手を温めながら、由樹の母親は語り始めた。
「実は一週間前、あなたを学校でお見かけしてますのよ。」
「・・・私も、覚えております。」
由樹の母親。好意を持っても、決して報われない相手の一人だ。こうして、一緒にお茶を飲んでいることさえ、奇跡に近い。由樹と同じ、人の好さゆえか。
「由樹は何も話さないけれど、代わりに橘君がたくさん話してくれて、大体の事情は聞いています。あなたを・・・、遠野さんを、先生の前でも一生懸命かばっていたわ。」
「橘君は、保科君が本当に大事なんです。私をかばったのではなく、私の事情を話すことで、保科君の正当性を証明したかっただけだと思います。」
「・・・由樹は幸せね。いいお友達を持って。」
「橘君だけではありません。保科君は、・・・皆に好かれています。」
「嬉しいことをおっっしゃるのね。」
目尻に皺を寄せて微笑むのは、心からの喜びに見えて、ほっとする。
こんな穏やかな空気の流れの中にいると、現実を忘れそうになる。由樹の母親にとって、この時間は確かな現実なのだろうが、二葉には夢の中のことのようだ。自分の罪を忘れ、身分を忘れ、一人の普通の少女になった気がする。
こんな素敵な女性が母だったらどんなに幸せだろう。身体が不自由でそれなりの苦労があるのだろうが、絶対大事にする。
だが、今、本当に言わなければならないことが上手く言葉にできない。誤るべきだとも思う。だが、一体どういうふうに言えばいいのか。どちらにせよ、この女性がいい思いをするわけないのだ。
ほどなくバスの時間がやってきて、由樹の母親は上半身を動かした。
「バス停まで、送らせてください。」
「まあ、ありがとう。」
素直に喜んでくれたのなら、嬉しい。心の奥底で澱む闇が、ほんの少しかき回された気にはなる。
「学校、行ってくださいね。由樹も、あなたを待っていると思うから。」
別れ際の一言で、返す言葉もなく、バスは小さくなった。
裸の街路樹が規則正しく並ぶ幹線道路に立ちつくし、このまま車にでも轢かれてしまいたいと思った。
美鈴は、賢い。二葉を言いなりにする最善策をとった。セシリアという最上の実験台を得た上、二葉を意のままに操る術も手に入れた。
(ずるいよ。)
ターゲットを見つけ、調査し、データをまとめて美鈴に渡す。それを何度繰り返してきたか。出席日数が足りないから、いつまでも高校を卒業はできない。そして、もう、二葉は二十歳になる。
この前、冬の街灯に立つセシリアの両親を久々に見た。
小雪の舞う灰色の空の下、セシリアの捜索を訴え、ビラを配っていた。
見るたびに、老けてゆく。
若くて溌溂としていた面影は完全に無く、背を丸め、頬が落ち、皺の溝だけが深さを増していく。
教えられるものなら教えてあげたい。
だが、警察や第三者が研究所へ踏み込む前に、美鈴や基が何をするかはわかっている。
研究所の爆破。
証拠や研究成果を完全に消滅させてしまう。その中に、セシリアの眠るカプセルも当然含まれるのだ。
そんなセシリアと家族の悲運を、由樹にまで味わわせることなどできるか。
身体の不自由なあの母親は、絶望に嘆き死んでしまうのではないか。いや、気丈に由樹を探すかもしれない。きっと、地獄の果てまででも。
二葉はわけがわからず走り出した。
冷たい空気が肺を刺激する。
激しく息をするたび、ちくちくと痛む。
だが、心があばれて、どうにもできない。
こんなことを、一生くりかえしていくのか?
「研究のため」という名目の元に、あとどれくらいの犠牲を払えばよいのだ?
二葉は、スカートのポケットにしまってあるセシリアのピン留めを握り締めた。
(教えて。私は、どうすればいい?)
