第1部:謎の転校生
この物語はフィクションです。実在する個人、団体名等とは一切関係ありません。
この時期の転校生はめずらしい。
年が明けて間もない三学期の始業式に現れたのはフランスからの帰国子女という、長い黒髪の少女だった。
全校生徒を立たせたまま小一時間は話をする校長の後で紹介されても、皆の意識はすでに飛んでいる。クラス委員の保科由樹でさえ、例外ではなかった。サッカーの朝連で強張ってる筋肉で立っているのだから、早く終わることしか頭にはない。
(二年生の三学期なんて、どうせ理事長のコネかなんかだろ。今までもそうだった。)
名門進学校である私立翔架学園は、二年生の二学期に高校課程の学習を終了している。あとの一年は受験対策に費やすのだ。だから、今転校してきても、そう容易くついてこられるわけがない。
壇上の少女の顔は、最後尾から認識できるわけもなく、ただ腰までのびた髪と二年生の証である胸元の青いサテンのリボンだけを確認したにすぎなかった。
始業式が終わると、生徒たちは一斉に体育館から教室へ向かいだした。学級委員は先に教室に着き、電子ロックを専用カードで解除しなければならず、由樹も足早にカーペット敷きの廊下を進んでいく。と、それを軽やかに追い抜かすスカートの襞が目の脇をかすめた。
同じクラスの女子学級委員の英涼子だ。
涼子は由樹の方を見ながら、後ろ向きに歩きだした。
「ねえ、さっきの転校生、私たちのクラスに来るのよ。」
由樹の足が、一瞬止まった。
「俺は、聞いてない。」
「朝、担任からよろしく頼むって言われたの。女は女同士ってことでしょ。」
「・・・。」
「興味、ないの?」
「ないよ。どうせコネのお嬢様だろ。」
教室に着き、セキュリティーをカードと暗号で解除する。「信頼」されている生徒だけに許される特権だが、由樹にしてみれば雑用が一つ増えたに過ぎない。なのに、それを誇らしげにする輩もいるからわからない。
「あのね、ちょっと耳貸して。」
教室に入ると、涼子は辺りを素早く確認して由樹に耳打ちした。
「彼女、ピアスしてるけど、宗教上の理由だかではずせないらしいから。」
由樹は、涼子の黒目がちのアーモンド・アイを覗き込んだ。
「はずせないって?今までは例外なく校則違反にしていただろう?」
「うん。でも、彼女のピアスは耳たぶに埋め込まれていて物理的にもはずせないみたい。ただ、他の生徒の手前、髪で絶対に隠すって。でも、もしものときはフォローして。」
「フォローって?」
「何か起こっても、保科君がちょっと睨めばみんな口を噤むってこと。」
涼子はいたずらっぽく笑って小さく舌を出して見せた。
(何だよ。また、やっかいな・・・。)
平穏な規律を乱されたくない。帰国子女なんて肩書きは眉唾物だ。おおかた、前の学校で何か問題があって転校せざるを得なくなったに違いない。
やがて、教室に担任が現れ、続いて例の少女が入ってきた。
「起立!」
一瞬のざわめきを打ち消すように、由樹は声を張り上げた。
「礼!」
担任は黒縁の眼鏡ごしに全員が着席をしたのを見届け、少女を前に立たせた。
「始業式で紹介があったが、改めて。遠野二葉さんだ。」
近くで見ても、さして印象には残らない顔立ちだ。美人とはいえないが、品はある。色白だから青いチェックのひだスカートとリボンが似合う。頬のあたりの髪は首にかかるくらいにカットされている。さながら昔の姫君風とでもいうのか。確かに、耳はまったく見えない。
二葉は伏せ目がちに軽く頭を下げた。席に案内され、隣の涼子が「よろしくね。」と声をかけたが、ほんの少し首を傾けただけで、言葉はなかった。無礼なのか、初めての場所で緊張しているのか。
一通りの事務連絡が終わると、さっそく年明けの実力テストが行われる。由樹は、これが怪しげな転校生を試す良い機会だと思った。明日の朝にはトップ五十が発表される。見物だ。
九十分間の数学を、時間が足りないと思うか、もてあますか。机四つ分右斜め前の二葉の表情は髪に隠れて見えない。だが、前かがみの加減が真剣に取り組んでいることを示している。完全に私立文系を決め込んでいる生徒はすでにシャープペンが手の中で暇をもてあましている。
(とりあえずは、それなりってことか。)
その日の帰り。
涼子は、鞄にペンをしまう二葉の様子を伺いながら、遠慮がちに声をかけた。
「遠野さん、お家どこ?よかったら、一緒に帰らない?」
だが、二葉は涼子をチラリともせず、だまって脇をすりぬけていった。まだ大勢クラスメイトが見守る中、優等生の涼子の立場はない。その困惑を察した由樹の体は、思うより先に動いていた。
「ちょっと待てよ。」
腕をつかんだ瞬間、振り向いた二葉の長い黒髪が由樹の手の甲をかすめた。
「口が利けるなら、返事ぐらいしろよ。無視するって事はないだろ?」
いつにない強い口調に、周りの者が息を呑んだ。由樹が声を荒げるのはめずらしい。
二葉の目は由樹の目を貫くほどにまっすぐ見返した。
しかし。
なぜか、それは挑戦的というより何の感情もないというように見えた。
「!」
由樹の手を強く振りほどき、二葉は足早に教室を出て行ってしまった。
緊張の糸が一気に緩み、教室内はざわめいた。学年一の容姿と頭脳を持つクラス委員の男女をないがしろにした転校生。受験を控えて毎日が息の詰まるような学校生活の中で、この一件は恰好のスキャンダルだった。
涼子は、由樹に言った。
「ごめんなさい、嫌な思いをさせて。」
「何で英が誤る?」
「一人でいたい人だっているわ。私が気に入らないのかもしれないし。差し出がましいことだったのかも。」
今の涼子には、もう二葉の態度などどうでもよかった。自分のために、あの冷静な由樹が憤ってくれた、そのことが気分をよくしていた。だから、寛大な気持ちになれたのだろう。
「人が好すぎるよ、英は。」
由樹にそう言われると、少し後ろめたい。
「そんなこと・・・ない。」
そう答えるのが精一杯だった。
だが、由樹は時間が経つにつれ、腹立たしさが段々後悔に変わっていくのをとめられなかった。自分をまっすぐに見た二葉の目が脳裏をかすめるたび、思い出し、段々と鮮やかな記憶となっていく。「口が利けるなら」そんなせりふを言ってよかったのだろうか。わけありの転校生なら、人前で口を利けなくなるなんてよくある話だ。前の学校でひどいいじめにあっていたのかもしれない。なのに、あんな扱いをしてよかったのだろうか。もし、明日から二度と学校にこなかったら・・・?
平穏な生活を乱す存在と、きめつけすぎていたのかもしれない。だから、あんな些細なことであそこまで過敏に反応したのかもしれない。だが、それを冷静に自問自答できるほど由樹は大人ではなかった。ただ、わけのわからない思いと、後悔に頭をかかえるしかなかった。そして、明日もまた二葉が現れるよう、祈るしかなかった。
登校ラッシュの時間帯、昇降口にできた人だかりは、昨日の実力テストの結果発表だ。パソコンで打ち出された筆書体の黒い名前が、五十人分羅列されている。
由樹は、女子生徒の群れの後ろから掲示を見上げた。
由樹はいつもどおり一位だったが、それより気になるのは二葉の順位だった。素早く左へと視線を走らせる。
すると、四九位というぎりぎりのラインで名前を連ねていた。優秀とはいえない、中の上といったところか。二葉はこの結果を見ただろうか。いや、その前に学校へ来ただろうか。
重い足取りで教室に入る。
入り口で一瞬立ち止まり、室内を見渡す。あと五分で始業であるためほとんどのクラスメイトがいる。なのに。
あの長い黒髪は見当たらない。
唇を噛んだ。胸の奥を突かれた気がする。
自責の念にかられるとはこういうことをいうのだろう。いや、悪いことなどしていないのだから、それはおかしい。
「保科君、おめでとう。」
クラスメイトの女子が数名、口々にテストの結果をもてはやしている。だが、それを笑って受け止めることができない。一位であったことなど、今はどうでもいいことだ。
始業のチャイムがなり、担任が入ってきた。すりこまれた習慣が、由樹に号令をかけさせる。
その日、二葉の席が主を迎えることはなかった。昨日のことが原因なのか。だが、あんなことくらいで?と責める気持ちがないわけではない。
次の日も、二葉は来なかった。
思い切って担任に欠席の理由を尋ねると、連絡が取れないのだと言われた。
「届けられている電話番号が間違いらしくてな。保護者の携帯も留守になっているし。もう少し様子を見て、場合によっては自宅へ行こうと思っている。」
戸惑うような表情の由樹に、担任は聞いてきた。
「保科には、欠席する心当たりでもあるのか?」
どきりとしたが、冷静に否定をし、職員室を出た。
