第2部:揺れる心
由樹は、二葉の肩を引き寄せた腕とは反対の手で、ポケットの中のハンカチを探り出し、二葉の口元を押さえた。
驚いたのは二葉だった。
由樹の顔をこんな間近で見ることになるとは。
「俺は、平和ボケした幸せすぎる人間だよ。だけど、見てみぬふりをしろなんて言うのも結構酷だぜ。」
「・・・・。」
由樹の表情は苦しげだ。
二葉に由樹の気持ちはまったくわからない。由樹が、今まで感じることのなかった自己嫌悪に陥っているなど想像もできない。
ただ、この感覚はなんだろう。
くらくらする。
息ができない。
今、自分は由樹と何の話をしていたのだろうか。
思い出せない。
「口利くなよ。傷が開いてるんだから。」
由樹の眉は濃い。理屈で無く、とにかく顔全体が整っている。非の打ち所がないというのは、こういうことだろう。顔のいい男は得だ。こんなに接近されることを、生理的に受け付けられない相手だっている。そういう意味でも、由樹は人を恐れることを知らないのだろう。
外界からの冷気が漂う階段では、由樹の体温が制服越しに伝わってくる。
(このままではいけない・・・。)
二葉は由樹のハンカチを自分の手で支えた。こうすれば、由樹が離れるとふんだからだ。抵抗より、こっちのほうが効果的だろう。
案の定、由樹は自分の手を離し、二葉から一歩引いた。
きっと多くの女子が、この事実を知ればうらやましがるだろう。いや、嫉妬するだろう。傘のことも、咳の件も同じだ。だが、由樹を惹きつけているのは腕の痣がすべてなのだ。そんな事実さえ由樹を想う女子にはいい「情報」になる。そして、由樹を惹きつけるためなら多少の傷ぐらい負ってもいいと考えるだろう。
二葉は、自分でも気付かぬうちに由樹に気を遣いすぎていた。それが、誰よりも二葉自身を傷つけることをわかっていながら。
二葉の目に、再び冷酷で荒んだ影が戻った。
「あなたのような人を、おせっかいというのよ。」
「そうだろうな。」
「わかっているのなら、私に二度と関わらないで。」
「関わろうと思って関わっているわけじゃない。」
「なら言い方を変えるわ。私を可哀想だとか、憐れだとか思わないで。」
「これ見よがしな傷を見せられても、傍観者になれというのか。」
「そうよ。幸せの塊みたいな人に同情なんかされたくない。同情なんて言葉、大嫌い。他人に何がわかるというの。私が背負った運命なんか想像もつかないくせに、容易く情なんて寄せて欲しくないわ!」
階段を転がるように、二葉は激しい足音とともに姿を消した。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っている。
いったい、二葉は何を抱えているのか。
最後の最後で、気になるセリフを残して去っていくなんて意地悪だ。後ろ髪引かれてしまうではないか。
時間に追われるシンデレラのように、二葉は階段を駆け下りた。
自分は、学校に慣れすぎてしまっただろうか。そうだ、こんなに人から情をかけられ、情を移してしまうなんて、今までなかった。
武士といい、由樹といい、人が好すぎる。
黒板をたたくチョークの音。
白いノートを埋めていく黒い知識。
まだ見えぬ未来。
(私には、似合わない場所だ。)
様々な希望や夢を追い求める若者の姿がここにはある。純粋で、まだ穢れを知らない。そんな彼らを望んで傷つけねばならない。それが、二葉に許された唯一つの「良心」の表現だからだ。
優しく、楽しく学校生活を送ったっていいのかもしれない。だが、そうしたら誰をもターゲットにできなくなる。次に来るのはセシリアの死だ。セシリアは、研究材料というより、二葉を意のままに動かすための人質だ。
そして、二葉は実際何十人もこの世から姿を消す手助けをしてきた。死へ旅立つ人間を、この手で選び出してきたのだ。そんな罪人が、人生を楽しむことなど許されるわけがない。
笑ってはいけない。
喜びを感じてはいけない。
悲しみ、泣くことさえ贅沢だ。
人に好かれ、好くことも許されない。
人に優しくされる資格もない。
おいしいものを食べたり、柔らかい布団にくるまって眠ることも許されない。
セシリアを助け出せたら、アルコール漬けにしてもらおうと思う。遺伝子操作された人造人間が、どんな細胞を連ねていたのかいい見本になるだろう。
(そうだ、私は人間じゃないんだ・・・。)
ようやく、思い出した。己の身の程を。
二葉は、午後、教室に戻らなかった。
何度も空席を目で確認する由樹の様子を、涼子も武士も落ち着かない心持で見守っていた。
蟻地獄に引きずり込まれる様に、由樹が平常心を失っていくのが怖い。
涼子は、さっきの由樹と二葉の一件をすべて見ていた。どうしても気になって仕方が無かったからだ。階段での二人の会話から、二葉に痣があることを知った。それも、由樹が同情せずにはいられないような。
由樹が二葉に固執する理由が一応わかったが、だからといって安心したり、嫉妬が消えたりすることはなかった。
由樹が二葉の口元を押さえた瞬間、涼子は身体の一部が引きちぎられるような痛みを覚えた。
「髪を切りたい。」
そう思った。
理由などわからない。ただ、この衝撃を何らかの形で外へ表さないといたたまれない気持ちだったのかもしれない。
由樹は、同情だと思っているのだろう。
二葉が男だったとしても同じことをすると言うのだろう。
それは違う、と思う。
涼子がもし同じように同情した男子がいたとしても、それを追いかけて、あんなふうに手当てしたりしない。するとしたら、同情以上の特別な感情があるからだ。
由樹になら、するだろう。
だが、嘉納になら絶対にしない。
武士でも、しないかもしれない。かえって変な誤解をされるのではないかと危惧してしまいそうだからだ。そうだ、由樹の行為は相手に誤解を与えるほどのものだ。
由樹がそれに気付かないのだとしたら、余程鈍感なのか、慈悲深すぎるのか。
だが、涼子には由樹を直接質す勇気がなく、武士に探りを入れることにした。武士は涼子の気持ちを知っている。今更隠すこともない。
放課後、涼子は武士を人気のない自習室へ呼び出した。そして、今日の由樹が二葉に対して行った行動を一部始終話して聞かせた。
「どう、思う?」
「どうって?保科が遠野を好きかどうかってこと?」
