第7話 脱ぎたて
レグが器の前に座ったまま、また顔を上げた。
悟はそれを見てすぐしゃがんだ。体温計を出す。レグの首元に当てて計測する。数字が出た。普段より一度三分低い。誤差の範囲ではない。
「いつから元気なかった」
レグは答えない。答えられない。ただ悟を見ている。
悟は両手でレグの体を丁寧に触った。腹部、背中、四肢の付け根。筋肉の張り、皮膚の状態、鱗の感触。鱗がわずかに浮いている。根元が乾燥している感じがある。腹の鱗の一部が白っぽく変色していた。
「脱皮前か」
独り言のように言って、頭の中で時期を確認した。レグが最後に脱皮したのは五ヶ月前。ウォームドレイクの脱皮周期は四〜六ヶ月で、体調によって前後する。外気温が下がってきた今の時期は脱皮が誘発されやすい。症状が一致する。
「問題ないです」
レグに言った。レグは「ふぅ」と息を吐いた。
悟はすぐ動いた。保温ランプを一段階上げる。バスキングスポットの温度を三十四度に設定する。通常の給餌は一旦止めて、消化しやすい半流動食に切り替える。脱皮前は消化機能が落ちるため、固形物は負担になる。水分補給のゲルを追加して器に置いた。
レグはゲルをすこし舐めた。器を全部空にはしなかったが、拒否もしなかった。
「そのくらいで十分ですよ」
ムクが棚の上から覗き込んでいた。普段はレグに近づかないのに、昨日の夜からそばをうろうろしている。今日も朝から棚の端まで移動してきて、下を向いている。
「気にしてるんですか」
ムクが触手を一本上げた。
午後に久保田から電話があった。
「レグが不調って聞いたんですけど、大丈夫ですか。なんか昨日ここに来たとき、目が少し鈍い感じがしたんで。もしかして田所さんの来訪がストレスになった、とかじゃないですよね」
「脱皮前なんで問題ないですよ」
「えっ、そんなあっさり」
「症状が全部一致してます。体温低下、食欲減退、鱗の浮き。時期的にも合ってる。特に異常はないです」
「でも心配じゃないですか」
「心配してもしなくても同じことをするので」
久保田がしばらく黙った。「……神崎さんって、心配しないんですか、本当に」
「します。ただ心配してる間に手を動かした方が早いです。今はできることをやってるので」
「それが神崎さんか」久保田が少し笑った声で言った。「レグに何かあったら教えてください。あいつ、なんか施設の精神的支柱みたいな感じあるじゃないですか」
「脱皮したらまた連絡します」
電話を切った。
二日間、レグはほとんど動かなかった。保温スポットにいるか、悟の足元で丸まっているか。食欲は戻らなかったが、水分ゲルだけは毎回少しずつ口にした。
ムクは棚の端から離れなかった。
三日目の朝。悟が様子を見に行くと、レグが体をくねらせていた。腹を地面につけて、前足で床をかいている。始まった、と分かった。
ウォームドレイクの脱皮は自力で行う。手伝いは基本的に不要で、むしろ介入すると皮が傷つく。悟はそばに座って観察した。ノートを膝に置いて、時刻と状態を書き込む。
二時間かけて、古い皮が剥がれた。
下から出てきた鱗は、見違えるほど鮮やかだった。橙色が深くなって、光の当たるところで金に近い色に光る。まだ柔らかい。表面がつやつやしている。
レグがゆっくり立ち上がった。体を一度伸ばす。それからゆっくり歩いて、悟の膝に顎を乗せた。
「お疲れ様でした」
レグが目を細めた。
悟はレグの鱗をそっと確かめた。均一に脱げている。傷も残っていない。完璧な脱皮だ。
昼過ぎに久保田に連絡した。「脱皮しました。問題ないです」とだけ送ると、三分後に「よかった!!」と返ってきた。その後で「写真ください」と来たので、悟は一枚撮って送った。脱皮したてのレグが保温スポットで丸まっている写真だ。
久保田から「きれい!!鱗の色がすごい」と来た。悟も同意した。
夕方の給餌で、レグはいつも通り器を空にした。食欲が戻ってきた。あとは柔らかいものから徐々に固形物に戻していけばいい。
夜になった。
悟は施設の中を一回りした。毎晩の習慣だ。各魔物の様子を確認して、異常がなければそれで終わる。
リンはとまり木で羽を折り畳んで眠っていた。羽が薄く発光している。眠っているときも光が消えない。
ガッシュは裏庭の隅で横になっていた。草の匂いがする場所を好む。いびきに似た低い音がしている。
ムクは棚の上に戻っていた。三つの目が閉じている。
幼体ドレイクはレグの腹の横に潜り込んで眠っていた。四日間、ほとんど近づかなかったのに、今夜は迷いなくそこにいる。何かを察したのか、ただ偶然なのかは分からない。
レグは目を半分開けたままだった。悟の視線に気づいて、ゆっくり尻尾を一度動かした。
「きれいですよ、今の鱗」
悟は声を落として言った。レグが目を少し細めた。
ノートを持ってきて、その場で書き込んだ。脱皮完了時刻。脱皮の所要時間。新しい鱗の状態。食欲の回復。一通り書いてから、ペンを持ったまましばらく止まった。
それから最後にひと言だけ書いた。「鱗の色、これまでで一番きれいだったかもしれない」。
記録には要らない一行だったが、書かずにいられなかった。
施設が静かに呼吸している。こういう夜が続けばいいと思う。悟はそれだけ思いながら、ノートを閉じた。
明日はレグの給餌を通常に戻す作業がある。幼体の体重測定もある。ムクがまた棚から何かを盗んでいたので確認も必要だ。やることは山ほどある。それがここの日常だ。
悟は部屋に向かいながら、もう一度だけ施設の中を見渡した。眠っている五つの気配。全部いる。全部いつも通りだ。