転校早々トラブルを起こし、登校しなくなった少女を、誰もクラスメイトだと思っていない。例え今、訃報でも入ろうとも、葬式に行く人間がどれくらいいるだろうか。そう思うと、哀れな気もする。だが、少なくとも普通の少女ではない。一度として笑わず、口を利かなかった。初日の、緊張とは違う、明らかな拒絶の意思表示。涼子でさえ、二葉のことを口にしない。いや、それは嫌なことを思い出してしまうからか。
そんな昼休みのことだった。
自分の席で何をするわけでもなく頬杖をついていた由樹の耳に、突如「遠野」という名が飛び込んできた。
ハッとして顔を上げる。
その声は、嘉納という男子のものだった。医者の息子で優秀だが、それを鼻にかけているため、嫌われている。その嘉納が、クラスの気弱な男子グループをつかまえ、話をしているのだ。
「ノーベル賞候補って言われている遠野基博士、知ってるか?あの娘なんだってよ、遠野二葉は。」
由樹は席に着いたまま、思わず聞き耳を立てた。
「でも、一日来ただけで、全然こなくなったじゃん。」
「それだよ。親父に聞いた話じゃ、あの娘は実験台らしいぜ。」
「実験台?」
「そう、研究材料だって話。早い話がモルモットさ。クローンって噂もあるらしいぜ。」
嘉納の話し方は、どうしてこうも厭らしいのだろう。どんなセリフも不快に聞こえる。その後の会話は、次の授業準備に湧き出したクラスメイト達によりかきけされてしまった。
(実験台・・・クローン?まさか・・・。)
非現実的すぎる。そんな話、嘉納の話題づくりのデマにきまっている。
その日は六時間目を過ぎた頃から雲行きが怪しくなり、七時間目の始まる頃には雪が舞いだした。
「どうりで寒いはずだぜ。」
「窓ガラスの近くなんて暖房関係なしって感じ。冷たい空気が伝わってくるもの。」
雪という年に数回の非日常にクラス中が沸いている。由樹も思わず窓の外に見とれていた。
が、突然、クラスの空気が変わった。
明るい会話が、ざわめきに変わったのである。
何事かとクラス中をかけめぐった由樹の視線が、一点で止まった。教室の引き戸の横に立っている遠野二葉のところで。
すべての視線を浴びていることをものともせず、何事もなかったかのように二葉は自分の席にまっすぐ向かっていた。
「もう、席なんか必要ないと思ってたのに。」
誰かが言った言葉が、由樹の耳にはっきりと届いた。女子には違いないが、誰かはわからない。いつもはそういうセリフを許さない英涼子も、今日はうつむいている。二葉はだまって教科書を机に出した。
まもなくチャイムが鳴り、地理の授業が始まった。
由樹は、とりあえず安心はした。二度と学校に現れなかったら、自分の責任かもしれないと恐れていたからだ。だが、二葉は登校した。周りの目が冷たいのは気になるが、とにかく一安心だ。あとは嘉納が余計なことをこれ以上吹聴しないようにはせねばなるまい。
放課後には清掃が待っている。出席番号順に班が割り振られ、毎週校内のどこかしらを掃除するようになっている。中でも「教室」は一番手がかかり、嫌われている。
「保科。」
帰りのショートホームルームの前に、親友の橘武士が由樹の元にやってきた。
「悪いんだけど、遠野に教室の掃除があるって言ってくれないか?」
「・・俺、班違うぜ?」
「つれないこというなよ。クラス委員じゃん?話しかけづらいっていうかさ、・・・なんか無視されそうっていうか。」
「情けないこと言うなよ。いくらなんでも噛み付きゃしないさ。第一、初日の騒ぎで俺の方が嫌われてると思うし。」
「大丈夫!クラス委員だから!」
「それ、根拠ねぇし。」
「頼む!今度おごるから。な?」
「・・・別にそんなこといいよ。わかった。」
由樹は少し緊張しながら二葉に近づいた。身の回りはすぐにでも飛んで帰れそうなほど、用意が整っている。
「遠野。」
二葉は、ゆっくりと由樹を見上げた。
二葉の瞳は淡い紅茶の色をしている。
「今日、教室の掃除当番だから残ってくれないか。」
二葉の薄い唇は、硬く閉じたままだ。
担任が現れ、由樹は席へ着かざるを得なくなり、返事を聞くことはできなかった。
帰りの挨拶が終わり、全員いっせいに椅子を机に乗せ、後ろへ下げ始めた。二葉もそれに倣っている。由樹は自分の作業をしながら、ずっと二葉の様子を見守っていた。二葉は帰らず、教室に留まっている。何人かが箒で床を掃き始め、班長の橘は二葉に雑巾を手渡した。
スカートでの雑巾がけがしづらいのに加え、制服の上着は実用性の欠片もないクリーム色がかった白色だ。女子は皆雑巾がけを嫌がり、箒や机拭きに率先して従事し始める。ポジションのわからない二葉は床にひざを着く選択肢しか与えられなかったわけである。
だが、二葉は躊躇せず雑巾がけを始めた。
いい加減でなく、もくもくと、汚れを落とそうと一心に力をこめて働き始めた。
意外だと、由樹は思った。
二葉は、適当に仕事をやっているふりだけして帰ってしまうのではないかと思っていたからだ。だが、違った。
「保科君、何やってるの?廊下掃除でしょ?」
涼子が入り口で由樹を急かした。
由樹は二葉の様子に安心して廊下に出た。
廊下には青のタイルカーペットが敷き詰められている。掃除機での掃除と、手すり拭きという簡易なところが、生徒には人気の場所だ。雑巾で手すりを拭き始めた由樹は、やがて二葉がバケツを持って廊下に出てくるのを目にした。水場は廊下の一番奥のトイレ脇にある。二葉達の教室からは最も遠い。水のたっぷり入った重いバケツを持って移動するのは男子にも結構な労働だ。それを女子がやるなんて。
由樹の体は自然に二葉の隣に動いていた。
「持つよ。」
バケツにかけた手に、二葉の息遣いがかすかに聞こえた。が、二葉は手を離そうとはしなかった。しかし、由樹を拒絶もしなかった。
水場に水を流し、中に放り込まれた雑巾を一枚ずつ洗い始める。
二葉の袖も由樹のシャツの裾も雑巾の汚れた水で灰色に染まりかけていた。寒いし、水は肌を突き刺すようにつめたい。しかし、このままではと、腕まくりをした。二葉もだ。が、何気なく見た二葉の二の腕に、由樹は思わず絶句した。
一瞬、腕に模様があるのかと思った。
しかし、良く見るとそれは痣だった。
赤紫のもあれば、なおりかけの茶色の点もある。赤い筋のようなものも無数にある。それは明らかな虐待を証明していた。
思わず由樹は二葉の肩をつかんでいた。
「遠野、お前・・・。」
二葉は少し困惑した表情を浮かべたが、すぐにいつもの毅然とした瞳の色に戻り、由樹から離れ、走り去った。
置き去りにされたバケツを前に、由樹は動けなかった。
見るべきでないものを見てしまったような感がある。乾いた喉を唾液と潤そうとしても、口を閉じることができない。
(何だよ、今の・・・。)
由樹の脳裏に嘉納の言葉が走る。
― 実験台らしいぜ。モルモットと同じ ―
(いや、あれは実験とは関係ない。そんなんじゃないだろう。)
空のバケツを手にしてようやく教室に戻る頃には掃除は終わっていて、武士が由樹に近づいてきた。
「さっきはサンキュー。」
「遠野、もういないのか?」
「ああ。バケツは?って聞こうと思ったのにすり抜けてっちゃって。よっぽど学校とか友達とか嫌いなんだな。」
「嫌い・・・?」
「少なくとも好きには見えないから。けどああいう性分は苦労するよな。どういう環境で育ったか知らないけど。」
嘉納の話が気にかかる。もはや、あれが全くの出たら目だとは思えない。何を知っているのか。どこまで知っているのか。
激しくなる雪が、夕刻を早めの夜色に染め始めていた。部活動もすべて中止になり皆家路を急ぎ始める。
由樹も武士と校門を出、バス通りへと歩き始めた。傘がすぐに重くなり、紺色のウールコートの上には六の尖がりをもつ星型の結晶がスパンコールのようにくっつく。
天候のせいかバスがなかなか来ないらしく、停留所には沢山の生徒が長蛇の列を成していた。
「駅まで歩いたほうが早いかもな。」
由樹の言葉に武士も同調し、二人してまだ雪の積もらない濡れた歩道を歩き始めた。つま先から伝わる寒さが、知らず知らずのうちに足を早め、ほとんど口を利かずに黙々と歩いていく。
十五分ほど歩いただろうか。まだ半分以上の道のりがあるのかとうんざりしかけた時、不意に視線の先に見慣れた制服のスカートが目に入った。
長い髪は、濡れた海草のように重く見える。
由樹は思わず息を呑んだ。
彼女は傘を持たず、コートも着ていない。氷点下になろうかというような大雪の夕方を、マフラーも手袋もなく、製靴ひとつで歩いている。しかも、急ぐわけでもなく、足取りが重い。
「あの長い髪、遠野だよな?」
武士の返事を待たず、由樹の足が思わず宙を蹴っていた。そして、幽霊のように影薄く進んでいく二葉の背後から傘を差し出した。
二葉の足は緩まず、由樹は声をかけた。
「傘、持っていけよ。」
二葉が立ち止まり、二人は視線を合わせた。二葉の驚いた様子が、暗い中でもよくわかる。住宅街の車も通らない静かな路上で、二葉の息が白くにごる。二葉も生きているのだ。どういうわけかそんな当たり前のことを実感する。