由樹の拉致を拒絶することは、セシリアの死か、二葉自身の死につながる。
二葉の脳裏に、由樹の母の笑顔が浮かぶ。由樹の横顔が浮かぶ。
(できない。私には、彼らを苦しめることができない!)
二葉の中で、ある決意が芽生えていた。
マンションへ戻ると、美鈴が怪訝な顔をしている。まだ学校が終わる時間ではない。
「学校は?」
二葉は、恨み顔で美鈴をにらみつけた。
「私を、・・・きざんでください。」
「・・・お前は自分が何を言ってるかわかっているの?」
「はい。」
「くだらないわね。」
美鈴は鬼のような形相で二葉の長い髪を自分の腕に巻きつけ、ひっぱった。
「あのね、何のために多額の寄付金をつんでお前を名門校に入れていると思っているの?それなりの実験台を手に入れてもらわなきゃ割にあわないのよ!」
二葉を部屋へ引きずり込み、床へ叩きつけた。骨と皮でできたような美鈴の細い腕のどこに、こんな力があるのか。
「あんたはね、今しか価値が無いのよ。十八歳以下の実験台を直接探し出すためには、あんたが高校生のふりしてもぐりこむしかないんだから。あんたみたいな出来損ないは、切り刻むより、そっちで活用したほうがよっぽど役に立つのよ。あんたが高校生で通用しなくなったら、遠慮なく刻むわよ。どうでもいい標本にしかならないけど。いくらかにはなるから。」
美鈴は、電流の流れる金属の棒を取り出し、倒れたままの二葉の背に打ち込んだ。
「・・・っ!」
焼け付くような痛み。だが、これは初めてではない。
気付くと、腕に何かを注射されていた。
(これは・・・!)
「これで反省するがいい。三十六時間、たっぷり地獄を味わうがいいわ。」
部屋に鍵がかけられ、まもなく二葉はとてつもない頭痛に苛まれた。目をあけていることができず、吐き気もする。全身が痛み、しびれる。立ち上がることはできないが、のた打ち回らなければ耐えられない。
このまま死ぬことは無いのだろう。
だが、死んだほうがましだと思う。
身体がどうにかなる前に、精神が崩壊するのではないか。何かが頭の中ではじける。目の前がゆがんだかと思うと、体が押しつぶされたように痙攣する。
気を失えば楽なのに、それも許されない。
三十六時間の地獄。まさに生き地獄。
(私は、私を殺す選択権さえ持っていなかったのだ・・・。)
さっきまで、やはり夢を見ていた。優しい時間など、二葉にはすぎた贅沢だったのだ。
(当たり前だ。私は、今まで何人の人間を地獄に貶めたと思っている?)
ターゲットだけではない。周りの人間まで不幸にした。周囲の人間は、やはり生き地獄にいるのだ。一生。
(それに比べたら、私は三十六時間。それくらい、何!)
叫びたいのに、声さえ出ない。身体の置き場が無い。だんだん、天と地の区別がつかなくなる。
息ができない。
吸っても吸っても、必要なものが身体の中に入らない。
見開いた視界が、やがてヘドロ色の闇に埋もれた。
その夜、帰宅した由樹は、母に今日学校へ来させてしまったことを改めて誤った。そして、謹慎になってしまったことも。
「帰り道、この間のお嬢さんと会ったのよ。」
「お嬢さん?」
「そう、遠野さんよ。」
「遠野?」
「車椅子の車輪が溝にとられてしまったところを、助けてくださったの。」
「何か、話した?」
由樹は期待と不安のまじった声で尋ねた。
「たいしたことは話してないけれど。彼女、ちゃんと登校した?」
「いや、欠席だった。」
「そう。・・・行きづらいのかしらね、やっぱり。」
あんな形で謹慎になってしまったのだ。由樹には、もう二度と二葉が登校しない気さえする。今までも、いつ不登校になってもおかしくない状況だった。
いくら由樹や武士が二葉をかばおうと、それは二葉を引き止める原動力になるとは言えない。
憐れむなという。
同情が嫌いだという。
