第34話 赤字ギリギリ
田中が事務所に入ってきたとき、ガッシュがちょうど縁側の草を食べ始めていた。むしゃむしゃと静かな音がした。
田中は腰を下ろしながら、ちらりとその方向を見た。ガッシュは田中のことを気にした様子もなく、淡々と草に向かっている。
「今日は、少し別の話をしてもいいですか」
「どうぞ」
「収支は、どうなっているんですか」
悟はお茶を一口飲んで、田中を見た。書類ケースは今日も膝の横にあるが、まだ開いていない。
「聞いてもいいですか」と田中が続けた。「個人的に、少し気になっていまして。この施設、ずっと続けていけるのかどうかという意味でも」
「ノートパソコン、出していいですか」
「ぜひ」
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悟は棚からノートパソコンを取り出した。起動して、スプレッドシートを開いた。表計算が得意というわけではないが、入力と管理は続けている。田中の前にそのまま置いた。
田中が画面を覗き込んだ。
最初の数秒は、何も言わなかった。
次の数秒も、言わなかった。
「……これ」
「はい」
「ギリギリですよ」
「そうですね」
「というか、ほぼマイナスになる月もありますよ。ここと、ここと」
「あります」
田中が指で列をなぞっていった。固定費の欄、飼料費の欄、維持費の欄、収入の欄。収入の欄は、月によってずいぶん差がある。
「この収入の、不定期の謝礼というのは」
「探索者さんから、何かのついでにいただくことがあります」
「何かのついでに」
「お礼代わりに、という感じで。久保田さんが持ってくることが多いです。こちらから請求はしていないので」
田中が画面から目を離して、悟を見た。何か言いたそうな顔だったが、もう一度画面に向いた。
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ガッシュがまたむしゃむしゃと草を噛む音がした。田中がまたその方向を見た。それから画面に戻った。
「この副業の欄は」
「ネット通販です。魔物由来の素材を預かって、仲介することがあります。毛とか、鱗とか」
「鱗……」
「レグの鱗が抜け替わるとき、きれいなのが出るんですよ。ウォームドレイクの鱗は需要があるみたいで」
田中がレグを見た。レグは事務所の隅でとぐろを巻いていた。橙色の鱗を特に意識した様子もなく、目を細めている。
「それで、なんとかなってるんですか」
「なんとかしています。蓄えが底をつく前に、どこかで謝礼が入ったり、まとめて仲介できたりすることが多いので」
「綱渡りじゃないですか」
「慣れですよ」
田中がしばらく沈黙した。悟はその間、ムクの水槽が薄く光っているのを見ていた。今日のムクは青みがかった紫をしている。落ち着いているときの色だ。
「……なんで続けてるんですか」
悟はスプレッドシートをスクロールして、少し考えた。
「続けたいから、ですかね」
「続けたいから」
「別にお金持ちになりたいわけじゃないし、続けられる範囲でやっていければそれでいいです」
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田中がまた黙った。今度は少し長かった。
ガッシュがまた草を噛む音がした。
田中の視線がガッシュに向いた。ガッシュは何も考えていないような顔で、ただひたすら草を食べている。それから田中の視線がムクに向いた。ムクは水槽の中で静かに揺れていた。
施設の外から、遠くで車の音がした。
田中はノートパソコンから手を離して、背中を椅子に預けた。
「正式な報酬を出す件、急ぎます」
「いえ、急がなくても。田中さんの事情もあるでしょうし」
「急ぎます」
悟は田中を見た。田中は画面を見ていた。額を少し寄せた、どこか頑固な、それでいて少し困ったような顔をしていた。
「組合との協力報酬が正式に出れば、少なくともこの赤字の月はなくなります。それだけは確保できます。すぐには動けませんが、優先順位を上げます」
「田中さんが気にしなくても、今のところはなんとかなっていますし」
「急ぎます」
もう一度繰り返した。今度は悟の方をはっきり向いて言った。
悟は少し間を置いた。
「わかりました」
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田中が帰ったのは昼過ぎだった。
悟はノートパソコンを閉じて、お茶を一杯入れた。縁側に座って、ガッシュを見た。ガッシュは草を食べ終わって、今は目を細めて日向に顎を乗せている。腹が膨らんで満足そうな姿だった。
急いでほしいわけではなかった。ただ、田中があの顔で言うなら、急いでくれるのだろう。人が何かを急ごうとするとき、止めても止まらないことは、これまでにもあった。それはそれで悪いことではない。
続けたいから続けている、というのは本当のことだった。収支がどうであれ、やることは変わらない。変えるつもりもない。
悟はお茶を飲みながら、記録ノートを開いた。今日の欄に短く書いた。田中さん来訪、収支について話す。報酬の件、早める方向とのこと。特に変わったことはなかった。
ムクが水槽の向こうからこちらを見ていた。体の色はまだ青みがかった紫のままだった。
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夜になって、久保田から連絡が来た。
「悟さん、今いいですか」
「どうぞ」
「知り合いの探索者が、ちょっと変わった魔物を預かってほしいって言ってるんですが……聞いてもらえますか」
「どうぞ」
久保田が少し間を置いた。
「……音がします」
悟は返事をした。
「どうぞ」




