第37話 久保田さんのこと
久保田が来たのは、昼過ぎの静かな時間帯だった。
受付のベルが鳴って、悟が顔を上げると、久保田が入り口に立っていた。いつもより少し固い顔をしていた。
「お疲れ様です」
「どうぞ」
悟はお茶を一杯淹れて、久保田に渡した。久保田は受け取って、でもすぐには飲まずに、椅子に腰を下ろした。
レグが久保田の足元に近づいてきた。じっと見上げている。
久保田はそれに気づいて、腰を少し折って、レグの頭を撫でた。最初に施設に来たころは、手を伸ばすのにも少し間があった。今は自然にやっている。
「報告があって来ました」
「どうぞ」
「Bランク試験を受けることにしました」
悟は久保田を見た。
「いつですか」
「来月の初めです」
「そうですか」
久保田が苦笑いした。
「それだけですか」
「受けられると思いますよ」
「励ましが薄いですよ」
「薄くないですよ。思ってるから言ってるだけです」
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久保田がお茶を飲んだ。レグがまだ足元にいる。久保田の手がまた自然に頭に乗った。
「実はあんまり緊張してないんですよ」と久保田が言った。「なんか……準備できてる気がして」
「そうですか」
「試験のこととか、じゃなくて。なんか、根っこのところが変わった感じがするんですよね」
悟は記録ノートから目を上げた。
「どういう意味ですか」
久保田は少し考えた。レグの背中をゆっくりなでた。
「ここに来るようになってから、魔物に対処するときの幅が広がりました。こういうときはこうする、じゃなくて、まずこの子は今どういう状態なのかって、考えるようになって」
「はあ」
「それが自信になった気がするんです。なんか、地に足がついたっていうか」
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悟はノートを閉じた。
「俺は何もしてないですよ」
「してますよ」
「久保田さんが見て学んだんでしょう」
久保田が首を振った。笑いながら首を振った。
「見せてもらってるんですよ。悟さんがやってるのを、そのまま見せてもらって、それが財産なんです。場所があって、見せてもらえて、俺は勝手に学んで勝手に育ってる」
「それは久保田さんが育ったんでしょう」
「育つ場所がないと育てないじゃないですか」
悟は少し間を置いた。
「……それはまあ、そうかもしれないですが」
「でしょう」
久保田が笑った。今度はさっきより表情が柔らかかった。
「なんか確認に来た感じがするって自分でわかってたんですよ。報告というより、確認。なんだろって思ってたんですが」
「なんだったんですか」
「ここが変わらずあるっていうのを、確認したかったのかもしれないです」
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そのとき、物置の方からムクがゆっくり這い出てきた。触腕をのばしてのろのろと移動して、久保田の足元のあたりで止まった。
久保田が目を丸くした。
「あ、ムク。珍しい」
ムクは特に何をするわけでもなく、そのまま久保田の足にひとつ触腕を軽く触れた。それだけだった。
「……来てくれてるんですか、これ」
「そうみたいですね」
「嬉しいな」と久保田が言った。声が少し低くなっていた。「いつも俺のこと怖がってると思ってたから」
「慣れてきたんじゃないですか」
「ムクも?」
「たぶん」
ムクはしばらくそこにいて、また物置の方へゆっくり戻っていった。久保田がその背中を見送った。
「ここに来るたびに、なんか違うものを見るんですよね」と久保田が言った。「慣れないというか、毎回ちょっと驚く」
「そういうもんじゃないですか、生き物は」
「悟さんは驚かないんですか」
「慣れですよ」
久保田がまた笑った。
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レグが久保田の膝に前足をかけた。久保田が「重い」と言いながらも降ろさなかった。
「レグ、お前もBランクになれよな」
レグはレグで特に反応せず、久保田の膝の上に鼻先を乗せた。
悟はお茶を一口飲んだ。
「試験が終わったら教えてください」
「結果、ですか」
「どっちでも」
久保田がまた苦笑いした。
「どっちでもって、落ちた場合も連絡しろってことですよね」
「そうですね」
「慰めてくれますか」
「お茶は出します」
「……なんか悟さんらしいな」
久保田はレグの前足をそっとどかして、立ち上がった。帰り支度をしながら、もう一度レグを見下ろした。
「またお邪魔します」
「どうぞ」
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久保田が出ていったあと、悟はしばらく縁側を見ていた。
ガッシュが外で草を食んでいた。ムクが日向の壁にへばりついて動かない。いつもと変わらない午後だった。
育つ場所、というのを久保田は言っていた。悟はそれについて少し考えた。動物園でも、そういうことはあった。環境を整えるだけで、動物が自分から変わっていくことがあった。
人も、似たようなものかもしれない。
記録ノートを開いて、今日の分を書いた。
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数週間後、久保田からメッセージが来た。
「合格しました。Bランクです」
悟はしばらくその文面を見ていた。それから返信した。
「よかったですね」
少しして返信が来た。
「もうちょっと喜んでください」
悟は少し考えてから、もう一度打った。
「よかったですね、本当に」
「変わってないですよ」
悟はそれ以上の言葉が思いつかなかったので、返信しなかった。しばらくして、また久保田からメッセージが来た。
「施設に行っていいですか」
悟は「どうぞ」と打った。