「そうよ。・・・橘君に聞くなんて卑怯だと思っているわよ。でも、我慢できなくて。」
武士は、由樹が二葉を構う理由がわかって少し安堵してはいた。だが、それ以上の気持ちがあるのかといわれると、返事の仕様が無い。昨日、由樹は自分に嫉妬していた。だが、それ以上の確信は何もない。
「・・・少なくとも、保科は否定してた。」
「でも、やりすぎだと思わない?橘君ならどう?そこまでやる?」
「・・・躊躇する。やらないよ。だけど保科ならやりかねない。」
「優しすぎるってこと?」
「ああ。だけどあんまり自覚してないからな。俺も一応釘さしてるけど。」
涼子の困惑した表情が曇る。武士は、気分を変えるように明るく言った。
「遠野って謎だらけじゃん?変な噂もあるし。ミステリアスってやつ?そこに惹かれているだけだとも思えるけど。」
「・・・そうかしら。」
涼子は全然そう思っていない口調だった。武士は深く息をついた。
「悪いけど、俺、わかんねぇ。保科ってもともと女の話しないし。遠野が男でも同じことしてた・・・気もするし。」
「・・・わかった。ごめん、つき合わせて。」
暗い影の背を向けた涼子の姿に、いつもの快活さは微塵も感じられなかった。今の姿を見たら、涼子に惚れている佃煮にするほどの男子がみな、幻滅するかもしれない。涼子の美しさや聡明さは、その自信に裏打ちされているようなところが多分にある。それを失い、いま、その魅力さえ失おうとしている。
「英。保科の価値観で自分を計るようなことするなよ。保科の気持ちが英になかったとしても、英に価値がないってことじゃないんだからな。」
しかし、その武士の言葉に涼子は激しく反論した。
「理屈ではそうよ!でも私には保科君がすべてなの!保科君に好かれないんだったら、私の持っている長所なんて、全然意味がないのよ。保科君に好かれるなら、もっと醜くたって、もっと馬鹿だったっていいの!保科君が同情してくれるのなら、骨の一本や二本折ったっていいの!全身痣だらけにしたっていいのよ!」
大きな目に一杯涙を溜めている涼子が哀れだと思った。由樹のために、あのお姫様のような涼子がここまで墜ちるのか。
「・・・保科に聞いてみるよ。それで英が満足するなら。」
「いいえ・・・。もう、満足したわ。橘君に聞いてもらったから。自分から止めを刺すまでもないわ。」
涙の粒を、落とさなかった。
涼子は精一杯上を向いていた。
(上を向くと、涙が落ちにくいだけじゃなくて、気持ちも上を向くんだ。)
涼子が去り、武士は硬く両目を閉じた。
涼子の強い想いを由樹は知らないことはないはずだ。だが、それでも二葉へ引きずられていくのだろう。
(バカな奴・・・。)
涼子のどこに不満があるのだろう。
いや、そうではない。不満とは、相手に何か求めるから生まれるものだ。由樹は、もともと涼子に何も求めてさえいない。
(酷だ・・、な。)
涼子にしてやれることはない。人の気持ちをどうにかすることなど出来ない。
由樹の気持ちも。
二葉の気持ちも。
マンションへ戻った二葉を待っていた美鈴の顔は、機嫌がよかった。
「あんたに同情している子、どういう子?」
「・・・普通の男子です。」
「クラス委員じゃないの?号令の声と同じっていう分析がでているけど。」
「そうですけど、別に、普通です。どっちかっていうと、品の無い顔立ちで、頭は少しいい程度です。」
「そう?名門校のクラス委員なら、それ相応だと思っていたけど。」
「本当に賢い子は委員なんかに時間割いてられないから、ほどほどのおせっかいがやっているみたいです。」
「でも、あんたみたいな平凡な子でもちゃんと男の子の関心を引くことができるんだねぇ。」
美鈴は、二葉の腫れた頬から顎を鷲摑みにし、自分の鼻先へ引き寄せた。
「醜いあんたでも、傷で人の同情をちゃんと引けるんなら、利用しない手はないね。もっと上等な獲物を探して、そっちの気を引きなさいよ。まあ、虐待なんて噂がたっても困るけど。」
「・・・わかりました。」
「いい子ね。早めにターゲットを絞ってちょうだい。三学期は短いのよ。」
隠しカメラがピアスに仕込まれてなくてよかった。そうしたら、美鈴自身がすぐターゲットを選ぶのだろうが、由樹の姿をごまかすことはできない。
ハンカチを返すのを忘れていた。
ダークグレーのタータンチェックのハンカチ。二葉は、なんだかこれが由樹の遺品になりそうで怖くなった。早めに別のターゲットを差し出さないと、いつか由樹の存在が美鈴にばれそうな気がした。
ハンカチに染みた自分の血を洗濯しながら、二葉は何度も自分の心に言い聞かせた。
私は罪人。
私は罪人。
私は何人をも死へ追いやった罪人。
私は道具。
私は人の手が作った道具。
私は人間ではない。
私は生きているのではない。壊れて役立たずになっていないだけだ。
私は幸せ。
私は幸せ。
ごみを食べなくてもいい。
雨風にさらされて眠らなくてもいい。
私は十分、幸せ ―
二葉は唇を引き締め、目の前の鏡に映った自分の顔を凝視した。
それは、己の分をわきまえるための、繰り返された儀式でもあった。
一月下旬。
その日のロングホームルームは三年生を送る会の相談だった。
受験本番のシーズンを迎える前の二月中旬に三年生は卒業してしまう。式の前日、下級生が 先輩へのお礼をこめて、クラスごとにもてなすという行事だ。
一時間という時間制限もあり、大抵は手作り菓子でのお茶会とか、かくし芸とか月並みで終わってしまう。が、今年の由樹たちのクラスは少し違った。先日くじ引きで、迎え入れる三年生のメンバーが決まり、それが大当たりだったからである。
「涼子えらい!」
くじを引いたクラス委員の涼子は得意げにメンバー表を黒板にはりつけた。それは、校内一の美男美女かつ頭脳ぞろいといわれる三年A組の半数だったからだ。三年はクラスを二つに分け、一、二年の十二クラスへ散る。一番憧れの的が多いメンバーが、涼子たちのクラスへ招かれるということだ。
「何をやる?月並みなのは駄目よ。」
「あのクラスはハズレだった、なんて言われないようにしないと。」
クラス中が湧いている。二葉には眩しい若さだ。喧々諤々の話し合いの末、自分たちが出演する学園ドラマを撮り、上映するという話にまとまった。