生傷が絶えない状況なのに、自分は不幸でないという。確かに、世の中には過酷な生活を送る子供も大人も沢山いる。だがそれらは、今、この国で生活している自分とは離れた世界のできごとだ。目の前の二葉の境遇と比べろといわれても時限の違いを感じる。
由樹は、明日も二葉が登校しないようなら、家へ行ってみようかと思った。自分の謹慎のことで気に病んでいる可能性がないわけではない。
担任に休みの原因をそれとなく尋ねると、風邪で休むという連絡が入ったきり、こちらからの電話は通じないのだという。二葉が学校へ申告している電話番号はでたらめだ。担任が今日当たり自宅を訪問しようと思っているということを利用し、由樹がプリントを届ける役目をかってでた。担任だって、やっかいごとは避けたいはずだ。
住民票が絡むことから住所は本物だったため、由樹は二葉のマンションをつきとめることができた。最寄の駅までは武士と一緒に行った。武士の地元知識のおかげで、場所を探すのに手間はかからなかった。
マンションのセキュリティは甘く、部屋の前までいくのは問題なくできた。
マンション側が準備している白い表札には、何もかかれていない。何度も部屋番号を確認してからチャイムを鳴らすと、二度、ゆっくりとした電子音が流れた。
「どなたですか。」
インターホンから女性の声がした。低めで尖った印象だ。
「翔架学園で遠野さんのクラスメイトの保科由樹といいます。休んでいる間のプリントを届けにきたのですが。」
かなり緊張する。
「どうもありがとう。今、開けますね。」
金色の縁取りがある黒い鋼製の重い扉が開けられ、その中から背の高い、痩せた女性が現れた。化粧をしていない顔に黒縁の眼鏡をかけている。誰だろうと思う。二葉の母なのか。にしては似ていない。
「二葉のクラスメイトの方ね?」
「・・・はい。あの、遠野さんの具合は・・?」
「だいぶいいのよ。」
由樹は注意深く女を観察した。今、にこやかに微笑んでいるが、この女こそが二葉に傷を負わせている張本人なのではないだろうか。風邪なんて嘘で、二葉は外に出られないくらいのひどい怪我をしているのではないか。
一方、美鈴は由樹を見下ろし、ほくそ笑んだ。獲物が自分から罠にかかりにきたのだ。
「せっかくだから、お茶でもいかが?外は寒かったでしょう?」
由樹は、一瞬躊躇した。が、二葉の内情を探るまたとないチャンスだと思い、頷いて玄関に足を踏み入れた。
と、そのときだった。
「だめ・・・!」
家の奥から、搾り出すような声があがった。
由樹が視線を上げると、廊下脇の部屋から二葉が身体半分をのぞかせている。美鈴の打った薬品の効き目はきれていない。苦しくて眠れず、今に至る。
だが、朦朧とした意識の向こうで由樹の声が聞こえたため、弾かれたように部屋から飛び出したのだ。
美鈴は目を疑った。あの薬がまわっている身体が、こんなに動くはずがない。動くのは、意志と無関係に痙攣したり、のた打ち回るだけのはずだ。声だって出ないはずだ。
なのに。
由樹は、二葉のやつれて青ざめた死人のような表情に言葉を失った。
「駄目よ、彼はこれから塾があるんだから。誘ったら、ご迷惑よ。」
浮腫んで感覚のないような足をひきずるようにして、二葉は由樹が靴を脱ごうとするのを制した。
「駅まで送ってくる。」
美鈴が何かを言おうとしていたが、二葉は痺れてギリギリする腕で由樹の手をつかみ、素早く外へ連れ出した。
息が吸えない。水の中でもがき苦しむかのような感覚の中、二葉は必死で由樹を美鈴の目の届かないところへ行かせようとした。
マンションから出たところで、二葉はよろめき、足から崩れていった。
「遠野!」
由樹がその身体を支え、思わずぎょっとした。熱い。どれくらい熱があるのかと思うくらい熱い。
「風邪、ひどいんじゃないのか?」
由樹には、二葉が薬でおかしくなっているなどまったく予想のつかないことだ。二葉は、つつじの植え込みのレンガに手をつき、身体を支えた。
「かえって。」
「え・・・。」
「早く帰ってよ。」
「遠野。」
「はやく!」
