選択肢
【ご注意】
本作品集には、いじめ、精神疾患、希死念慮、自傷行為、暴力的描写を含む表現があります。
読者の方の心身の状態によっては、強い不安や動揺を引き起こす可能性があります。
これらの表現に不安を感じる方は、閲覧をお控えいただくよう、お願いいたします。
【一】
薄い浅葱色のカーテンがゆらりと揺れて、月の光がそっと、私の瞳の表面に反射した。
月の「声」に呼ばれた。
マンションの屋上、出来るだけ夜の月に近い場所から、真っ黒に広がる天を眺めたい気持ちになり、私はマンションの屋上まで階段を登って、一人、夜の闇を眺めていた。
そっか。
夜空は、こんなにも綺麗なものなのか。
屋上から眺めた空には雲一つなかった。
深い水のように澄み切っている。
息を吐き切ったタイミングで空をもう一度見上げる。
リン。
リン。
リン。
私の手を引くように、ポケットの中の携帯電話が鳴り始めた。
携帯電話の艶やかな画面。
そこには、同級生の「ミミカ」の名前が、白い文字で表示されていた。
ぴっ。
私は通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てる。
劈くような悲鳴と叫び声が、スピーカーから鳴り響いた。
「やめて……!」
ミミカの声は震えていた。
携帯電話の向こう側。
彼女が小刻みに、しかも、ぜいぜいと呼吸が乱れていることが、すぐに分かった。
「たすけて……お願い……」
スピーカー越しの粗末な男。
お願い。
助けて。
もう、助けて……。
ミミカは震える声で、何度も、誰かに懇願し続ける。
「マミが……。マミが私を……。私を殺そうと……している……! 次は私が殺されちゃう……!」
喉の奥から声を出すのが、精一杯なのだろう。
きっと携帯電話を持っている手も、大きく横に震えているのだろう。
ミミカの悲鳴は鳴り止まない。
殺される……。
殺される……。
ころされる……。
ころされる……!!
そして、ミミカは絶叫した。
「マミが私を……マミが私を殺そうとしているの!」
マミもまた、私の同級生だった。
「だった」という過去形を使うのは、彼女はもう、既に、同級生じゃなくなったから。
マミは、もうこの世にはいない。
マミは今日、死んだ。
亡くなった。
だが、ただ命を落としたわけではない。
マミは私とミミカの目の前で、いや、正確に言えば、今日の午前の授業中、私たち同級生の目の前でマミは亡くなったのだ。
マミは自ら命を絶ったのだ。
【二】
午前の授業中。
異変は突然、何の予兆もなく訪れた。
劈くような悲鳴が、突如として教室に響いた。
「やめて……! 来ないで……!」
落雷のような叫び声。
それはマミの叫び声だった。
「……こっちに来ないで! やめ……て……! やめてよ……! 嫌だ…………嫌! 来ないでよ!」
泣き叫ぶ彼女の目は、同級生の顔も姿も、誰一人、認識できていないようだった。
「誰なの!? 知らない! 私は知らないから……!」
知らない。
あなたたちのことなんて知らない。
マミはそう何度も、宙に向かって叫び続ける。
何者もいるはずのない空中に向かって、マミは懇願し続ける。
「あなたたちは……誰なの……? だれなの!? お願いだから来ないで……」
こっちに来ないで!!
マミは自分の座っていた椅子を持ち上げると、教室の天井に向かって投げつけた。
椅子は天井の蛍光灯にぶつかって、ガラスが割れる音とともに勢いよく落下し、女子の一人に激突した。
その女子が痛みで悲鳴を上げたが、その声さえも、マミのさらなる叫び声によってかき消されてしまう。
マミの口から出る言葉は、どれも日本語の文章として、まるで意味を成しておらず、誰も理解することが出来なかった。
だが、教室の皆が聞き取れた言葉が一つだけ、たった一つだけあった。
「死にたくない」
何度も、何度も。
彼女は、繰り返した。
「私、死にたくない……」
彼女はその言葉を繰り返す。
私はマミを落ち着かせようと、彼女の肩に手を伸ばしたが、その手はただ、空をつかんだ。
マミは窓に向かって飛び出したのだ。
淀む朝の空気に向かって。
何者かから逃げるがごとく、マミは窓に向かって走り出した。
そして、そのまま彼女は身を投げ出した。
一分も経たなかった。
同級生の誰もが聞いたことのない鈍い音がした。
--やわらかい肉体とアスファルトがぶつかる音。
その音で、ついにクラスの全員がパニックに陥った。
教室から泣きながら逃げ出す者、その場にうずくまって苦しそうに呼吸をする者、私のように唖然と立ち尽くす者……。
当然、学校も臨時休校となり、生徒たちは家に帰されることになった。
このクラスの中で、今回の惨劇に一番衝撃を受けていたのは、ミミカだった。
ミミカは学校から出る直前までトイレに籠り、自身の身体の水分がなくなってもなお、吐き続けていたようだ。
「ミミカさん、マミちゃんと仲が良かったものね」
同級生の何人かが、ミミカをまるで心配するかのようにそう言ったが、彼女の誰もが本心では全くそう思っていないことは、誰の目にも明らかだった。