由樹と涼子が三年A組を訪れ、メンバーの代表と送る会の打ち合わせを行った。三年の代表は元生徒会長の桐嶋だ。日本人の良さを再認識するような引き締まった凛々しい顔立ちで、全国統一東大模試でトップテン入りする頭脳を持つ。
「内容は当日まで内緒?楽しみだな。」
桐嶋の近くを通りかかった樹里も話しに加わった。樹里は桐嶋との恋仲を噂される美少女で、有名私立大への入学が既に決まっている。
「私は毎日学校に来ているから、何かあれば私に連絡をしてちょうだい。」
本当に出来る人というのは余裕がある。自分もこうありたい、と思わせる。
撮影にはクラス全員が、協力しあう。だが、クラスメイトのいう「全員」に、二葉は含まれていない。役割分担や配役に「遠野」の文字がないからだ。それに気付いた由樹が反論すると、脚本担当は口を尖らせた。
「だって、気まぐれそうじゃん?協力すると思えないんだよね。そうすると、こっちが尻拭いしなきゃならないわけよ。」
「遠野は協力してくれるよ。」
「まあ、保科が言えばやるかもしれないけど。」
その言葉には、含みがあった。由樹が事あるごとに二葉に関わっていることは、少なからず噂になっている。
眉を歪めた由樹の前に、武士が立った。
「ほら、掃除、真面目だろ?与えられた責任っていうのは果たす柄なんだよ。」
そして、話は予算の方へと移っていった。
ビデオカメラやテープ、編集パソコンは学校のものを貸してもらえるが、小道具や衣装など、けっこう物入りだ。それに、送る会では、三年生全員に小さな花束と寄せ書きを贈ることにもなっているため、やはりお金が必要だ。
「一人五百円かな・・・。全部で二万円。」
「それはきついよ。上映中、お茶とお菓子は出すだろ?一人千円。絶対。」
だが、その話に反応したのは武士だった。二葉のことを考えたからだ。
「そのカンパ、強制?」
「強制にしなかったら、払わない奴でるぜ?そうしたらやっていけないし、第一不公平だよ。クラスでやるのにさ。」
二葉は出せるのだろうか。それが心配だ。
「だけど、一応個人の経済事情とかあるんじゃないか?」
会計担当は笑った。
「千円出せない奴が、この学校に通えるか?」
「そりゃあ、そうだけど、自由になるお小遣いは別問題だろ?」
「心配すんなよ。変な奴。橘自身が出せないってことじゃないんだろ?」
「・・・違うけど。」
こんな心配を由樹はしない。するのは二葉の財布の中身を見てしまった武士だけだ。杞憂に終わればいいと思っている。
金銭の徴収の話は次の朝のショートホームルームで出た。一応、クラスメイトの賛同は得なければならない。会計担当二人が明日から金を集めると言っている。
どきどきしながら武士は二葉の様子を伺った。どうするのだろう。口をきかなくても金を出すことはできるが、断ることはできない。
払わなければ、更に悪い噂がたつ。そして、それが由樹の関心を誘い、由樹を引きずり込む。
二葉は、武士の心配どおり、困ったと思っていた。
今までも徴収金というのはあった。だが、大抵それを払う前に不登校になって逃れていたのだ。だが、今回は難しい。
明日いきなり不登校は不自然だし、美鈴に何と言われるかしれない。今日中に何か事件が起きない限り、きっかけがない。
財布の中身は、本当に緊急の場合のためといった感じで、美鈴の気持ち一つで決まる。だが、一月千円を上回ることはまずない。
アルバイトなど美鈴は許さない。二葉に自活されては困るからだ。金が多ければ自由も増える。それを許すわけがない。
ばれたらどんな目に遭うかわからない。二葉の折檻くらいですめばいいが、最悪、セシリアの身に何かが起こる。それが怖い。
拒絶すればいいとは思う。嫌われるのが使命なのだから、それで十分だ。
だが。
今回、それがためらわれる。
二葉には、今回の転校が最後になりそうな気がしている。もう、二十歳になるのだから限界ともいえる。年齢が様々な高校もあるが、そういう場所には美鈴が望むような人材はまずいない。
一生懸命クラス一丸となって取り組む姿は眩しい。そして、うらやましい。最後に、二葉もその仲間に入りたいと思った。だから、徴収金にも応えたいと思った。参加したいと強く思った。
昼休み、グラウンドを駆け回る由樹を、レンガ敷きの中庭から見下ろした。周りには沢山の女子がいて、由樹たちを見守っている。
羨ましい、と思う。
自分とは違う世界を生きている彼女達を。
なのに、なぜか懐かしさが胸をつく。いつか、夢で見た風景だ。過去の事実と現在と想像が混ざった不思議な感覚。
別に特別な思い出があるわけでも、何でもないのに、何度も夢に見る。それが、まさに今目の前に広がる風景なのだ。
その日の昼休みに、涼子は武士に近づいた。
「お願いがあるんだけど。」
「何?」
涼子は辺りを見回し、由樹の姿がないことを確認した。
「今日の放課後にね、遠野さんの撮影をしたいのよ。橘君、撮影二班のリーダーでしょ?私は監督なんだけど、・・・一人じゃ頼みづらくって。」
「保科は撮影一斑のリーダーだよ。あっちの方が日程に余裕があるはずだけど」
「あのね、私は事実上失恋したてなのよ。」
武士は困惑の表情を浮かべた。
「いや、・・・俺の思い違いかもしれないし。」
「そんな慰めはいらないわ。ただ、今は少し離れていたいの。」
「わかったよ。じゃ、一緒に声かけにいこうか。」
「うん。」
幸い、二葉は給水機で水を飲んでいた。
早速声をかけると、長い髪をサラリとたらしてこちらを向いた。
「今日の放課後クラス映画の撮影があるんだけど、遠野さんのも撮らせて欲しいんだ。」
二葉の表情ははりついたままだ。
そこで、涼子が言葉を添えた。
「ワンシーンだけなの。三分でいいから、掃除の後、残ってもらえない?」
由樹と武士は脚本係に、無理やり二葉のための役を作らせていた。もし二葉が断ったとしても、支障がない程度という条件で。だから、セリフはない。
二葉は、大体の事情は察している。ここで断っても、クラスが困らないことも。涼子や武士を、誰も攻めはしないことも。
だが、今の二葉には妙な学校生活への愛着心が芽生えていた。小六のあの日から、ずっと封印してきた気持ちを、最後となるであろう今、噴出すことを止められない。
ずっと、何かに打ち込みたいと思っていた。何かに夢中になりたかった。しかし、それは自分には許されないことだと諦めていた。
だが、今ならいいのではないか?