二葉は黙って傘を押しのけ、また歩き出した。
「そんな恰好で、絶対風邪ひくぜ?」
さっきの腕を見てしまったからか、妙に同情めいた憐れみ由樹を動かしている。こういうお節介が嫌いなのだろうとはわかっている。だが、涼子の二の舞を踏むのかという恐れは、ない。揺るがない強い意志で二葉を追う。だが、二葉の眼は初日に由樹を見た、同じ色をして怯まない。
その頬の脇に、突然、紅蓮色の光が輝いた。
ピアス。
何の因縁か、背徳か。
一体何を、その後ろに抱えて生きているのか。
二葉は由樹の脇をすり抜け、霙溜りの道を、音をたてて走り去っていった。
寒くないのか。
人の気遣いなど、欲していないのか。
青いスカートも、けたたましい水音も、たちまちブルーグレイに染まる景色に溶けていってしまった。
「ふられたな、めずらしく。」
隣に来た武士がからかうように言った。
「そんなんじゃないよ。」
「初日から一番関わってんのが保科だよ。しかも自ら進んで。」
「よく言う。橘は関わりを俺に押し付けた側だぞ。第一、絶対異常だろ。あの恰好。」
武士は先に立ってゆっくり歩き始めた。
「この時期の転校生ってだけで十分異常だよ。しかも初日に騒ぎを起こした。いつ不登校になっても不思議じゃないね。」
「・・・冷たい言い方だな。」
「みんなの意見だ。第一、今のシーン。遠野に傘を貸そうとした保科を他の女子が見てたら鞘当の的間違いなしだぜ。」
「ああせずにはいられないのが普通だ。」
語尾を強めて言い切ったが、武士の返事は早かった。
「思っても躊躇うのが普通だ。」
由樹が言葉につまり、会話は途切れた。
雪の日は、なぜこんなにも世界が静まり返るのだろう。ありとあらゆる有機物だけでなく、無機物さえもが息を潜めているようだ。
駅が近づき、少しずつ通りがにぎやかになってきた頃、武士がようやく口を開いた。
「あの英が・・・味方から手を引いたんだ。遠野は孤立する。完全に。でも必要以上に保科が手を差し伸べるのは止めたほうがいい。」
「・・どういう意味だ?」
「保科が構えば、女子から必要以上に睨まれる。周りから相手にされないか、いじめられるかなら、前者の方がましだろう。」
「橘、今はそうかもしれないけど。」
「明るい将来があるとは思えないね。遠野の態度が何を意味してるのか知らないけど、人嫌いならどうにもならないぜ。そんなクラスメイトをどうにかしてあげようなんて余裕は受験を控えた俺たちには皆無だ。」
「・・・そういう考えをするんだな。」
「進んで厄介ごとを抱え込むことはないだろう?とにかく、保科の行動はどんなに些細なことでも注目される。そういうの、いい加減自覚したほうがいい。自惚れとか、そういう次元じゃないからな。」
自動改札機を通り抜け、二人は異なるホームへと別れた。
由樹の家は密集した住宅街の角地にある。猫の額ほどの庭には木々が所狭しと植えられ、僅かながらも季節の花や実をつける。
名門私立に通いながらも、由樹の家は一般中流家庭にすぎない。ただ両親が質素にやりくりして教育費を捻出しているだけのことだ。開業医の息子である嘉納や、一流商社マンの娘である涼子とは明らかに違う。だが、両親にはそれなりの意地があるらしく、特待生として支給される返済不要の奨学金の話を断っている。自分の子どもの教育費を人様に都合してもらうことを恥と考えているらしい。昔気質といおうか、自尊心が強いといおうか、今時めずらしいとは思う。だが、両親がどんな気持ちで自分を育てているのかは、由樹には痛いほどわかっている。
母親は由樹が幼い頃交通事故に遭い、車椅子なしでの生活は二度とできない身体になってしまった。まったく足が使えないわけではないのが救いで、日常生活でつきっきりの介護が必要であるほどではないが、やはり不自由な身だ。そんな家族を抱えているのが、必要以上に父を気負わせているのだろう。
バリアフリーの家など、今時めずらしくないし、車椅子用の生活用具も身近になった。ハンディを背負った人にも住みやすい社会へと動き出す精神の豊かさがありながら、一方で虐待や殺戮が耐えない世の中でもある。人は二分化しているのか。金銭の豊かさが心の豊かさをもたらす階層と、その逆を突き進む世界と。
「着換えていらっしゃい、由樹。ごはんもうすぐできるから。」
車椅子で台所を動く母に、由樹はいつもと同じ言葉をかけた。
「すぐ行くから、待ってて。あとはやるよ。」
学校の連中はとりわけ幸せそうに見えた。不自由なく、自分のことだけ悩んでいればいい。欲しいものはすぐ手に入れられるだけの十分な財力、そして名門私立校に合格するだけの恵まれた知力。
(俺だって、遠野だってそんなものは多分持ってるんだ。でも・・・・。)
周りから見れば、由樹ほど恵まれて見える者はいないのかもしれない。母のことを抜かせば、確かに恵まれすぎている。両親は揃い、家庭が壊れる心配はないし、家に帰りたくないと思うようなことも、ない。幸せに育ってきた。
制服を脱ぎ、ふと宙に上げた自分の腕を見つめた。筋肉でひきしまった青年の腕。由樹はあの二葉の腕を思い出し、痛くはないのに頬の筋肉がひきつった。
あれは、人間の腕ではない。痣や傷が絶えない生活とは何なのか。自分が想像しているような日常なら人嫌いで当たり前だし、口を利く気にもなれないだろう。
窓の外は更に白く染まりゆく静かな景色が広がる。
同じ空の下で、今二葉はどうしているのだろうか。
今までにない衝撃は、平穏だった由樹の心をこれ以上ないほどにかき乱していた。
遠野基博士。
放課後、図書室のパソコンで検索すると、数千件のホームページが候補に挙がった。クラスメイトの嘉納の言葉が忘れられないからだ。だが、数ある中にもその正体が見えてきそうな記述は一切なく、ただ遺伝子工学分野の権威だとか、クローンの研究で世界に名を馳せているなどといった内容が同じように書かれているだけだ。だが、怪しげなサイトに行くと、嘉納が言っていたような下馬評が連ねられていた。
「ヒトクローンを作り、実験台にしている」
「浮浪者などをさらい、解剖実験している」
「不法な臓器売買のブローカーである」
研究所があるらしいが、住所などは一切わからない。とにかく誹謗中傷の応酬で、ろくな情報が得られないのだ。
「次、変わって欲しいんだけど。」
どきりとして振り返ると、そこには嘉納のにやけた顔があった。
「ネットは一人十五分。優等生の保科が守らないっていうのはまずいと思うぜ。」
あわててページを閉じるが、もうばれている。嘉納は由樹から席を奪い、得意げに鼻先で笑った。
「光栄だね、俺の言ったことを真に受けてくれるとは。」
「・・・・。」
「もっと知りたければ、教えてやってもいいんだぜ。」
「別に、知りたくない。」
「遠野基博士は結婚どころか、浮いた噂ひとつない撫男なのさ。なのに娘がいるんだ。おかしいだろう?」
「おかしくないさ。養女かもしれない。」
「ああ、そうかもな。だが、真実は絶対に違うぜ。」
「・・・遠野の環境を探って楽しいか?」
「他人のこと言えんのか?優等生。」
嘉納の言い方には隅々まで棘がある。これ以上関われば何をしてしまうかわからないと思い、由樹は足早にそこを立ち去った。
教室は、まだ掃除の途中だった。武士や二葉の班が今日までの当番だ。
二葉は、他の女子が優雅に箒を持つ中、男子に混ざって床を水拭きしていた。服の袖をまくらず、長い髪が床につきそうになっている。
汚れた雑巾を持ち、立ち上がった二葉と思わず眼が合った。が、二葉は何の反応も示さず、バケツの水で雑巾を濯ぎはじめた。まるで、由樹の存在など初めからなかったかのように。
「あんまり見んなよ。気付かれるぜ。」
いつのまにか武士が隣に立っている。だが、その目は、悲観的だ。
「本気でないなら、気をつけろよ。俺の言ったこと、わかってるだろ?」
「わかってる。大体、『本気でないなら』って何だよ。」
「・・・一番まじめに掃除やってて正直驚いてるし、見直してる。でも、」
「心配してるだけだ。色々ありそうだし。」
「そうなんだろうけど、」
「もう行くよ。・・・部活始まる時間だから。」
「ああ、俺もすぐ行く。」
二葉の腕のことは、誰の口の端にも上らない。きっと、誰も気付いていないのだ。あの日から一日たりとも脳裏から離れない、あの凄惨な光景。
そんな由樹の様子を教室の片隅で見守る姿があった。涼子だ。涼子は、二葉が汚れた水と雑巾の入ったバケツを持って教室を出て行くのを見て、思わず声をかけたくなった。「一緒に持つ。」と。
だが、涼子の足はすぐに強張った。
また拒絶されたら。
その思いが先行したからだ。
今まで涼子は誰かに嫌われたり、拒絶されるなどという経験がなかった。いつもみんなが涼子に好かれようと優しく近づいてきた。
なのに。
廊下の向こうへとよろめいて進む二葉の背を黙って見送るしかできなかった。
(わからない・・。私が、一体何をしたというの?)