由樹は、二葉が家庭の事情を覗かれたくないのだなと思った。
しかし、事態は緊迫していた。美鈴は、もう、由樹を放しはしないだろう。もしあのまま家でお茶でも飲もうものなら、そのまま眠らされて研究所行きになるところだった。
二葉の額に冷たい汗が浮かぶ。口の中の唾液の出る穴という穴から、液体があふれ出す。許されるなら、ここで横になりたい。だが、とにかくまず由樹をここから帰さねば。
「はやく!」
いつ、内臓が口から溢れ出してもおかしくないとさえ思えるのに、由樹は二葉の異常な様子に、立ち去ることができないでいる。
いつ美鈴が追いかけてくるかわからない。今こそ、由樹の自分に対する同情心を、どうあっても崩さねばならない。
二葉は震える爪先で、植え込みの硬い黒土を引っかくようにむしりとり、由樹へ向かって投げつけた。それが最後の力だった。二葉の身体はひざから地面へと砕けてしまった。
二葉の必死の思いを、由樹が理解できるわけもない。こんなに拒絶する理由は何だろうとは思うが、それ以上は想像もつかない。
倒れても、二葉の意識は、まだある。だから、由樹を救わねばならない。二葉は最後の力をふりしぼり、二の足で地を踏みしめようと上体を起こした。
だが、そこで二葉を待っていたのは由樹の手ではなかった。
「どうしたんだ、二葉。」
二葉の身体を軽々と抱き上げたその視線の先にあったのは、遠野基の顔だった。
由樹は思わず息を呑んだ。
突然現れた大人の男は、痩せた身体に濃い灰色のトレンチコートを巻きつけ、由樹を見下ろしている。
「その制服は、翔架学園の・・?」
由樹は、この男が二葉の父だろうと推測した。
「はい。遠野さんのクラスメイトです。」
「そうか。・・二葉は病弱でね、学校を休みがちだが、心配して来てくれたのかな?」
「はい。プリントを届けに。」
「ありがとう。迷惑かけたね。気をつけて帰ってくれ。」
この父親が虐待をしているとは思えない。さっきの女の人もだ。
(でも。)
二葉の痣は、確かだ。自分でやっているわけではなし、他人からやられていれば身内が黙っているわけはない。
一度は背を向けた駅前の高層マンションを振り返り、由樹は唇を引き締めた。あのまま二葉を引き渡してよかったのだろうか。無理やりでも救急車を呼ぶべきではなかったか。だが、もう後の祭りだ。
かすかな後悔が由樹を足止めした。
由樹は嘉納と話をしたいと思った。嘉納が由樹より二葉について詳しいのは確かだ。冷静に、尋ねようと決めた。
二葉が父に会うのは、年に数回。健康診断という名の検査のときだけだ。父とはいえ、二葉は「所長」と呼ばなければならない。美鈴のことは「主任」。「お父さん」「叔母さん」は、人前でだけの呼び名だ。
この間、研究所を訪れたときは会わなかった。それが、どういう風の吹き回しだろう。
二葉は由樹が離れたことを確信するとそのまま意識を失っていた。
基は、美鈴の入れるコーヒーに手をつけず、声を荒げた。
「やりすぎだ、美鈴。私が見ていないからといって好き放題しているようだな。」
美鈴は、動じることなく鼻先で笑った。
「ちゃんと限度はわきまえているわ。」
「どこが?あんなに苦しめて!」
「お兄様は二葉に甘いのよね。まだ自分の娘だなんてくだらないセンチメンタルを捨てきれないってわけ?」
基は美鈴の腕を鷲掴みにした。
「勘違いするな。確かに、二葉は実験台だ。だからといって何をしてもいいわけじゃない。まして、無意味な苦痛を与えていい理由などどこにある?」
「勘違いはお兄様よ。二葉はね、今回、拒否したのよ。獲物をつれこむことをね。」
基は、由樹を思い出した。
(そうか、あの少年か。)
確かにターゲットに相応しい。
だが、二葉はそれを由としなかったのだ。
「二葉には、情を捨てきれないところがある。それは仕方が無い。」
「産まれたときからちゃんと躾けなかったのが悪かったのよ。」