美鈴だって、これ以上普通の高校生で通じるとは思っていないはずだ。別の手立てを考えるだろう。なら、この最後の学園生活を少しは味わってもいいのではないか。
普通の高校生のように。
普通の高校生として。
「・・・いいよ。」
「えっ。」
涼子が二葉の声を聞いたのは初めてだった。武士は二度目だが、やはり、息を呑んだ。
「・・・いいって、言ったよね?」
涼子の表情が震えている。
「言ったよね?・・・すごい!」
涼子が二葉の白い手を握った。
「すごーい!私、みんなに自慢する!放課後、掃除終わったら教室で待っててね。迎えに来るから。ね?」
一生懸命手を握って無邪気に喜ぶ涼子に、二葉は思わず微笑んでしまった。
武士も、頷いた。
「ありがとう。俺、撮影するんだ。絶対綺麗に撮るよ。」
二葉は、これでよかったのだと自分に言い聞かせるように繰り返した。美鈴だって、何も文句はないだろう。
ターゲットを差し出せば。
(ター・・・ゲット・・・。)
忘れていた使命。
だが、なるようになる。
今までだってそうだった。
だから今だけは、ほんの少し、忘れたい。
忘れて、普通の生徒になってみたい。
放課後。
二葉は制服の後姿から、振り向き、目までのアップを撮っていくというシーンに出る。謎の生徒という、実在の二葉と変わらない設定だ。
画板役が、白い大きな板を斜めに立て、照明係が色温度の低い電球を上から照らす。
人払いをした広い廊下で、二葉はその中央に立った。
「OK。背中向けたまま、ゆっくり五数えて。そしたら、髪が宙を靡く感じで振り向いて。目一杯目力表現して。」
英プロデューサーの注文は細かい。
二葉は、本物の女優になったかのような恍惚感を全身にみなぎらせていた。
面白い、と思う。
タイムキーパーのカウントがはっきりと聞こえる。
「三、二、一、」
武士のビデオが回る。
二葉はゆっくりと深呼吸して数をかぞえ、そして、振り返った。
ファインダーから覗く二葉の表情は、ハッとするほど鋭い。段々とそれに近づくことがためらわれるほどに。
睫毛に囲まれた上がり気味の眼が、こちらを凝視している。
「・・・カット!」
タイムキーパーの掛け声で、ハッと我にかえった。そこへ、由樹たちの撮影班が現れた。
由樹は、二葉のシーン撮りを涼子が武士に頼んだのだと推察した。そして、それはやはり面白くないことだった。だが、それを露骨に表現することなどしない。それが理不尽なことだとわかっているからだ。
武士は、由樹の姿を見つけて少し気まずい思いをした。涼子が頼んだとはいえ、由樹は自分以外の人間が二葉に関わることをあまり望んでいないということに気付いたからだ。
二葉は由樹の姿を見つけ、少し唇を引き締めた。なぜだかはわからない。ただ、そうしないとだらしない口元を見られてしまうと思ったからだ。
帰り道。
二葉は夜の渋谷に来ていた。
金を得る手段が、これしか思いつかなかったのだ。
風紀の悪いネオンの谷間を彷徨う。目的の店がどこにあるのか見当もつかない。
この街では翔架学園の制服は殊更のように目立つ。そして、珍しさからターゲットにもなりやすい。
「彼女、お金欲しいんでしょ?」
自分と寸分たがわぬ年齢の男が声をかけてきた。二葉には、その男の顔は人間に見えない。だが、これはいいチャンスだ。
「ええ、そうよ。」
「ついておいでよ。即金で払うから。」
くだらない。こんな男についていく女がいるから、女は泣きを見る。
「いいえ、店を知りたいだけなの。」
「店?」
「そうよ。女子高生関連の品を高く買ってくれる店。」
「ああ、そういうのね。」
だが、男はとにかくついて来いとしか言わないため、二葉はうまく誤魔化して逃げた。あんなのにひっかかっては、目的を遂げられない。
厳しい法規制のためか、その種の店はなかなか見つからない。世の中では「時代遅れ」の産物のようにもいわれているが、マスコミから八年間も遮断されている二葉の頭の中の流行や風俗は、八年前でストップしている。とにかく、片っ端から意味不明な看板の店に入っては出て、二時間後にやっとそれらしきものを見つけた。中層ビルの二階。ガラスの窓があるものの、ビニルのシートが貼り付けられ、その役割は果たしていない。
入り口はミラーガラスで、二葉がその前に立った途端、中から怪しげな若い男が出てきた。男は二葉を上から下まで舐めるように見た。まず手に入ることの無い天下の翔架学園の制服。
男の目がいやらしく光った。
「で、何を売りたいのかな?」
二葉は、鞄から白いソックスを取り出した。校章が紺色の糸で刺繍された、まぎれもない翔架学園生でなければ絶対に手に入れられない一品だ。
「今、君がはいているものの方が高く売れるよ。」
その物言いに、二葉は鳥肌が立つほどの嫌悪感を覚えた。こんなことも、今回きりだ。そう自分に言い聞かせ、二葉は、その場でソックスを脱いだ。
店を出たとき、二葉は千円札一枚を手にしていた。だが、それだけにするため、二葉は予想外のものまで売らねばならなかった。唾液をとられたのだ。
吐き気がする。
見知らぬ男に自分の一部が売られるというおぞましさ。
何という荒んだ街。
何という爛れた空。
こんなに惨めな気分になるとは思わなかった。こんなに情けなくなるとは思わなかった。
なり振り構わず走って、走って、道がわからなくなった。
でも、そんなことは怖くも無い。
この屈辱に勝る感情など、ないに等しい。
(でも、これしか思いつかなかった。)
てっとりばやく、男に手を触れさせること無く、金を得る方法を。
(・・・思いつかなかったんだもん。)
下顎が震えて、走れなくなった。
人通りの無い真っ暗な道で、二葉は手の甲で目頭を押さえてうなだれた。
後悔はしない。
したくない。
悪いことはできないものだ。
二葉が店に出入りした姿を、見ていたクラスメイトがいた。彼氏と一緒にあんなところをうろついていたという彼女も彼女だが、当然、二葉の件だけが一人歩きしている。
「・・・まさか。」
鼻先で笑った由樹に、武士は首を振った。
「本当らしい。デマでこんな話は飛ばないだろ。ま、先生にばれなきゃいいけどな。」
由樹は口を開いたが、返す言葉が出ない。
武士は、この話が本当だということを誰よりも確信している。二葉が財布の中身を憂いてやった可能性があまりにも高い。