涼子が二葉への手を引いた一番の理由は、由樹の態度にも拠るところが大きかった。だが、嫉妬が自分を醜くさせているなど、涼子は認めたくなかったし、気付きたくもなかった。
そのまま教室を離れ、グラウンドが見渡せるレンガ敷きの中庭へと出た。
広い芝生のコートで仲間と準備運動をする由樹が見える。どんなに遠くからだって、涼子には由樹のいる場所がはっきりとわかる。
一年から同じクラスで、ずっと二人でクラス委員をしてきた。だから、どの女子よりも由樹の近くにいるという自負がある。例え由樹が何も言わなくても、由樹に好かれていると思っていた。その資格が自分には十分あると、思っていた。
それが揺らぎ始めて、涼子の表情は険しくなった。
「英が保科を見てる分には、誰も文句は言えないな。」
はっとするのと、顔が熱くなるのは同時だった。
「なんか、意地悪な言い方ね。」
照れ隠しにわざと冷たく言い放った。が、いつも明るい武士の顔はにこりともしてくれない。
「本当だろ?いくら保科に惚れてる女子が五万といたって、みんな英にはかなわないって知ってるからさ。」
サッカー部の鮮やかな青のユニホームが、薄暗い空に浮かび上がる。
「橘君は知っているの?保科君が誰を好きか。」
胸が高鳴り、唇までも震わせている。だが、涼子はどうしても知りたかった。
「・・・いや。」
「だって、親友でしょ。」
「だから、いないんだよ。あいつ、誰も好きじゃない。」
涼子は武士の横顔を凝視した。
「そうなの?」
「俺が知る限りでは、だけど。」
由樹自身が否定する限りは、二葉については何もいえない。涼子の疑いの眼差しは、やはり二葉を気にかけているからだろうか。
涼子は黙って踵を返し、グラウンドに背を向けた。冷たい冬の風が前髪をなで、頬をかすめ、スカートの襞を翻す。
(少なくとも、私を好きではないんだ。私のことなど、好きではなかったんだ。)
閉じたまぶたの裏が熱くなり、噛んだ下唇が震えている。
惨めだった。
自惚れていた自分が馬鹿みたいで、恥ずかしかった。
ふと、目の前を二葉が通り過ぎた。人気のない昇降口で、忙しく靴を履き替えている。
その途端、涼子の中で何かがはじけた。
「遠野さん。」
自動ドアから今にも外へ出ようとしていた二葉の長い髪が、宙で揺れて止まった。
呼び止めて、何をしようというのだろう。涼子には自分のしたことに戸惑い、だが後に引けない意地のようなものが彼女を突き動かしていた。
「あのね、あの、・・・・・。」
だが、いざとなると何も言えない。意気地がないのではなく、涼子の本質が優しいのだ。
「・・・さようなら。気をつけてね。」
二葉が何も言わず、そのまま去っていっても、涼子は心から安堵していた。
今、本当に、冷たいことを言ってしまいそうな気がしたからだ。
だが、それを押さえられたことに心から感謝した。言っていたら、きっと想像以上の罪悪感に苛まれたはずだからだ。
優しくて、美しくて。そんな形容詞に甘んじていた自分が、決してそうではないのだということを痛感した。
乱れた前髪が、今の自分にはお似合いだと思った。そして、そんな自分がいつもより愛おしいと思った。惨めな自分を認識しながらも、二葉に冷たくしなかったことが途轍もなく素晴らしいことのように思えた。
(明日もまた、さよならぐらい言ってみようか・・・。)
そんな素直な感情が涼子の中に芽生えていた。
チョークが黒板をたたく音と、ノートの上で芯の削れる音だけが響く静かな教室に、今日は朝から雑音が時折混ざる。
二葉の咳だ。
かわいた咳が、小さく、時に大きく苦しげに響く。
当たり前だ。
晴れて澄んだ空気が冴え渡る日でも、雪が凍りつく日でも、コートもマフラーもなしで過ごしている。傘さえ持たない。そして、痣だらけの腕。一体どういう環境で育っているのだ。特にこの学校では、それがとりわけ異色に映る。
「水を飲んできたらどうだ?」
見かねた数学の教師がそう声をかけると、二葉は黙って立ち上がり、教室を出て行った。
静かな授業が戻ってきた。が、それは二葉がなかなか戻ってこないからだ。十分以上たったところで、教師も不振に思いだし、
「クラス委員、ちょっと様子を見てきてくれないか。」
「はい。」
立ち上がったのは由樹だった。クラス委員は由樹だけではない。だが、涼子が反応するより、由樹のほうが早かった。というより、まるで教師が言い出すのを待っていたかのような周到さといってもいい。
(また・・・。)
涼子の美しい額に筋が入った。
そして、それは武士も同じだった。由樹が二葉に関わることがないように祈っているのに、二葉の不幸が由樹をますます引き付けていく。そんな二人の心中など予想だにせず、由樹は教室を出ていった。
全館空調の校内は、廊下でも暖かい。
人気の全く無い廊下とは、こんなにも広いものなのか。遠くの突き当りが、まるで異次元に繋がっているかのような錯覚さえおこる。まるで、見知らぬ場所に立っているかのようだ。
とりあえず水飲み場の方向へと足早に向かう。だが、想像通り二葉の姿などない。授業中の校内が、こんなにも寂しいものだとは思わなかった。しかも、冬の曇り日はどこも薄暗くて、不気味ささえ漂う。由樹には、二葉がこの広大な敷地のどこかに吸い込まれてしまったのではと思った。そんな非現実的な考えが浮かぶほど、やはり二葉は浮世離れした存在として捕らえられる。
あの二葉が保健室へ行くとも思えない。だからといって、他に行く当てなどあるのか。
「保科君」
突然後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと、そこには涼子が立っていた。走ったらしく、少し息が上がっている。
「遠野さん、いた?」
「・・・いや。」
「だと思った。保科君が入れないような場所に遠野さんがいたとしたら絶対見つけられないんじゃないかと思って私も来ちゃった。教室へ戻ってて。あとは私が探すから。」
何も言えずにいる由樹に、涼子は諭すように付け加えた。
「更衣室とか、トイレとかじゃ、さすがに無理でしょ?」
「別のところで倒れてたら、英も一人で困るだろ?俺も探すよ。」
涼子は、自分の下心を見透かされたような不快な気持ちになった。そう、これ以上、由樹と二葉が近づくのがたまらなくて来たのだ。だが、それを由樹が察することは許せない。
「・・・じゃあ、一緒に探しましょう?手分けすると行き違いになりそうだし。」
「そうだな。」
とりあえず、由樹が肯定してくれたのは救いだった。
いつからだろう。こうして、他人の顔色を伺い、その言動に気を遣うようになったのは。涼子が思うように話し、行動しても誰一人反論することなどなかったし、思い通りにもなった。なのに。
半歩前を小走りに進む由樹の背は、完全に他人だ。その背が、涼子を拒絶している。
嫌われていないだけいい、なんていう友達の負け犬の遠吠えをいつも叱咤していたのは自分だ。それが今は、その陳腐なセリフが脳裏に何度も浮かんでいる。
いくら多くの女子が、涼子をライバルになることを避けて由樹を諦めたとしても、由樹が自分を好きでないのなら、何の意味もないのだ。
今、よくわかる。
由樹の自分に対する態度は、決して好意を持っている相手に対するものではない。由樹が自分を好きになることは、ないだろう。多分、一生。どんなに思っても、叶わない相手というのがやはりいるのだ。
由樹は、二葉を女としてみているというわけではないのだろう。涼子の知らないところで何かがあり、それが由樹を突き動かしているだけなのだろう。
しかし。
(それはいつか、恋になる。)
いくら女子にもてはやされようと、冷静に制していた由樹。唯一近寄れたのが同じクラス委員の涼子だけだった。涼子は自分に自信があったし、いつかは絶対両思いになれると信じていた。だが、それは思い上がりだった。
ただの同情だけでこんなに必死になるわけがない。こんなに意識するわけがない。当の由樹は、まったく気付いていないのだろうが。
二人は、中学棟も含め二十分以上探し回った。段々身体が火照り、熱いくらいになってきた。だが、見つからない。念のため保健室も行ったが、案の定二葉はいなかった。
「まさか、帰ったってことはないわよね?」
「教室に戻っているかもしれないな。」
「もう授業終わるし、いったん戻りましょうか。」
チャイムが鳴り、途端に学校中が湧き出した。どこに人がこんなに潜んでいたのかと思うほどだ。
教室に戻ると、数学の教師が二人を待っていた。
「ご苦労だったな。遠野、十分くらい前に戻ってきたんだよ。悪かった。」
そう言い、配布物のプリントを由樹たちに渡した。
「宿題だ。二人なら、わけなく解けると思うが、もし質問があれば、いつでも来なさい。」
「ありがとうございます。」
由樹は、二葉の方を見やった。二葉は、上腕を抱えてうつむき加減に座っている。
「遠野さん。」
近づいたのは、涼子の方が先だった。
「もう、具合はいいの?」
当然、二葉は反応しない。だが、今の涼子はそんなことぐらいで傷ついたり、怯んだりはもうしない。女王様然としていた自分の思い上がりを知ったからだ。
「保科君、心配してずっと探していたのよ?話したくなければ頷くだけでもいいから、答えてくれない?咳は止まった?」
だが、二葉は頑なだ。宙を睨み付けるかのような目を、僅かにひそめただけだ。
「あのね、人に心配かけた以上は、やっぱり答えるべきことっていうのがあると思うのよ。」
少し強い口調になったところへ、涼子の友達が近づいてきた。
「ほうっておきなさいよ、涼子が構う価値なんかないんだから。」
「そうよ。一人がいいっていうんだから、放っておけばいいのよ。」
そこへ由樹が近づこうとした。が、それを武士が制した。
「もう、やめておけ。」
「?」
「もう構うな。由樹が何に同情してるのかしらないけど、遠野はそれを望んでいないんだから。」
二葉の唇が、ぎゅっと引き締められた。
何か言いたいのに、言えない理由があるのではないかと、由樹には思える。二葉の震える唇が開かないかと、期待する。
固唾を飲み込んで見守る。
だが、二葉は動かない。目元を歪めて、なお沈黙を守り続けている。
担任に一度は聞いた。二葉に、口がきけない理由があるのかと。
だが、ないと言う。
転入試験の面接では、普通に話していたという。だが、転校を繰り返していることから、やはり対人的に何かあるのだろうとは言っていた。
このままでいいとは思わない。だが、由樹にはどうにもできない。
もしかすると、どうにかしようと思うことは、間違ってはいないか。二葉の人生に、そこまで関わる資格があるのか。
違う。
他人を哀れむという感情こそが、思い上がりではないだろうか。
優しくなれといった。大人はみな。
心底から湧き上がる感情を、間違っていると思ったことなどなかった。それは、良心だと信じきっていた。
だが、今はわからない。
二葉が何を考え、何に苦しんでいるのか。
明らかな虐待。異常な環境。そこから救い出す力など、自分にはあるのか?
(ないのなら、下手に関わるなと言いたいか?)