「仕方ないだろう!私とお前に、乳飲み子を抱えていける余裕なんかなかった!第一、私にもお前にも子供なんか育てられない。」
美鈴は眉を歪めて、横を向いた。
「もうその言い訳は聞き飽きたわ。」
基は、美鈴に手を差し出した。
「解毒剤をよこせ。」
「そんなものないわ。大体、あと少しで治まるわよ。」
「あれでは体力が持たない。何でもいいからよこせ!」
兄の強い口調に、美鈴は憤慨した。
「二葉は思い上がっている!道具だという自覚を忘れ、高校生に成り下がっている!」
「二葉はもう二十歳だ。限界だ。それに、この間の検査結果がでた。今日はその話をしに来たんだ。二葉はすぐにでも私が集中治療しなければ、危険だ。」
「そう。だったら、なおさら今回の学校では働いてもらわないと。いい子が沢山いそうだし。」
「もう、それ自体が限界なんじゃないのか?セシリア一人で縛り付けられる限度を超えたんだろう。」
美鈴は、苦々しく腕組みをし、リビングを徘徊した。
「さっきの彼、私は諦めないわよ。二葉に同情しているみたいだし、どうにでもなるわ。」
「冷凍催眠させるのか。」
「そうよ。しかも頭も切れるクラス委員。久々の特別な男の子よ。ただ、」
美鈴の眼鏡の奥が兄を捕らえた。
「嘉納恭二の息子がクラスメイトにいて、二葉の正体を探っているみたいなの。」
嘉納恭二は医師としてだけでなく、研究でも名をあげている。学会でも度々顔をあわせている。だが、個人的な関わりは一切なく、特に話をしたこともない。
「息子に余計なことを吹き込んでいるのか?」
「多分ね。盗聴器で聞きかじっただけのことしかわからないけれど。」
「下手に動かない方がいいな。」
「わかっているわ。」
「迂闊だった我々の責任だ。今回はおとなしく収めたほうがよくないか。」
「弱気にならないで。私たちは今までうまくやってきた。今回だって慎重にやるわ。だからお兄様も今まで以上に気をつけて。」
「わかっている。」
基が二葉の部屋をのぞいたとき、二葉はフローリングの床の上に死んだように横たわっていた。口元に手をやると、やわらいだ呼吸が感じ取れた。ようやく薬がきれたらしい。基は、二葉をベッドの上に横たわらせ、布団をかけてやった。
娘だという実感はない。娘だからといって何か特別だとも思っていない。基自身が人工授精し、遺伝子操作をした大事な研究成果だ。今後も、その成長を観察し今後に活かそうと思っている。もっと美しくて優秀な人間を作ろうと思っていたが、できたのは平凡な少女だった。人間の手をかけず、自然にできた子供の方がよほど優秀かもしれない。
汗だくで眠る二葉の傷だらけの腕を見て、基は胸がしめつけられた。美鈴は、二葉への虐待を止めない。ストレスの捌け口の様に、そして、一生実験道具として存在すべきだということを知らしめるかのように。
二葉は、さっきの少年を想っているのだろうか。だから、あんな身体で彼を守ったのだろうか。そうだとしても、何の不思議も無い。
二葉を育てた研究員は、遠野研究所の創設者である基の父に忠実な男だった。子供を欲しがっていた男は、妻には真実を告げず、二葉を預かってくれた。十年という約束で。彼らは口封じのため間もなく実験台の露と消えた。父は三年前に他界し、基が所長職を継いだ。
セシリアのことを、二葉は決して忘れないだろう。子供とは思えぬ激しい形相で美鈴につかみかかった。どうにもならないと知り、何日も何日も泣き続けた。
あの少年は、二葉のささくれた心を癒してくれたのだろうか。
家だけでなく学校でも針の筵となっている二葉には、どんなささやかな思いやりでさえ、救いになるのだろう。
(研究所へもどったら、治療ついでに耳のピアスをはずしてやろう。)
父親である実感も無いまま、娘の頭をなでることもできない。
それが基の良心であり、弱みでもあった。
朝、目が覚めたと同時に、二葉ははじかれるように身体を起こした。
眠っている間に、由樹が連れ去られてはいないだろうか?