(やっぱ、送る会の金・・・だろうな。)
由樹にその話をすべきだろうか。迷っていると、朝のショートホームルームが始まった。
ぎりぎりで二葉が教室に入るなり、一気に空気が凍りついた。
怪訝で、異物を見るかのような視線。
「じゃあ、昨日言っておいたとおり、送る会のお金を徴収します。会計班が回るので、千円出しておいてください。」
会計および買出し班は八人。二人一組で受け取りとチェックをしていく。四手に別れているため、手際よく進む。
二葉は、そわそわしながら自分の番を待った。なぜだか、落ち着かない。しかし、それはワクワクする感覚に近い。
二葉はまだ知らない。
自分がブルセラショップで金銭を得たことがクラス中の話題になっているということを。
とうとう二葉の番になった。
だが、そこへ来た会計班の一人、嘉納が、二葉の用意した千円札を見るなり冷たく言い放った。
「あ、そういう汚いお金は三年も喜ばないと思うから、いらないよ。」
「!?」
驚いて目を見開いた。しかし、周りも同じくらい固唾を呑んでその様子に注目している。
座っている二葉を見下ろして、嘉納は続けた。
「身に覚えあるんだろ?うちみたいな学校の生徒がそういう店に出入りするっていうのはまずいんじゃないの?俺ら、そういうの軽蔑するんだ。」
二葉の身体は凍りついた。
昨日の今日で、なぜばれているのだ。
頭の中が熱くなる。
目の前がぐらぐらする。
息が上がる。
喉がひっつきそうで、でも、顎が動かない。
スカートの襞を、ぎゅっと握り締めた。
こんなところを、見られたくない。
こんなことを知られたくない。
誰でもない、由樹だけには!
クラス中の視線を集め、二葉は全身が石になってしまえばいいと思った。今すぐ、地中深く沈んでしまいたいと思った。
二葉の机から、拒絶された千円札が床に舞い落ち、その瞬間、二葉は弾かれたように立ち上がり、教室を走り出て行った。
武士は、気管の詰まる思いがした。二葉の経済事情を思えば、同情せざるを得ないというのに。
その騒動はすぐに一時間目の教科担当が入室したことで抑えられた。
武士は床に落ちた千円札を拾い、二葉の机中の奥深くに入れておいてやった。これが、二葉にとってどんなに貴重な金なのか痛いほどわかっているからだ。
武士は、由樹にだけは本当のことを知らせておくべきではないかと思った。由樹がこんなことで二葉を軽蔑するようになるのは筋違いというものだ。二葉に近づいて欲しくないと思いながら、矛盾している。
現国の時間。武士は、ノートの一番後ろを破いて、由樹に二葉の財布事情を走り書きで綴った。そして、教師の目を盗んで、由樹まで回してもらった。
休み時間になると、由樹が武士に声をかけた。
「読んだよ。」
「・・・ああ。」
「俺、遠野の居場所に心当たりあるから、今から行ってくる。もしかしたら次の時間戻らないかもしれないから、そのときはうまく言っておいてくれよ。」
「授業をさぼる気か?」
「戻ってきたいとは思っているよ。だけど、わからないから。」
武士の目が深刻な光を帯びた。
「みんな事情を知っているんだ。噂になるぜ?」
すると、由樹はそんなことは構わないという風に笑った。
「行ってくる。」
他に、二葉を心配している者はいない。涼子だって、怪しいものには近寄らないといった感じだ。
二葉が憐れだと思った。だが、積極的な行動に出ようとは思わない。武士だって十分二葉に同情しているのに、この由樹との差は何なのだろう。
由樹は、いつもどおり屋上へ行った。
空調機や給水タンク、パイプのはりめぐらされたその向こうに、フェンスから空を眺めるように立っている二葉を見つけた。
二葉は、前を向いている。
唇を硬く結んでいる。
しかし、その頬は涙の跡で光っている。
声を決してあげず、口を開かず、涙だけを零すその様子が、由樹には大人に見えた。
ああして、今までも沢山のつらいことを乗り越えてきたのだろうか。
二葉の姿に、由樹の心までが張り裂けそうになった。
こんなに離れているのに、その隔たりを超えて同じ空気の振動を共有している気がする。
一緒に泣いてやりたい。
それを、ヒーロー気取りのエゴイズムだというなら、それでもいい。
同情だというなら、それでもいい。
人の不幸を喜ぶサディストだというなら、言えばいい。
今あるこの気持ちに、嘘はない。
ただ、ストレートに動く心を、否定したくない。
声をかけることが憚られ、由樹はずっと二葉を遠くから見ていた。
何も出来はしないが、これでいいのだろう。
二葉が、好き好んでそんな店に入ったとは思っていない。武士の言うような事情があるなら、きっと追い詰められてどうにもならず、最後の手段をとったのだと信じたい。
そうだ。
もし罪悪感を持っていないのなら、他人がどう言おうと、意に介さないはずだからだ。これだけ傷ついているのは、その行為を心の中で否定しているからではないのか。
一時間経ち、二時間が経つ。
二葉はまだ、微動だにせずフェンスに指をかけ、空を仰いでいる。
二葉は、教室に戻るに戻れないのではないか。あんなことがあって、あんな形で飛び出してしまったのだから。
一緒に戻ろうと言えばいいだろうか。
それしか、きっかけをつかめないのではないだろうか。それとも、本当に戻る気はないのだろうか。
間もなく昼休みになろうかという頃、由樹は意を決して、二葉に近づいた。さっきよりは、周りの空気が和らいでいる。
「遠野」
二葉は、あらかじめ察していた人の気配で、驚くことはなかった。だが、ハンカチを持っていないためにひりひりするほど涙の跡を頬に残しているこんな顔を見られたくはなく、呼びかけには振り向かなかった。
「もう、休み時間になるから、教室に戻らないか。」
二葉は、黙って首を振った。
あの教室に戻れるほど、気持ちが癒えたわけではない。
「じゃあ、帰るか?かばん、持ってきてやるから。」
二葉の目から再び涙が溢れ出した。
こういう時に、思いやりの言葉をかけられるとかえって泣きたくなる。
手で顔を覆う二葉に、由樹は自分のハンカチを差し出した。
二葉は、そういえば由樹にハンカチを返すのを忘れていたと思った。なのに、また借りるわけにはいかない。
「・・・もう少ししたら、行くから。先に行ってて。」
「本当か?」
このまま自殺でもしかねないという疑惑はまだ拭えない。しかし、二葉は大丈夫だからと繰り返す。