自問自答の末、由樹は自分へそう言い放った。
その後、二葉は二度と咳をしなかった。だが、それは具合が良くなったためでは断じてない。顔を真っ赤にして、体を震わせて耐えていたのだ。
それに気付いたのは、由樹、武士、そして涼子。
二葉なりの気遣いなのだろう。二葉なりに悪かったと思っているのだろう。
もし、ここで水のペットボトルを渡しても、のど飴を渡しても、絶対にはねつけるのだろう。だが、二葉をただの変わり者で片付けてはいけない気がする。親切が、人によっては親切にならないこともあるのではないか。
武士は知っている。二葉が、このクラスの誰よりもまじめに掃除をすることを。二葉をせせら笑う女子や、成績だけを気にしているような男子よりも、ずっと立派だ。
涼子は、由樹があれだけ二葉に関心を持つ理由がどうしても知りたいと思っている。才色兼備の涼子になくて、二葉にあるものとは何なのか。それがわかれば、涼子自身、今までの高慢さから一つ抜け出せるのではないかと思っている。
由樹は、二葉に熱がなければいいなと思っている。咳を我慢なんかしてほしくない。それがどんなに辛いかわかっているし、身体にいいわけもない。
昼休み、二葉の姿はあっという間に教室から消えていた。鞄はあるから、帰ったわけではないだろう。
咳をこらえるのも限界だったのではないか。
武士との昼食を心あらずの状態で済ませた由樹は、早々に席をたった。武士はその様子に何か言おうと思ったが、思いとどまり、黙って見送ることにした。
由樹は、二葉を探した。だが、人目を気にせず二葉が思い切り咳をすることができる場所など、ひとつしか思い当たらない。
屋上だ。
普段は立ち入り禁止となっているが、出ようと思えば出られてしまう。もしかしたら、さっきの授業中も、屋上だったのではないか。とりあえず生徒があまり使わない階段を上ってみた。
屋上への扉へと階段を上り詰めていくほどに、外の冷気が身に染みてくる。
アルミ製のドアには、鍵がかかっていない。誰かが開けた証拠だ。由樹は、それで確信した。二葉はここにいる。
曇り空は、風を呼んでいる。
制服だけでは、あっという間に腕に鳥肌が立つ寒さだ。
灰色の屋上は、空調機や給水タンク、配管などで足場が限られている。もともと、人が出入りするための場所として作られているわけではないからだ。足元に気をつけねば、すぐ何かにつまずきそうだ。
と、そのとき。
激しい咳が耳に入った。
急いで多くの障害物を潜り抜け、視界が開けた先に、黒い髪と、青いスカートが風に絡まれているのが見えた。
脳にまで響くのではないかというほど、激しい咳き込み方で、二葉はコンクリートの地面に半分突っ伏しているようだった。このままでは、吐き気も伴う恐れがある。
由樹は二葉のもとにかけより、まず、揺れる身体を支えてやった。口元を押さえていた二葉の手が、由樹を突き放そうと宙を切った。だが、それは虚しく空回りしただけだ。
咳がおさまった一瞬を狙って、由樹は持ってきたスポーツドリンクのペットボトルを二葉の口元にあてがった。
呼吸の荒い二葉の唇には、液体がうまく入っていかない。それとも飲もうという気持ちがないからか。
「午後もあんな思いして、咳をこらえてるつもりか?そこまでする理由がどこにある?」
由樹を正視した二葉の目は赤く、涙がたまっていた。具合が悪い証拠だ。
「何も考えないで、飲めよ。絶対身体が欲しがっているはずだ。何も考えないで、身体の思うとおりにさせてやれよ。」
強い口調で、由樹は二葉を説得しようとした。
一体、何だというのだ。
まるで、己にいつも苦しみを与え、幸せや喜びの類の一切を、禁じているかのようだ。まさか、腕の痣も自分で作っているのか?
やがて二葉は喉を潤す唾さえ失い、由樹からペットボトルを受け取った。
貪るように一息に飲み干さんばかりの勢いで、その姿はまさに貧困の地の児童のようだった。高級ウール地の洋服を身にまとっている少女とはあまりにもミスマッチで現実味がない絵なのに、吹き荒ぶ風は、現実に二人のまわりを取り囲み、身体を縮込ませる。
「これ以上こんな寒いところにいたら、もっとひどくなるぜ。保健室行って寝てろよ。」
二葉は、首を振った。
「何で?腕のこと、知られたくないからか?」
途端、二葉の身体がびくっと震えた。
「安心しろよ。俺は絶対誰にも言わない。保健室行ったって、別に服脱げとか言われないから、大丈夫だよ。」
しかし、もう駄目だった。
二葉は、たちまちその場から立ち去ってしまった。
「遠野!」
痣のことには、触れてはいけなかったのだ。
由樹には、二葉が人を恐れて牙をむく小動物のように思えた。少し慣れても、すぐにまた離れていく。
意識を喪失して暫らくぼんやりしていたが、やがてその場に空になったはずのペットボトルはないことに気付いた。二葉は、持ったまま立ち去ったのだ。
念のため、教室までの道のりを気をつけて見てみたが、捨てられたような形跡はない。
良かった、と思う。
由樹のことを怒っているなら、その辺に投げ捨ててあってもよさそうなものだからだ。
(とりあえず、これはこれで良かったんだよな。)
いけないことはしなかったと、言い切れる。
教室には、二葉の姿があった。何事もなかったかのように、席に着いている。
次の時間も、その次の時間も、やはり二葉は咳をこらえていた。だが、気のせいか、その回数は少なくなったように由樹には思えた。飲み物を与えた自分の行動が間違っていなかったと、裏打ちしたいだけかもしれないが・・・。
放課後、部活を終え、荷物を取りに教室に戻った由樹は机の中が空であることを確かめようとのぞいた。と、その中に空のペットボトルが入っているのが見えた。
思わず、誰かが嫌がらせでごみを入れたのかと思った。
しかし、取り出してみて、心臓が爆発するほどに驚いた。
それは、二葉に渡したもので、その証拠にボトルの側面に黒いマジックで文字がかかれていたからだ。
『ありがとう』
走り書きは、間違いなく二葉のものだ。他の誰であるはずがない。
胸の鼓動が、喉まで波打っている。
二葉が、自分の行為を認めてくれたのだ。それは、由樹にとって途轍もなく嬉しいことだった。
(俺にも、できることはあるんじゃないだろうか。)
そんな風に思えてきた。
だが、うぬぼれはいけない。すぐに底へと突き落とされるはずだからだ。
由樹はペットボトルを握り締め、スクールバッグの中にしまった。
捨てることが、もったいなかった。
人への親切が当たり前に受け止められる人生を歩んできた由樹には、それは初めて味わう感情だった。
深い吐息をもらした唇が、僅かに震えていた。
郊外の駅から徒歩圏内にあるマンションの一室に、遠野二葉は住んでいる。二葉は鍵を持っていない。チャイムを鳴らすと、同居している叔母の美鈴が開けてくれることになっている。
だが、今日はその気配がない。
二葉は二度目のチャイムを鳴らす気力もなく、いつもどおり屋内非常階段の途中に座り込んだ。こんなことは、めずらしくもない。叔母は保護者というより監視者だ。家への出入りさえ、自由になどさせはしない。そして、自分の居場所はいつだって見張られている。この、耳に埋め込まれた赤いピアス型発信機によって。
冷たいスチールの手すりにこめかみを預けて、二葉は眼を閉じた。
嘉納という生徒の言うとおり、二葉は遺伝子工学の権威として名高い遠野基博士の娘だ。
だが、本当は娘というより、「作品」と言ったほうが正しい。基が己の精子と金に困って自らを実験台として提供した名も知らぬ女との間に作り出した、人工人間だからだ。幾多の遺伝子操作で、完璧な人間を作りたかったらしい。
(何度考えても笑わせてくれる。大金と労力を投じてできたのが、私だなんて・・・。)
二葉にとって学校は現実離れしている、幸せな場所だった。幸せに気付かないほど幸せな若者が、日々を贅沢に食い潰している。中には、基が求めた「完璧」に近い人間も存在する。たとえば、保科由樹。英涼子。そして、嘉納。基は、そういう自然の産物を欲している。自分の手で作り出すために、実験台にして研究したいという。
二葉は、そんな実験台を探し出すために学期ごとに名門校を渡り歩いているのだ。
見つけ出した生徒は、同居する叔母が拉致し、研究所へ連れて行く。実験台とは、生きている人間からデータを取るだけではない。ほどなく切り刻まれ、肉塊からミクロへとその姿を変えていく。世間では、行方不明となり、その死体は決して見つかるわけもなく、迷宮入りするのだ。
転校を繰り返しても怪しまれないように、学校ではヒト嫌いを演じる。必ず孤立し、いつ不登校になってもおかしくない状況になるからだ。ターゲットを見つけたら叔母に報告し、時期を見て学校へ行かなくなる。そして、二葉との関係が怪しまれなくなる一ヶ月ほど後、そのターゲットは突然この下界から姿を消す。
犯罪という認識は、基にも、美鈴にもない。「偉大な研究」のためなら、犠牲は当たり前だという。むしろ、名誉だなんてほざくこともある。無論、現実の捜査から逃れる万全の対策はとっているが、それは研究に理解のない無能な人間のための後始末だという。
小学校六年のとき、二葉の運命は決まった。
それまでの二葉は平凡な少女だった。普通の家庭で、普通に暮らしていた。だが、育ててくれた夫婦は養親で、本当の父と母は外国で働いてるということは物心ついた頃からきいていた。そして、中学に入る頃には両親が迎えに来るからといわれていた。養父は優しく、きちんとした倫理観にもとづいて正しい教育を行う人格者だった。
迎えが来たのは、突然だった。
背の高い、痩せた女が二葉を引き取りに現れた。真っ赤なフェラーリを乗り回す、派手な遊び人に見えた。これが母なのかと思ったが、女は「叔母」と名乗った。
二葉は山林の奥深くにある、窓のほとんどない四角い灰色の建物に連れて行かれ、その中で信じられないものを見た。
そこには、ついさっきまで学校で仲良く遊んでいた友達が、透明なカプセルの中で眠っていたのだ。
痩せた女、すなわち美鈴は二葉の髪をつかんで、そのカプセルの前に跪かせた。
「よくみておきなさい。これがお前の使命になるのだから。」
クラスメイトのセシリアは欧米系のハーフで、可愛らしいばかりか頭がよく、優しかった。二葉は彼女が大好きで、憧れていた。それが!
「このカプセルはね、肉体をそのまま保存するための装置なの。お友達にはこのまま、当分この中で眠っていてもらうわ。」
二葉は美鈴につかみかかった。
「どうなるの?セシリアは、いつここから出られるの?」
美鈴はうっとうしさに、二葉を突き飛ばした。
「私に触らないでよ、汚らわしい!こんな出来損ないの人工児と血が繋がってるなんておぞましくてしょうがないんだから!」
(出来損ないの・・・ジンコウジ?)
