第4話 ちいさな命
卵だった。
直径十センチほどの、丸みのある卵。表面が淡い青白い光を放っている。半透明の殻の中に小さな影が動いているのが見えた。
悟はしばらくその場に座って観察した。孵化が近い。中の動きからして、今夜か、遅くても明朝には出てくるだろう。卵のサイズと殻の中の影の形から、おそらくウォームドレイクの幼体だ。
どこから来たのかは謎だった。庭に卵を産んだ個体がいた痕跡はなかった。ダンジョン内から何らかの経路で転がり込んできたのか、それとも施設の近くを通った親個体が土の中に埋めていったのか。判断する材料が今はない。
ただ、今ここにある。それだけは確かだった。
悟はひとつだけ深く息を吸ってから、卵を慎重に掘り起こした。殻を傷つけないように両手で包む。ひんやりしている。体温が下がっている。早く保温環境を作らないといけない。
悟は卵を室内に持ち込んで保温環境を作った。ウォームドレイクの孵化適温は三十二〜三十四度。幼体は孵化後しばらく体温調整能力が低いため、外部からの保温が最初の数日間は欠かせない。孵化後の給餌も固形物は無理で、消化しやすい液状のものから始める必要がある。
材料の確認をしながら悟は頭の中でスケジュールを組んだ。今夜は目を離せない。
レグがそれを遠目に見ていた。
「見てていいですよ」
悟が言うと、レグはほんの少しだけ近づいた。鼻先を卵に向けて、臭いを嗅いでいる。それから悟の顔を見た。
「同族ですよ、多分」
レグは「ふぅ」と息を吐いて、それ以上近づかずにその場に座った。
夜中の二時ごろ、殻にひびが入る音がした。
悟は起きていた。予想より早かったが、間に合った。殻が少しずつ崩れて、中から小さな前足が出てくる。鱗はまだ柔らかく、色も薄い。目を開けたばかりの幼体が、最初に見たものを確かめるように首を動かした。
「はじめまして」と悟は言った。
幼体が悟の手の甲に鼻先をつけた。
体温を測った。少し低い。保温ランプを調整して、最初の給餌の準備をした。幼体は固形物は食べられない。消化しやすい半液体状のものから始める。ダンジョン産の小型爬虫類のミルク状素材を使った。
細い舌で少しずつ舐めていく幼体を見ながら、悟はノートに書き込んだ。孵化時刻、体重、体温、初給餌の内容と摂取量。数字だけでは見えないものも書き留める。「目の開き方」「鼻先の動き」「声の有無」。データは後から読み返したとき、そのときの状態を思い出す助けになる。
動物園で覚えた習慣だった。ここでも変わらない。
夜が明けてきたころ、幼体がうとうとし始めた。保温ランプの下で丸まっている。小さい。レグと並べると、まるで別の生き物のようだ。
レグが「いつも通り」の顔で悟の横に座っていた。幼体を見ているのか、どこか別のところを見ているのかわからない。ただそこにいる、という感じで。
悟が他の魔物たちの朝の給餌を終えて戻ってくると、幼体のそばにレグがいた。
いつの間に近づいたのか。体を小さく丸めて、幼体と向かい合うようにして横になっている。幼体はレグの腹に頭を乗せて眠っていた。
悟はしばらくその場に立ったまま見ていた。
写真を撮った方がいいかとも思ったが、邪魔をするのが惜しくてやめた。ノートに「レグ、幼体の添い寝を確認」とだけ書いた。
ガッシュが裏庭から様子を見に来た。覗き込んでしばらくじっとしてから、特に何もせず戻っていった。興味はあるが関わらないというのがガッシュのスタイルだ。
午後になって久保田が顔を出した。幼体を見て、しばらく無言だった。
「……生まれたんですか」
「昨夜です」
「レグが添い寝してますね」
「昨夜からです」
久保田がまた黙った。それからぼそりと言った。「すごいな、ここ」。
悟は「まあ、慣れますよ」と言ったが、自分でも少し嘘だな、とは思っていた。何度やっても、命が始まる瞬間というのはそれなりのものがある。
幼体はすやすやとレグの腹の上で眠っていた。レグは起きていた。幼体を見ているわけでもなく、ただ横になっている。それが「添い寝」なのかどうかは悟には判断できないが、幼体が安心しているのは確かだった。それで十分だと悟は思った。
隣でリンが一声鳴いた。窓の外では夕日が落ちていた。今日も施設が動いている、という感覚があった。人の言葉を使うなら「平和」と言うのだろうが、悟はあまりそういう言葉を口に出さない。ただそれが続けばいいとは、思う。
悟はもう一度ノートを開いた。
「幼体ドレイク・孵化日・孵化場所:施設裏庭」と書いて、次の行に「名前未定」と書いた。
親の情報は不明。由来は不明。それでも記録は記録だ。わかっていることだけを正確に書く。
レグには最初から名前がなかった。悟が施設に来た理由も、どこから来たかもよくわからない状態で保護して、気づいたら「レグ」と呼んでいた。でかいから、という理由で。今は体が大きくないが、最初に来たとき傷があって一回り大きく見えたのだ。
この幼体もそのうち名前がつくだろう。焦る必要はない。
夕方、久保田が「ちょっと聞いてほしいことがあって」と切り出した。悟は椅子を勧めながらノートを閉じた。