「・・・じゃあ、ちょっと待ってて。」
由樹は屋上からいなくなった。
二葉はその間に涙を止めようと、懸命に唇を噛み、奥歯を噛み締めた。
わからなくなった。
今、自分はどうして泣いているのだろう。なぜ、こんなにも涙が止まらないのだろう。
由樹は、すぐに戻ってきた。
走ってきたのが一目瞭然だ。
「これ。落ち着くから。」
それは、温かい缶紅茶だった。
嘉納の妹が痴漢に遭って泣いていたとき、二葉も同じことをした。ただの偶然か、それともこういうシチュエーションの常套手段か。だが、そんなことはどうでもいい。
二葉はただ、嬉しかった。
由樹と同じ考えなのが、嬉しかった。
静かに微笑んで、缶を受け取った。
両手で包み込み、
「ありがとう。」
と言った。
由樹は、穏やかに目を細めた。そして、再び屋上から去っていった。
二葉は、由樹の背を見届けると缶に頬を寄せ、瞼を閉じた。
もし、由樹が味方になってくれるのなら、どんな視線にもどんな罵倒にも耐えねば罰が当たるだろう。
由樹が、二葉の行為すべてを知って優しくしてくれるのなら、これほどの慰めはない。
教室に戻ろう、そう思った。
嘉納の言ったことは事実だ。ああいう金は確かに綺麗なものではない。それを三年生が喜ばないというのも事実だ。
ただ、二葉がどういう気持ちであの店に入り、どんな気持ちで金を受け取ったのか知らない立場の人間からそういうことを言われたから悲しくなったのだ。
誰にもわかるまい。
わかるはずがない。
それは、昼休みの終わる頃に起こった。
まだ二葉は帰ってこないが、戻ると言ったのだから信じて待つしかない。
午後の選択授業に備え、教室内は理系の数学演習をとっている生徒だけが集まっていた。
武士は、由樹と相談し、嘉納の所へ行った。
「さっきの、遠野のことだけど。」
嘉納は、悪びれた様子も無く、挑戦的な目で二人を見る。
「あの金、受け取ってやってくれないか。」
「・・・俺の一存じゃないんだぜ。会計班みんなで結論を出したんだ。」
「遠野が複雑な事情を抱えているの、わかっているだろう?」
「・・・ああ、実験台ってやつ?」
由樹は、眉を吊り上げた。
「そんなことじゃないよ。」
「他にあるのか?親に虐待されてるとか思ってるなら、お門違いだぜ。」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、受け取ってくれ。」
そう言った武士に、嘉納はにやついた。
「保科は橘まで丸め込んだのか?おかしなヤツ。」
武士はムッとした。
「俺は誰かの言いなりになったりはしない。」
「よく言う。すでに噂になってるんだぜ。保科の同情菌が橘に伝染したってね。」
由樹の息が止まった。
「同情菌?」
「まんまだろ?」
クスクス笑っているのは、嘉納だけではない。
武士は、由樹の息遣いが変わったのを、はっきりと聞き取った。思わず由樹の前に立ち、さりげなく制する。
なのに、嘉納は調子に乗って更に続けた。
「だけど、遠野の持ち物なんか買う奴も気の毒だよな。本当の人間だかわからないんだぜ?転校ばっかしてて、女子高生と言えるかどうかも危ういしな。」
武士の背を乗り越えて、由樹は憤った。
「お前、遠野に妹を助けてもらってんだろ?よくそんなことが言えるな?」
「冗談だろ。俺からすればいい迷惑だ。妹にはよく言い聞かせたよ、絶対に近づくなとね。妹まで実験台にされたらかなわないからな!」
由樹と嘉納の視線が激しくぶつかるやいなや、由樹の右手が嘉納の襟首をつかみにかかった。
「いったい何の根拠があって遠野を侮辱する!?」
「俺には情報網がある。保科が想像もつかないほどのな。第一、あんな人間もどきにいかれてるなんて、とんだ優等生だぜ!」
嘉納の身体が机と机の間にぶつかっていくのと、女子たちの叫び声はほぼ同時だった。
「保科!!」
武士が飛び出す。
由樹は完全に理性を失っている。だが、嘉納も受身ではない。互いの腕が、足が、絡まりあって離れない。
「やめろよ!」
いつもは気の弱い生徒が、思いがけず二人の間に割って入り、武士も由樹を後ろから羽交い絞めにした。
「何をしている!」
数学教師が教室に入ってきたため、集っていた生徒たちが散った。だが、由樹と嘉納はまだ相手を噛みつかんばかりの形相で互いを睨み付け合っている。
由樹と嘉納は、教師に腕を取られ、指導室へと連れて行かれることになった。
二葉が教室へ戻ってきたのは、そのときだった。教室から乱れた服装で連れ出される由樹たちを見た二葉は、何事かと息を呑んだ。
乱れた前髪の奥から二葉の姿を確認した由樹は、安堵の表情をかすかに浮かべた。だが、その唇の端が血で汚れている。
二人が去り、教室は騒然とした。
あの由樹が生活指導を受けるとは、誰が考えていただろう。確かに嘉納は鼻につくが、それをまともに相手にするほど皆、要領は悪くない。
「橘、それから遠野。ちょっと。」
担任と、そして生活指導の教師が入り口から二人を手招いている。武士は思わず二葉に言っていた。
「遠野、お前、全然関係ないからな。全然悪くないから、責任とか考えるなよ!」
二葉は、唇を噛んだ。
一体どういうことなのだろう。何があったというのか。なぜ、由樹があんなことになってしまったというのか。
武士がわざわざ言ったということは自分が関係していることは間違いない。
担任が武士を連れ、生活指導部の女性教師が二葉を連れ、普段は自習室になっている複数の「カウンセリング室」へと別れた。
「ちょっと涼子、大変よ!」
始業のチャイムがとっくに鳴ったというのに、どのクラスも授業が始まらないため不振に思い職員室へ尋ねていった友人が、息咳きって走ってきた。
「どうしたの?」
軽く肩を支えて顔を覗き込むと、彼女は手振りを交えて興奮して話した。
「保科君と嘉納君が殴り合いの喧嘩して、指導室つれていかれたって!」
「ええっ!」
それはクラス中のどよめきだった。涼子は意外さに声がでない。何かの間違いではないかと思う。だって、由樹は空手が使えて強いくせに、暴力を何よりも嫌っていた。
「原因は何だよ?」
脇から男子が口を挟んできた。
「よくわかんない。でも数学演習クラスの子の話だと、遠野っていう転校生が関係してるらしいよ。」
涼子のからだがビクンと震えた。
(遠野―二葉?)