二葉には、美鈴の言ってることがよくわからなかった。だが、美鈴がいかに自分を嫌いなのかだけは理解できた。
「この子はね、選ばれたのよ。後世まで保存する価値があるってね。名誉でしょう?」
「・・・?」
「この子は、私たちが生きている間は目覚めないわ。この若さのまま、私と兄の偉業の証として後世に華々しくよみがえるのよ。」
この女は何を言っているのだろう。何に眼を輝かせているのだろう。
幼い二葉にわかるのは、ただひとつ。セシリアは、もう二度と自分の目の前で笑ってくれないということ。
「二葉、お前の役目は、第二、第三のセシリアを見つけてくることよ。」
つまり、実験台となりうる優秀な人材を見つけてこいということだった。
「さからったらどうなるかも、ついでだから言っておきましょうか?」
悪魔のような微笑で、美鈴は棚から小瓶をとりだした。
「なんだかわかる?」
眼をひそめてよく見ると、赤黒い見慣れぬ物体が透明の液体の中に沈んでいる。
「これはね、人体の一部。さからえば、お前もこうなるのよ。」
「・・・え・・・・。」
「だってお前はこの子みたいに後世に残す価値などないもの。まあ、切り刻んでこうしてサンプルになるくらいの使い道しかないからねえ。」
これは、夢ではないのか。
何かの小説の影響を受けて、長い、悪い夢を見ているのではないのか。
そして、今では学校での生活のほうが夢のようだ。転校のたび夢を見、そしてターゲットを美鈴に告げると、一気に現実へ引き戻される。年を経ることに理解してきた自分の現実。
「ああ、それから誰かにいいつけたり、逆らったらセシリアを殺すから。」
「・・・!」
「簡単よ。コードひとつ抜くだけでいいんだから。」
その一言が、二葉を完全に支配した。
別に、いつ瓶詰めサンプルになってもいい。しかし、チャンスがあるのならセシリアを救い出したい。あのカプセルを開け、再びこの世に生きて欲しい。
セシリアの両親が、狂ったように娘を探す姿をテレビで見た。その後は、一切のメディアから遮断された生活を強いられているため、どうなったかはわからない。だが、親のない環境で育った二葉には、親子がどういうものなのかを少し感じることができた。友達の自分がこんなにつらいのだから、きっと両親はもっとつらいのだろう。
そんな思いを、これから何組もの両親に味わわせるのが自分の使命だというのか。
そんな思いを抱きながら、実行してきた。
(私は、何人もの命を、セシリアと私の命の引き換えにしているんだ。)
小六までの日常が、二葉の常識を支えていた。それが、美鈴の気を逆なですることだとわかってからも。
美鈴は、二葉を道具というより、奴隷のように扱う。気に入らないことがあれば容赦なく棒でたたいたり、物を投げつけたりする。
二葉は、自分の腕を制服の上から凝視した。
この学校の制服は、今までのどの制服よりも美しい。淡いクリーム色に青いサテンのリボン。非実用的すぎて、掃除をするときに汚すことを躊躇してしまい、由樹に痣を見られてしまった。
(それが、間違いだった・・・。)
ひざを抱えた腕の中に額を埋める。どんなおせっかい焼きでも、三日もたてば、二葉をかまわなくなる。なのに、今回はうまくいかない。初日、あんなに突っぱねた涼子でさえ、いまだに声をかけてくる。まだ、自分の態度が甘いのだろうか。少なくとも、自分の腕など見せたために由樹が自分を気にかけていることは確かだ。今日だって、思わずペットボトルを受け取り、お礼まで書いてしまった。
そうせずに、いられなかったのだ。
二葉には、コートや傘といったものは与えられていない。制服以外の服もない。どんなに寒くても、どんなにずぶ濡れになろうと、所詮「道具」には気にかける価値もないということなのだろう。
だから雪の日。
差し出された傘に、二葉の心は激しく揺さぶられた。そんな心遣いを、何年かぶりにもらったからだ。
由樹の同情は、いつもなぜか切なかった。
由樹は申し分のないターゲットになる。美鈴は喜ぶだろう。だが、それを躊躇する自分がいる。
涼子も同様だ。
涼子は、セシリアに似ている。美人なだけでなく、頭が良く、しかも優しい。だから、ターゲットにできない。
セシリアが身に着けていたものは、証拠隠しにすべて燃やされた。だが、緑色の髪留めだけが、焦げてはいたが形を留めていた。それを拾い上げ、今も肌身離さず持っている。
ポケットを探り、それを手のひらにのせて見つめた。
辛いときは、これを見てセシリアを思い出す。
意思がくじけそうになったときも、これで自分を奮い立たせる。セシリアを救うために、まだ死ねない。そして、そのためには生贄が必要だ。
そろそろターゲットを絞って美鈴に報告すべき時期かもしれない。三学期はとても短いし、のんびりもしていられない。
午後八時をすぎ、再び玄関扉の前まで行った。
こんな家に帰る価値がどこにあるのか。別に、帰りたいわけではない。しかし、自分の居場所はここしかない。それだけだ。
金も殆ど与えられず、稼ぐことも許されない。
逃げても行くあてなどない
発信機つきのピアスがある限り、所詮は美鈴の道具なのだ。
自由など皆無なのだ。
チャイムを鳴らす。が、反応はない。美鈴はまだ帰ってないのか。
こんなことはめずらしくない。研究が煮詰まれば、美鈴は何日でも帰らない。例えその間に二葉がどうなろうと、気にもかけない。身体の居場所さえわかれば、生死は問わないのだ。
乾いた咳が喉の痛みに変わってきた。食欲があるわけではないが、昼食をとっていないため、流石に何か食べたいと思った。
空腹を満たすため、駅前のファーストフード店に入った。一番安いハンバーガー一つ注文し、店の片隅でゆっくりと食べる。あと何日食い繋げばよいかわからない限り、贅沢はできない。外は手足が悴む寒さだ。ここなら寒さを少しは防げる。
その様子を偶然目にした者がいた。
武士だ。
武士は、塾帰りで遅くなっていた。共働きの両親は夜遅いため、一人、同じようにファーストフードで夕食を済ませていたのだ。見覚えのある制服に驚いたが、それが二葉であることに、更に驚いた。二葉は、こんな所と無縁だと思っていたからだ。しかも、座って食べているのは一番安いバーガー一つ。思わず自分の食べているものが豪華に見えて気まずくなった。デザートのプリンまであることに、罪悪感さえ生まれる。それほどまでに、二葉が惨めに見えたのだ。
しかも、二葉は風邪をひいているはずだ。もっと栄養をとって、早くベッドに入るべきではないのか。
武士は散々悩み、迷った挙句、自分のトレイを持って立ち上がった。
「こんばんは。遠野さん。」
あまりに突然のことで、二葉はとびあがるほど驚いた。まさか、こんなところでクラスメイトに会うとは思っていなかったからだ。
「掃除の班が一緒の橘。わかる?」
二葉は、自分の食事の惨めさに恥ずかしさで顔から火が出そうだった。橘武士が由樹の親友だと知っている。いつも一緒で、信頼しあっているのがわかる。
「返事はいいよ。俺、すぐ行くから。ただ」
武士はプリンとプラスチックのスプーンを無造作につかみ、二葉の前に置いた。
「セットでついてきたんだけど、俺、甘いもの食べられないんだ。よければ貰って。じゃ、また来週。」
失礼かな、とも思ったが、由樹があれだけ固執する二葉と話すチャンスが欲しかったし、二葉の食事がどうしても気の毒に見えたからというのもある。
二葉の拒絶が怖くて、早々に店を出た。二葉はどうするだろうか。そのまま捨ててしまうだろうか。気を悪くしたのではないか。
駅前のロータリーに目的のバスが来たため、武士はそれに乗り込んだ。もう、店の中は見えない。
二葉は、武士が自分を哀れんだのだろうと思った。見られたくないところを見られただけでも恥ずかしい。甘いものが苦手、なんて見え透いたたてまえだ。
武士は、親切のつもりだったのだろう。何の計算もない、素直な優しさなのだろう。そして、それは由樹も同じなのだろう。
こういうことがわからないくらい、冷酷になりたい。
小六までの平和な環境が、骨の髄まで染み込んで二葉を支配する。人を邪険にするなと。どんなものでも大切にしろと。それを身体と心で覚えてきた。だから、武士の親切を投げ捨てることなどできない。
プリンをかばんにしまい、店を出た。
火照る顔に、冷たい風が当たる。
マンションに戻っても、扉は開かなかった。いつもどおり、人目につかない非常階段に座り、プリンを取り出した。空腹が満たしきれていないため、喉から手が出るほど欲しい。だが、惨めだ。自分が満たされているときに貰ったなら素直に喜べるのに、飢えているときに貰うと、惨めでしかない。
カップのふたを指でつまむと、涙が溢れた。こんな贅沢な服を着ている自分が飢えているなど、誰が思うだろう。家にも入れず、階段で野宿するなど、誰が想像するだろう。そう思うと、自分があまりにも可哀想に思えて情けなくなった。
武士と会わなければ、こんな気持ちにならなかった。厳しい目で、冷たい心で、踊り場に身体を横たえることを厭わなかったはずだ。
人の優しさは、自分を駄目にする。
罪を犯し続ける自分に、優しくなどしてはいけない。そんな勿体無いことをしてはいけない。
一つのプリンを抱えて、二葉は肩を震わせて泣いた。声を押し殺して、唇を噛んで泣いた。
傷なんか痛くない。
いくら殴られても、心はもう反応しない。
心が痛むのは、人の優しさに触れたとき。
泣きたくなるのは、自分の罪深さを後悔するとき。
セシリアのため。
そんなのはきっと、いいわけだ。本当は、自分が生きていたいからだけだ。アルコール漬けのサンプルになるのが嫌なだけなのだ。
(私は、いったい何なのだろう。罪を犯すための道具・・・。そのために作られた道具。)
学校で、友達をつくりたい。思い切り勉強して、部活もしたい。そう強く願った時期もあった。それらを面倒だとか、うざいとか思う若者は、幸せが何なのか知らないのだ。こんな幸せな場所があるだろうか。こんなに美しい時代が、あるだろうか。
プリンは、涙の味がした。
そして、忘れられない甘さだった。
懐かしい幸せを、思い出させる味だった。
週が明けた。
その日、駅には先客がいた。武士だ。いつもは気付かなかったが、学校に間に合う電車の時刻などたかが知れている。意識すれば会う可能性のほうが高くなる。
武士は、何となく二葉と顔をあわせるのが気まずかった。だが、由樹以上の関わりを持ったことに、言い知れぬ優越感が気分を良くしている。
二葉は武士に気付いたが、一瞥しただけで改札を抜けた。いつもの電車は間もなくやってくる。乗り込んだところに、武士も続いた。
駅を経るごとに、同じ学校に通う生徒は増えていく。二葉は自分と関わりたくないのだろうと思って武士は背を向け、偶然そばに立っている風を装った。
ラッシュは増し、自然と二葉との距離は離れていく。武士はいつもながらこの混雑には辟易してくる。幸い頭ひとつ分突き出ているため、息苦しくはない。だが、女性はみな、男の背や胸に埋もれてきついだろうなと想像する。二葉とて、例外でない。
まもなく目的の駅につく頃、二葉の隣にも同じ制服が並ぶのが見えた。赤いサテンのリボン。一年生だ。が、彼女の様子は少し妙だった。懸命に身体をよじったり、その場から離れようとしているのだ。だが、鞄を持ち替えることさえできないような混雑で、女生徒は成す術も無い。武士は、一人の男が彼女の背にはりつくように立っているのを見て、はっとなった。
痴漢だ。
だが、武士も身動きができないし、第一、男が何かしているかどうかは見えない。間違いかもしれないと思うと、下手に声をあげるのも憚られる。
と、そのとき。
二葉の肩と腕が、女生徒と男の間に割り込むように入り込んだ。後ろの男は、そのまま動かないが、二葉が女生徒の背に手をまわしたことで、行為の抑止となったことは明らかだ。まもなく学校の最寄駅に着き、武士も二葉らの後から下車した。混雑のため降りるのが精一杯で、痴漢らしき男を見ることも睨むこともできなかった。
ホームでは、二葉が女生徒を支えるようにして、待合所のベンチに腰掛けている。女生徒は俯いて泣いているように見える。
「大丈夫か?」
武士が声をかけると、二葉は鞄から財布を取り出した。
「悪いけど、温かい飲み物を買ってきてくれる?」
「わかった。」
近くの自販機で何にしようか迷った瞬間、武士は雷に打たれたかのようにビクッとした。
二葉は今、口をきかなかったか?
