第35話 サウンドラーバの夜
翌日の夕方、久保田が施設の入口に現れた。
両手で円筒形の容器を持っていた。フタが厚めのプラスチックで、空気穴がいくつか開いている。見た目はさほど変わったものではなかった。
ただ、久保田の顔が変わっていた。
「来ました……」
「どうぞ」
「悟さん、俺、外で待ってていいですか」
「まず入ってください」
久保田がおそるおそる敷居をまたいだ。
そのとき、容器の中から音がした。
高い音だった。耳の奥を刺すような、細くて、鋭い音。波長が均一で、機械的なほどだった。
レグが悟の足元から素早く離れた。棚の陰に入って、そちらを向いた。
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久保田が容器を両手で持ったまま、固まっていた。
「これ……俺、無理です。ほんとに無理です、悟さん」
「どうぞ置いてってください」
「正気ですか」
「置いてください」
久保田が事務所のテーブルにゆっくりと容器を置いた。そのとたんにまた音が鳴った。さっきよりも高い。久保田が耳を両手で押さえて後ずさりした。
「俺帰りますね」
「少し待ってください」
「悟さんっ」
「すぐ済みます」
久保田が施設の扉のそばまで行って、でも出ていかなかった。扉の枠を両手でつかんで、こちらを見ていた。
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悟は容器を観察した。
中に何かいるのは見えた。こぶし大の、白っぽいもの。表面が湿っている。蛆虫に近い形だが、尾のあたりが少し広がっていて、そこが音の発生源になっているようだった。
臭いがあった。湿った土と、何か発酵したような、たとえるのが難しい臭いだった。久保田がこれを持ってきたとき、施設の外まで臭ってきたはずだ。それでも持ち込んでくれたのは、断れなかったからだろう。
音で威嚇している。視覚に頼るタイプではないだろう。光に対してではなく、周囲の状況に反応して音を出している。動くもの、気配のある方向に反応しているようだった。
「暗くすればいいですかね」
「え?」
「視覚が弱いなら、暗くすれば落ち着くと思います」
悟はタオルを一枚取り出した。容器の上からかぶせた。
音が止まった。
一秒、二秒。
完全に静かになった。
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久保田がしばらく沈黙した。
「……止まった」
「止まりました」
「え、本当に?」
「はい」
久保田が恐る恐るドアの枠から手を離した。一歩、また一歩と近づいてきた。タオルをかぶせた容器の前で立ち止まった。
「なんで止まるんですか」
「音で威嚇しているということは、視覚が弱い。暗くすると安心するんだと思います」
「そういうものなんですか」
「慣れですよ」
久保田が容器をしばらく見た。タオル越しにもわずかに臭いはあった。それでも音がないだけで、どこか別の生き物のように感じられた。
「悟さん、よく平気ですね」
「見た目と音と臭いですからね。慣れれば別に」
「慣れるものなんですか、これ」
「そのうちなります」
久保田の顔が微妙な表情になった。
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その夜、悟はサウンドラーバの容器を事務所の隅に置いたまま、作業を続けた。タオルをかぶせている間は音が出なかった。ときどき容器がわずかに動いたが、それだけだった。
レグは容器から距離を取り続けていた。棚の陰から出てくるが、容器には近づかない。本能的なものだろう。無理に近づかせる必要はなかった。
ムクが水槽からこちらを見ていた。一度だけ、容器の方を向いてじっと見た。体の色が少しだけ暗い緑に変わった。それからゆっくりとそっぽを向いた。
なんとなく、判断を下したような動きだった。関わる必要がない、とでも思ったのかもしれない。
悟は記録ノートに書いた。サウンドラーバ、一時預かり。遮光で沈静化。翌日返却予定。
しばらくして、外から久保田の声が聞こえた。
「悟さん、大丈夫ですか!」
「大丈夫ですよ」
「本当ですか! 鳴きませんか!」
「鳴きません」
悟は作業を続けた。
また少しして、声がした。
「悟さん、まだ大丈夫ですか!」
「大丈夫です」
「鳴いてないですか!」
「鳴いていないです」
悟は作業を続けた。
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翌朝、依頼主の探索者が来た。三十代の男で、フードを深めにかぶっていた。
「昨日は迷惑かけました。こっちも困ってて、とりあえず預けるしかないと思って」
「問題ないです」
「……あいつ、鳴かなかったんですか」
「タオルをかぶせてました」
探索者がしばらく悟を見た。
「それだけで?」
「それだけで落ち着きましたよ」
探索者が容器を受け取った。遮光の布を換えてあって、蓋のすぐ内側に薄い板を入れて光の量を調整してある。悟が昨夜、少し手を加えた。
「返すときもこの布はかぶせたままで」
「わかりました。ありがとうございます」
探索者が去ったあと、施設の外から久保田の声がした。
「どうですか!」
いつからそこにいたのか、施設の塀のそばに立っていた。
「大人しくなりましたよ」
「え、本当ですか?」
「昨日も言いました」
久保田がほっとした顔で近づいてきた。
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午後になって、事務所のドアが開いた。
白石奈々だった。管理局の制服を着て、書類を抱えていた。
「突然すみません。少しお時間もらえますか」
「どうぞ」
「管理局内に、飼育員との連携を公式化する案を提出しました」
悟はお茶を出しながら、白石を見た。
「そうですか」
「はい」と白石が言って、椅子に座った。まっすぐな目をしていた。「今日は、それを報告しに来ました」