涼子の杞憂があたったというのか。しかし、なぜ嘉納までが関係するのか。
「それって、三角関係ってやつ?」
キャーッという黄色い声と共にクラス内は収拾つかないほど盛り上がってしまった。涼子は頬の筋肉を硬直させたまま、呆然と立ちつくした。どうして由樹は二葉にここまでこだわるのか。
ふと廊下を見ると、二葉が歩いているのが見えた。一人ではない、指導部の先生と一緒だ。それを見た生徒たちはなおのこと盛り上がってしまった。二人の喧嘩に二葉が関係しているという証明だからだ。
小さくて寒いカウンセリング室で、二葉は俯いたまま白い机を凝視していた。二葉が呼ばれたのは、ブルセラショップへ入ったという噂が本当かどうかの確認のためだった。だから女の教師が担当しているのだろう。
「ああいうお店は、古着屋さんとはわけが違うのよ?持ち物と一緒に、あなたの価値や性も売っていることになるの。それがどういうことかわかる?」
わかっているから、あんなに悩み、惨めになったのだ。だが、自分の心を引きちぎってでも、どうしても金が欲しかった。学校生活に参加したという証みたいなものが欲しかったのだ。
そんな気持ちを、誰がわかるというのか。
人間ではなく、実験材料として生まれ、なのに人間として十二年も育てられてしまったために、心が分裂している。
人間としての権利をすべて奪われ、なのに人間としての感情だけを徒に利用されている。
奥歯を噛み、すべてを耐えるしかない。この女教師が何と言おうと、返す言葉などない。靴下を売ったのは事実。それを否定するつもりはない。
だが、わかるものか。
人間として生まれ育ったものに。
わかるものか。
指を飾る余力のあるこんな女に、売る服さえない自分のことなど。
もし、売る本があったなら、売った。
売る古着があったなら、それを売った。
だが、二葉にはそれさえない。あるのは今の学校の制服一そろいと、下着。そして、実験台になるときに着る白衣のみ。寝巻きさえない。
教科書以外の本もない。
売るものさえなかったのだ。
唯一、靴下だけは二足あった。だが、普通では金にならない。ましてや、千円になどなるわけがない。一足の靴下を、毎日洗わねばならないことを覚悟で、もし乾かなければ濡れたままはくことを承知で、それでも売らねばならなかったのだ。
悔しい。
そのことを、誰かに責められたくない。
この思いまでも、否定されたくない。
「とにかく、明日から三日間、自宅謹慎ですからね。保護者の方に迎えに来ていただかないと。」
「!」
二葉はさすがに青くなった。
美鈴は、できるだけ人前に出ることをさけている。その方が、何かあった場合に都合がいいからだ。こんな場所に来るとは思わないし、来て欲しくない。
でたらめの電話番号のおかげで、学校が美鈴に連絡をとることは出来なかった。二葉はそれ幸いと、嘘を言った。
「叔母は夜遅くまで帰ってきません。」
「じゃあ、お父様は?」
「父とは一緒に暮らしていませんので、わかりません。」
「じゃあ、登校謹慎になるわね。おうちで監視できないってことだから。」
(監視なら・・・されてる、いつも。)
二葉がカウンセリング室から出ると、武士が待っていた。そして、二葉の鞄を差し出した。
「俺、鞄係たのまれてさ。ほら、保科と、嘉納の分まで持ってきてるんだぜ。」
苦笑いして、足元の大きなスポーツバッグを膝で支えている。
女教師は片腕を差し伸べ、二葉を促した。
「じゃあ、校長室へいらっしゃい。」
「・・・はい。」
二葉は武士に少しだけ頭を下げ、背を向けた。
武士は、二葉が謹慎になると確信していた。由樹が話さずとも、絶対に嘉納が話すだろうし、生徒の中であれだけ噂になっていれば逃れる術もない。武士は、嘉納が語った言葉の中で、事実ではないことを拾い、訂正することに終始した。
二葉が謹慎の言い渡しを受け校長室を出ると、そこには由樹と、そして車椅子の女性が待っていた。
由樹の腫れた口元を見た瞬間、二葉の目から涙が溢れた。
校長が喧嘩の原因を教えてくれた。
申し訳なくって、仕方が無い。
由樹は心痛な面持ちで俯いたままだ。
由樹の母親が車椅子に乗る障害者だとは思ってもみなかった。それは、学校のほとんどの生徒が初めて知った事実だった。恵まれた知性、恵まれた容姿、誰もが羨むその隠された背景に、由樹を妬む気持ちが一気に冷めやるのを誰もが感じていた。
帰り道。神妙な面持ちで母の車椅子を押す由樹を、通夜の参列のように皆黙って見送った。
廊下の片隅で立ちつくす二葉を、今の由樹が見ることはなかった。
二葉は、後悔した。
「幸せの塊」なんて言うべきではなかった。自分以外が幸せだと思い上がっていたのは、二葉自身ではなかったのか。自分を幸せだなんていいながら、他人の幸せを非難したのは自分が不幸だと言っているのと同じだったのに。
誰だって、何かしら抱えているものなのに。
やっと、わかった気がする。
なぜ、天から二物も三物も与えられたような由樹が、少しも驕らず、謙虚で、思いやりがあるのか。
二葉は、人目を逃れるようにして学校をあとにした。
高校生らしいことをしたい、なんて考えたのが間違いだった。美鈴の言うとおり、分をわきまえておくべきだったのだ。
もう、学校へ行くべきではないのかもしれない。第一、由樹にあわせる顔がない。