学校では何があろうと口をきかず、沈黙を守った彼女が、今、確かにしゃべった。
二葉が託した黒い折りたたみ財布を開け、武士は眼を疑った。札はおろか、百円玉が四枚しか入っていない。
ふと、この前の夜を思い出した。一番安いバーガー一つを店の片隅で食べていた二葉。この財布の中身も、偶然ではないのだろう。お小遣いがピンチ、なんて状況もピンとこない。
武士は自分の財布を出し、ホットのレモンティーを買った。とても、二葉の財布から金を出す気にはなれなかったからだ。
財布とともに、飲み物を二葉に手渡す。女生徒は温かい缶を手にすると、さらに肩を震わせはじめた。
「・・・誰か呼ぶ?」
すると、女生徒は激しく首を振った。二葉は彼女の肩をさすりながら武士の方を見た。
「彼女が落ち着くまで、もう少しここにいるわ。」
「俺に出来ることはある?」
「いいえ、大丈夫。」
「じゃあ、学校に遅刻の連絡をしておくよ。みんな、心配するし。」
「ええ。・・・あなた、名前は?」
女生徒は、震える声で小さく答えた。
「一Aの嘉納・・。」
武士は、思わず唇を噛んだ。よりによって、あの嫌味な嘉納の妹とは。
しかし、去ろうとする武士を、二葉は呼び止めた。
「橘君。」
ちゃんと、自分を認識しているのではないか。なら、初めから無視などしないでほしい。
二葉は武士の下へ小走りに近寄った。
「彼女のこと、・・・見てた?」
「電車で?・・・確信持てなかったけど、やっぱり痴漢?」
「ええ。私も気付くの遅くて。」
「混んでて、俺なんか立ってるだけで精一杯だった。遠野は・・・えらいよ。」
「学校には言わないでほしいの。彼女、わかるでしょ?強気で痴漢をつかまえられるタイプじゃないわ。例え私が痴漢の手をつかまえたって、あれでは無理よ。私がかわりに訴えるわけにいかないし。誰にも知られたくないんじゃないかな。」
「わかった。遅刻の理由は、『具合が悪くて駅で休んでる』ってことにしておく。」
「お願い。」
二葉がこんなに普通に話すなんて、不思議な気持ちだ。ここにいる二葉は、間違いなく今朝までの人を寄せ付けない二葉だ。なのに、今はまるで別人のようだ。
武士の心は弾んだ。はやく由樹にこのことを知らせてやりたいと思った。二葉はいい奴で、きっと今までのことも本心でやっていたのではないと、教えてあげたかった。由樹は喜ぶはずだ。
ただ。
気になるのは、助けた女生徒が嘉納の妹だったこと。妹がいて、可愛がってるという噂をきいたことがあった。嘉納がどんな反応を見せるか、まったく予測がつかない。
駅を何度も振り返りながら、武士はバスに乗った。そして、再び二葉が口を開いてくれることを強く願った。
嘉納の妹は三十分ほどで落ち着きをとり戻し、二葉とともに学校へ向かった。
とにかく痴漢に遭ったということを誰にも知られたくないと繰り返した。その気持ちは二葉にもわかる。男の手をつかんで、公衆の面前で「痴漢だ」と大声をあげる度胸は二葉にもないし、羞恥心のほうが先にたつ。
「私も、さっきの彼も絶対誰にも言わないから安心して。」
「・・・あの人、お知り合いですか。」
「ええ。・・・信頼していいと思う。」
あの由樹の親友で、心配りのできる男だ。もし見込み違いだとしたら、武士をターゲットにしてもいい。それくらいの自信がある。
「迷惑かけて、すみませんでした。いつもは兄と一緒で、こんなことなかったんですけど。」
二葉は、その言葉でこの女生徒があの嘉納の妹だということを確信した。二葉は名前をしつこく尋ねられたが、やんわりと断った。どうせいつかはばれるのだろうが、今である必要はない。
(私、何やってんだろ。)
成り行きとはいえ、自分の使命とかけ離れたことをしてしまった。もう少しで不登校になろうとしていたのに、武士と口まできいてしまった。
このことを、由樹が知るだろうか。
知るだろう。武士は由樹に話すだろう。
知られたくない。
自分のこういう姿を、由樹に知られたくない。
心を、探られたくない。
学校に着いた二葉らを昇降口で出迎えたのは嘉納だった。
武士の話が担任から嘉納に伝わったのだ。授業中だというのに、ずっとこの風が通る中待っていたというのか。
嘉納は、妹が二葉と一緒だということに不安を隠せなかったのだ。
「茉莉!」
「・・お兄ちゃん。」
嘉納は、二葉から引き離すように、妹の肩を抱いた。
「具合が悪いって?」
「・・・もう平気。授業でるから。」
「無理しなくていいよ。家に電話して迎えに来てもらおうか。」
「本当に平気。・・・大丈夫だから。」
必死で言い訳をする茉莉が、救いを求めるように二葉の方を見やった。
嘉納は二葉を一瞥したが、すぐに目をそらせた。
「あのね、あの方に介抱していただいたの。お兄ちゃんと同じ学年でしょ?」
嘉納は何と返事をしていいかわからない。まさか礼など言うこともできはしない。
二葉とて、嘉納と口を利く気など到底なく、そのまま踵を返した。もう、茉莉を心配することなどない。茉莉が背に向けて何か言っているが、振り向くことはしなかった。今後、茉莉と顔をあわせても口を開くつもりはないのだから、下手に関わってはならない。そうでなければ、嘉納自身いらぬ心配をするだろう。
教室では、クラス中がすべてを承知済みといった雰囲気で、授業担当教師も二葉を優しく迎え入れた。
居心地が悪い。
いつも針の筵みたいな状況を自ら招き、それに慣れきっていた。だから、こんな暖かな場所はむずがゆい。
冷たい光を宿した眼差しを作り、席に着いた。
武士が大げさにいいふらしたとは思っていない。ただ、担任や授業担当に話していた内容が口から口へと伝わっただけなのだろう。しかも、普段絶対に口を開かなかった謎の転校生の思わぬ快進撃に興味津々だったと推測できる。
武士は、痴漢の件以外はすべて由樹に報告していた。ただ、嬉しかったからだ。由樹の親切をことごとく散らしていたが、それは二葉の本心ではなく、何らかの事情があってのことだと確信が持てたからだ。
だが、由樹はそれをネタに二葉に近づくことはなかった。というより、近づく理由がない。人を寄せ付けない少女が、本当は温かな心を持っていた。喜ばしいことかもしれないが、それは、由樹を動かす原動力にはならない。
なぜ、こんなに心が冷めているのか由樹自身、不思議だった。嬉嬉とする武士の表情が、ますます由樹を冷静にさせていく。
複雑なインテグラルの公式をノートに書き写しながら、自己分析をしてみる。
所詮、自分より不幸な人間に妙に同情を寄せてしまう、その実、人の不幸を密やかな愉しみにしている人間だったのか。
ただ、優しい自分に酔っていたかっただけなのか。
そうだ。
誰にも心を開かない少女が、自分にだけ心を開いたから、価値があり、唇が震えるほど嬉しかったのだ。誰にでも優しい少女の優しさなど、別にありがたくはない。
だから、涼子には全く反応しなかったのだ。
そこまで考えて、由樹は苦笑した。
やっと、二葉に固執する理由がわかったからだ。
(そうだ、これは同情でも愛情でもなんでもない。ただの優越感だったんだ。)
同情とか愛情とかでくくられるのが嫌だった。そんな垢にまみれた言葉で自分の気持ちを語られるのが嫌だった。それ以上の高尚なものとして捕らえたかったのだ。
(思い上がっていたのは俺のほうか・・。)
がっかりした。
うなだれた先に見えた己の本性がたまらなかった。
黒板の前に立つ二葉が、積分を解いている。
なぜか、その姿が今日は勇壮に見える。
(本当は、俺の同情なんかいらない、優等生だったんじゃないか。)
謎の転校生を気取っても、その化けの皮がはがれたのだ。
その日の放課後は、由樹たちが教室掃除だった。さりげなく雑巾がけを避ける女子の群れに、涼子もいた。頼まれれば嫌とは言わない。だが、自ら選択権を行使している。
汚れたビニルコーティングの床にひざをつき、由樹は渾身の力をこめて、見せつけるように雑巾がけをした。
なぜか悔しかったのだ。
二葉の善行が、自分を裏切ったように思う。二葉は決して特別なんかじゃなく、雑巾がけを真面目にやることなんか自分にも当たり前にできることなのだと言い聞かせたかった。
由樹にはわからない。
なぜ、こんなにも腹立たしいか。
雑巾の水を取替えに行き、乱暴にバケツを水場に放る由樹を、階段掃除でやはり水を取替えに来た武士が、怪訝そうに声をかけた。
「何、いらだってるんだよ?」
「・・・別に。」
「朝からずっと不機嫌だろ?らしくない。」
由樹の目が、武士を刺すような目つきになった。
「なんだよ、らしくないって?」