部屋を出て、リビングへ行くと、そこにはコーヒーを飲みながらテレビを観る基の姿があった。
「・・・主任は?」
「美鈴ならまだ寝ているよ。今は六時。少し早いんじゃないか?」
基は穏やかに微笑み、二葉にカフェオレを作って渡した。
二葉はカップの中の褐色の液体を凝視し、そのまま口をつけられずにいた。
「何も入っていないよ。私は、美鈴とは違う。」
基は、二葉の手からカップをとり、別のカップに少しうつしてそれを飲んでみせた。
「ほらね?大丈夫だよ。」
怯えた二葉の様子が、子ウサギのようで、痛ましい。
やっと、立ったまま口をつけた二葉を優しく見守り、基は言った。
「もう、学校へはいかなくていいから。」
「!?」
「美鈴が起きたら、三人で研究所へ戻ろうと思う。」
「・・・じゃあ、保科君は・・・?」
「もう、お前に無理はさせないよ。」
「諦めたということですか。」
「そうだね。」
二葉には信じられない。そんなうまい話があるものか。邪魔できない場所に自分を追いやり、由樹をものにする算段ではないのか。
基は、二葉の疑心暗鬼の様子に、言葉を続けた。
「そのピアスを外そうと思っているんだよ。」
「えっ?」
「お前を縛り付けていたからね。これからは研究所で働いてもらうんだし、監視なんていらなくなるから。」
「・・・どうして。」
「お前は二十歳になる。もう、高校生というには限界だ。だから、先のことを考えたんだよ。それだけだ。」
そうだろうか。
例え基の考えはそうであっても、美鈴は違うのではないか。美鈴は、何としても由樹を手に入れるだろう。そして、それは可能だ。
「今日、私が学校へ行って退学の手続きをとってくる。そうしたら研究所へ一緒に帰ろう。」
一度部屋に戻り、二葉は制服のリボンにそっと触れた。この美しい制服を、もう着ることはないのか。そして、もう、あの学校に行くこともない。
(諦めるわけが・・・ない。)
弾かれたように、二葉の身体が反応した。
(まさか、もう・・・!?)
自分が眠っている間に、美鈴が由樹をさらってしまったのではないだろうか。
二葉の脳裏をかすめるのは、あの日の恐怖。
青く冷たい顔だけがのぞくカプセルの中に閉じ込められたセシリアのあの・・・。
首を締め付けられたような息苦しさ。
確かめなければならない。
確かな安全を手に入れられる日まで、由樹を守らねばならない。
今まで、何人もが犠牲になった。
セシリアを救えると信じて、目を瞑ってきた。
なのに、由樹をその一人にできない。
絶対に、できない。
それは、変わらない二葉の決意。
二葉は、今一度制服の青いサテンリボンを硬く結んだ。
そして、父にだまって、家を出た。
それは、二葉にとってこの世の終わりを意味している。
美鈴にさからっただけでなく、基にもさからった。
今度こそ、終わりだ。
セシリアを捨てる日。
(セシリア・・・!)
ドアノブを握ることを一瞬躊躇した。が、すぐにその手を、もう一度伸ばした。
生き返る見込みが百パーセントとはいえないセシリアよりも、生きている人間を選ぶ日がきたのだ。