一方、学校を出て、冷たい風にさらされた髪をなでながら、由樹の母は息子に言った。
「泣いていたわね。」
「え?」
「私たちの前に校長室に入っていた女の子。見ていなかった?」
由樹は、下唇を噛んだ。二葉を正視することができなかった。理由はどうあれ、指導を受けたということは屈辱的なことだった。学校の誰をも、見ることができなかった。鞄を届けてくれた武士にだけは、かろうじて頷いてみせたが、それ以外はまったくだった。
「由樹の傷を見て泣いたのよ。とても、心を痛めている感じだったわ。」
「・・・色々、あるみたいだから。」
母の車椅子をゆっくりと押しながら、由樹は曖昧な返事しか返せなかった。今は、二葉のことを心配する気持ちのゆとりが無い。後悔をしているわけではない。ああでもしない限り、嘉納はずっと二葉を嘲り続けただろう。
ただ、母への申し訳ないという気持ち。
理由がどうあれ、母は学校へ謝罪し、嘉納の親へも謝罪せねばならなかった。第一、車椅子でここまで来ること自体、大変だというのに。
だが、今は誤る言葉さえ見つからない。何といえばいいのだろう。母は由樹を少しも咎めない。それどころか、庇ってくれている。
「お父さんに、なんて言おうかしらね?きっと私と同じで驚くでしょうね。」
「・・・ちゃんと自分で話すよ。」
「そうね。」
母の声は限りなく優しく、それが切なさを助長した。
放課後。
武士は一人、教室に残っていた。部活をやる気には到底なれないが、帰るのも気が引ける。顧問に休むと伝えようかどうか迷ううち、何となく別のことに思いが移り、時間が経ってしまっていた。
「まだ帰らないの?」
涼子がコート姿で、声をかけた。
「・・・何となく、動く気がしなくてね。」
「私も。午後は何にもする気になれなかったわ。部活も、さぼっちゃったし。」
「英がサボり?世も末だな。」
武士が笑うと、涼子も笑った。
「それで、何してたと思う?洗面所の掃除よ。何かやりたくなっちゃって。一生懸命磨いてたらあっという間にこんな時間!」
白いアンゴラのピーコートは、涼子の柔らな雰囲気によく似合う。だが、今の涼子は傷ついている。一心不乱に掃除をせねばいられないほどに。
薄暗い教室だが、蛍光灯はついていない。
「遠野さんのこと、・・本当だったの?」
「・・・ああ。」
「・・・意外だわ。」
「理由があってのことだから。」
「詳しいのね。」
「俺は偶然が重なって、色々見ちゃったからな。」
「でも、だからって許されることではないでしょう?」
武士は頷いた。
「そうかもな、常識的には。でも、それだけじゃ図れないこともあるみたいだぜ、世の中には。」
「どういうこと?正しいことが、正しくないこともあるっていうこと?」
涼子の口調が厳しく冴えた。だが、武士はそれに理路整然と応えてやる気持ちにはなれない。色々考えることがある、というより、呆然としていたいのだ。何も考えず、神経を休めたい。少しでも脳を動かせば、奥の奥まで探るまで気がすまないであろうことが、何となしにわかっているからかもしれない。
「私は、私の価値観を信じている。だから、それが必ずしも正しいわけじゃないなんて・・・嫌だわ。」
「英は正しいよ。でも、遠野からしてみたら、俺らはすげぇ幸せボケの甘ちゃんなのかもしれない。」
涼子の瞳が鈍く光った。
「遠野さんって、何?そんなに過酷な運命を背負ってるというの?」
「詳しいことはわからない。けど、」
「私だって、別に安穏と暮らしてるつもりはないわ。そりゃあ、普通より恵まれてるわよ。でも、相応の努力だってしてるし、いろいろ悩んでるし、苦しんでるわ。」
「・・・そうだな。・・・ごめん。」
「・・・誤らなくていいのに。・・おかしいよ。」
涼子の声がかすかに震えている。どうしたというのだろう。いや、どうかしているに決まってる。
「おかしいよ、橘君も・・保科君も!」
涼子が走り去り、誰もいなくなった教室には、ガラス越しに、外の街路灯のかすかな明かりだけが映し出されていた。
武士自身、本当はショックだった。
由樹のあんな姿を見たくなかった。
偶像を壊されて戸惑っていたのは誰よりも自分だとわかっていた。
誰にでも、ウィークポイントも、ダークポイントもある。
だが、それが、わかっていない生徒のほうが多い。
名門私立で、多くが恵まれた環境にある彼らに限って、些細な身の回りの出来事を取り立てて、自分だけが不幸なのだと思いがちだ。他の者がみんな大した悩みもなく安穏と暮らしている幸せ者だと疑わない。だから、由樹が決して口にすることのなかった母親の障害のことが、少なくとも彼らに衝撃を与えたのは事実だ。
強くて、凛々しくて、颯爽と歩く由樹が好きで、憧れていた。
だが、その裏にある、本当は誰もが持っている陰を、見てしまった。
これから五日間、由樹と話すことはできない。接触は一切許されない。そして、二葉とも。
武士は、由樹を偶像崇拝していた自分に気付き、苦しく眉根を寄せた。
勝手にイメージを作っていたわけではない。
武士なりに、ずっと由樹のそばで、由樹を誰よりも理解していると自負していた。
なのに、この絶望感。
あの由樹が、嘉納を殴ったときの目を、もう、思い出したくもない。
(でも、あれも保科だ。それを受け入れなければ。)
すっかり暮れた暗い教室の隅で、武士はいつまでも動けずにうなだれていた。