武士も、さすがに尋常でないと察した。こんな由樹を初めて見たといってもいい。
「・・・いや。俺の思い違いだった。悪い。」
武士がバケツを持っていく先には、二葉がいる。また、ああして長い髪を床につけながら痣だらけの手で掃除をしているのか。
「橘!」
驚いて振り向く武士に、由樹は言った。
「ちゃんと、掃除してるのか、遠野?」
「ああ。」
「また、雑巾がけを?」
「まあな。他の女どもは要領いいから。雑巾がけが一番手がいるのに。」
「じゃあ、お前がかばってやれよ。」
「・・・?なんで。」
「口、利いたんだろ?橘にしかできないことだろうが。」
武士は、一瞬意味がよくわからなかったが、由樹が何に怒っているのか納得した気がした。
そうだ、あれほど気をかけてきた由樹にではなく、単なる掃除の班長面だけしてた武士にだけ口を利いたことが面白くないのだ。
「もう、口なんか開かないと思うよ。今朝はやむを得ずって感じだった。」
「・・・そうか?」
「あたりまえだろ。」
なだめ落ち着かせるような優しい口調で言い、武士は由樹から離れた。
由樹は神様みたいなところがあったが、やっぱり人間なんだなと思いほっとした。
だが、武士には、由樹の思惑を推し量りきることなどできはしない。由樹が心底苛立っていることなどわかりはしない。
部活でも闇雲にシュートを打つ由樹を、武士が追った。
「まだ怒ってんのか?」
「何も怒ってないよ。」
「今朝のことなら、誤解だぜ?」
「誤解?」
「遠野が俺にだけ口利いたってやつ。」
「誤解するようなことなんかないだろ。」
「じゃあ何で荒れてるんだよ?」
「荒れてないし、怒ってもいない。放っておいてくれよ!」
(荒れてるじゃん・・・。)
やはり、わからない。
冷静に自己分析してみたが、それだけではない気もする。だが、それが何なのかわからない。由樹は、自分で自分がわからない。
家に帰ると、二葉が残したペットボトルを取り出し、凝視した。
これを喜んでいた自分が馬鹿らしいと思った。
そして、その空の容器をゴミ箱に投げつけた。
少しは気が治まるかと思ったが、かえって虚しくなった。世の中のすべてを引きちぎりたいと思った。自分の一部を引きちぎりたいと思った。
(俺は変だ。遠野がいいことをしたのを、こんなにも許せない・・・!)
二葉の秘密を自分だけが知っている優越感。自分だけが二葉を救える可能性を担っているのだという思い上がり。
なにもかもが滑稽だ。
次の日。
由樹は治まらない気持ちを引きずりながら教室に入った。二葉の姿はまだない。
間もなくショートホームルームが始まろうかという時間に、二葉は教室に入った。だが、その顔を見た瞬間、クラス中が水を打ったように静まり返った。
頬が腫れている。
虫歯かとも思えるが、青あざもあるため殴られたのではと推測できる。
すぐに担任が現れたため、そのときは陰口をたたく暇がなかったが、ショートホームルームが終わるや否や、至る所で囁きが溢れた。
「見た?ひどいよね、あれ。」
「相当の力で殴らないと、ああはならねえよ。」
「親に虐待されているのかしら?」
「案外、暴力団の彼氏でもいるんじゃないの?」
昨日の一件のせいか、クラスメイトの囁きにはただの好奇心だけではない思いやりが覗く。
由樹は、この状況をほくそ笑んでいる自分に気付いた。そうだ、二葉はこうでなければならない。凡人には想像もつかない環境で人知れず苦境に喘いでいればいい。そして、それを自分だけが救い出せるのだ。
ヒーロー気取りの男は、その実サディスティックなエゴイストだ。
だが、由樹はそのことにはまだ気付いていない。ただ、他人の不幸に同調している自分が厭らしいとは思う。しかし、沸いては浮上していく胸の高まりを抑えることもできない。
武士は、一人考え込む由樹の傍にただ付き添っていた。他の連中と興味本位に話す気には到底なれないし、このことを一番気にかけているのが由樹だと思っている。由樹が動き出しそうになったら、自分がまず動かねばなるまい。間違っても由樹が二葉に公衆の面前で優しい言葉などかけてはならない。それは、二葉のダメージを大きくし、それが更に由樹を引きずり込む。
武士には、二葉は危険な存在に思えてならない。冷めた毒で由樹をじわじわと貶めていくのではないかと思うと気が気でない。真の悪党なら気が楽だ。だが、いまやそうではないから性質が悪い。
一時間目が終了すると、不意に二葉の姿が見えなくなった。由樹はつられるように席を立ち、教室前の広い廊下を見渡した。だが、二葉の姿は無い。
そのまま席に戻るのも変な気がして屋上へ向かうことにした。別に、二葉がいたからといって何をしようという当てもない。これ以上惨めな自分を知りたくもない。だが、どうしても放っておけない。
(俺は、そんなに白馬の王子を気取りたいのか?)
自問自答しながらも、身体は動いていく。
屋上は立ち入り禁止になっているため、三階から上へ上る階段は誰も立ち入らない。掃除の区域からもはずされ、ほこりだらけだ。だからこそ、二葉がいつも一人になる場所だと由樹は確信していた。
その日、二葉は屋上には出ず、階段に座り込み、紅い頬を押さえて呻いていた。
「遠野。」
二葉の息遣いが、二人の間にはっきりと響いた。由樹が近づこうとすると二葉は弾かれたように立ち上がり、その場から逃げ出そうとした。
「待てよ!」
思わず二葉の腕を強くつかみ、はっとなった。ひどい痣があったことを、思い出したからだ。
長い髪のなかから、生々しい顔の一部が覗く。
腕を放したが、二葉はそれ以上抵抗はしなかった。
「冷やしたほうがいいんじゃないのか?」
二葉は眉根をひそめたまま、首をふる。
「我慢することないだろう?保健室行けば、病院へつれていってくれる。手当てした方がいい。」
二葉は由樹の手から逃れようと激しく身をよじった。
「どうして!保健室が嫌なのか?病院が嫌なのか?」
「そうよ!」
はっとなるまで、少しの時間が必要だった。
二葉がしゃべった。
初めて、由樹に。
由樹は改めて耳を疑った。
だが、二葉自身、ここで口を開くつもりはなかった。昨日の今日で、もう二度と話すまいと固く決意していたのに。盗聴器も気になるが、この辺で徹底的に由樹の手を振りほどかなければ取り返しのつかないことになる。由樹をターゲットにするつもりがないのなら、もう絶対、自分に関わらせてはいけない。
「私がそんなに憐れに見える?こんな痣が、そんなに同情に値するの?」
二葉は、腕をまくり、由樹の目の前にその痣だらけの部分を突き出した。
思わず息を呑む。このあいだより、ひどくなっていないか?黒に近い紫が、この腕を蝕み、いつか腐ってしまうのではないかと思わせる。
「当たり前だろ?異常だよ、ひどすぎる!」
二葉は、眉を吊り上げた。
「あなたは、本当におめでたいわ。不幸なんて知らないで育ってきたのね。世の中にはね、比べ物にならないくらい過酷な運命を背負って生きている幼い子がたくさんいるのよ。地べたで雨風にさらされて眠り、ごみしか食べられないような子供がね。それでも彼らは同情されることなんか欲していない。自分の境遇を受け止め、生きるために運命と戦っている!」
由樹は、圧倒された。
力強い口調。強い意志。いまだかつて、こんな魂の叫びを聴いたことなどあっただろうか。
ヘドロが渦巻くような胸中に冷水が浴びせられた気がした。
「私は、自分の幸せを知っている。あなたは知らないでしょう?今ある幸せが、周りにいる沢山の人たちの努力で作り出されているなんて、考えたことも無いでしょう!」
ゆるぎない力を持つ瞳。
他の女子が絶対に持たない、芯の強さを感じる。二葉が負っているものを、由樹はまったく知らない。きっと、自分に想像もつかないような人生を歩んでいるのではないか。安っぽい同情など踏みにじりたくなるほどの過酷な日常と戦っているのではないだろうか。
二葉は救い出してくれる王子様など欲してはいない。拒絶されて当たり前ではないか。
二葉の不幸を望んだ自分を許せない。
二葉の気を引いて「特別」になろうとしていた自分を許せない。
そのとき、二葉の口から一筋の血が流れてきているのに気付いた。口の中の傷が開いたのだろう。二葉がそれを手の甲で無造作に拭き、口のまわりが赤く汚れた。
それを、見過ごせというのか。
ほうっておけというのか。
ヒーロー気取りで手を出すなというのか。
(ちがう、そんなんじゃない。)
ただ、理屈なしに心が動く。その心情を否定なんかつけないでほしい。同情とか、愛情とか、そんな言葉で片付けないで欲しい。
由樹は腕をのばすと、二葉の肩を力強く自分の下へと引き寄せた。