ミミカはマミの死を全く悲しんでいない。
それはクラスの共通の認識であり、実際、事実そのもの。
しかし、なぜこれほどまでに、ミミカが衝撃と恐怖に襲われているのか……。
皆が首を傾げる中。
真相を知る者は、私一人だけだった。
【三】
マミが身を投げる、ちょうど一週間前。
私はミミカから、放課後に呼び出された。
場所は、学校からそう遠くない、小さな神社。
「寂れた」という表現が、まさにぴったりの人足がほとんどない。古く、小さな神社。
しんとした空気。
風に木の葉が揺れる音。
真っ赤な鳥居の下、ミミカが私のことを待っていた。
この神社には、都市伝説が「一つ」存在した。
古い神社の入り口。
そこには、小さな木製の赤い箱が置かれている。
野ざらしに置かれたその箱は、神社への意見や要望を集めるための、いわば「目安箱」。
だが、「赤い色」というものは、人の好奇心と想像力を掻き立てる。
数多の人間の口から口へ。
やがて、想像は確かな噂となって、世に広まってゆく。
そうして、生まれた都市伝説。
それは、赤色の紙に名前を書いて箱の中に入れると、名前を書かれた人は呪われ、この世のものでない「何か」につきまとわれる。そして、その恐怖から解放されることなく命を落としてしまう。
そんな悪辣な都市伝説。
そして、この二つ目の都市伝説には続きが存在した。
名前を書いて箱の中に入れた人物もまた、穏やかな風に手を引かれ、「穏やかに」その命を終わりを迎える、と。
その日、ミミカが用意していたもの。
それは真っ赤な折り紙。
その紙に書かれていた名前はマミ。
ミミカは、ケラケラと笑う。
こんな紙が見つかったらマミは学校に来れなくなる。
ミミカの声は、神社の中に静かに響いた。
【四】
ミミカがそんな嫌がらせを行った理由。
それは、至って簡単。
ミミカは、自分と仲の良いグループで、マミに対していじめを行っていたから。
いじめを見かねた同級生の一人が、マミを連れて担任の教師に相談をした。
だが、不運か必然か。
その事実は、すぐにクラスの中に広まる。
その事実は、ミミカの耳に入る。
ミミカは報復と言わんばかりに、より陰湿にマミを追い詰め始めた。
だが、マミの異様な叫び声。
行動。
彼女の結末。
それら全ての事象を目の当たりにしたミミカは、ついに確信した。
「あの呪いは本当だった……。次に死ぬのは……私なの?」
ひゅうひゅう。
まるで、肺に穴が開いてしまったかのように、ミミカは息にならない声を出し続けた。
「私、死にたくない!!」
ミミカは学校の廊下で泣きながら私にそう叫ぶ。
彼女は私の手を振り払い、自分の家に逃げ帰った。
【五】
--お願い。
--たすけて。
電話の向こう側から聞こえてくるミミカの声は、マミのものと瓜二つだった。
ミミカには、この世の者でなくなったマミのことが見えているのだ。
血まみれの。
あるいは、人の形をしていないマミの姿が。
ミミカの悲鳴が、屋上に響いた。
「私が全て悪かった!! お願い、殺すなら早く殺して!! もうこれ以上、血を見せないで……私に見せないで……!! こんなに怖ろしい思いはしたくないの!!」
どうして早く殺さないの?
どうしてこんな苦しめるの?
ミミカの問いに対する答え。
それは、とても簡単だった。
それは、とても簡単なものだ。
--それは、私がミミカの名前を書いたからだ。
血のような真っ赤な折り紙に、私は彼女の名前を書いた。
そして、赤い箱の中に入れたのだ。
だから、ミミカは「穏やかに」命を終えることができない。
だから、ミミカは、この世のものではなくなった「マミ」につきまとわれているのだ。
私は思ってしまったのだ。
もしも、ミミカが書いた赤い紙が見つかり、マミが教師の強い庇護を受けることになったのなら。
もしも、マミに寄り添い、担任に相談に行ったのが私だったとバレたなのなら。
次のいじめのターゲットに私はなるかもしれない。
私は、人生で初めて「人を傷つけたい」と思った。
ミミカのやり方でミミカを傷つけたい、と。
ミミカは電話の先で泣き叫び続けたあと、声にもならない悲鳴をあげて、そのまま静かになった。
夜の静寂が、再び戻る。
ミミカの声が聞こえてこないことを確認し、私は携帯電話を屋上から投げ捨てた。この携帯電話を使うことなんて、もう二度とないのだから。
【六】
思えば、全く意味のないことをしてしまった。
呪いは確かに存在したのだから、放っておけばミミカは自ら身を滅ぼしたというのに。
私が命を懸けて、彼女を呪う意味なんて全くなかったのに。
もしも、呪いの存在を少しでも信じていれば。
あるいは、そもそもミミカの卑劣なやり口に、正々堂々と立ち向かっていたのなら。
誰も命を落とさない選択肢は、すぐそこにあったのかもしれない。
しかし、今となっては、私にはもう、どうでもいい。
ただ、身を乗り出したい。
私が鉄柵から身を乗り出したとき、暖かい風が、私の髪を撫でた。
陽の光のように、心の奥まで暖めてくれる。
そんな優しい、夜の風が。




