第31話 田中さんの再訪
田中が玄関の前に立ったとき、片手には書類ケース、もう一方には封筒を持っていた。
「お邪魔します。田中です」
「どうぞ」
悟は田中を事務所に案内した。前回と同じ椅子に、田中が少しだけ遠慮気味に腰を下ろした。書類ケースをテーブルの横に立てて、封筒を両手で持ったまま、姿勢を正した。
「まず、こちらを」
封筒を差し出した。白い、厚みのある封筒だった。表に「感謝状」と縦書きされている。
悟は受け取って、中を確認した。組合の印が押された、それなりに丁寧に作られた書類だった。アークの件での協力に対して、探索者組合として感謝する、という内容だ。
「どこに飾ればいいですかね」
悟はそのまま引き出しに手をかけた。
「飾ってください」
田中の声が少し強くなった。
「壁に、あるいはこちらに見えるところに」
「そうですか」
悟は封筒を引き出しではなくテーブルの端に置いた。いずれ飾り場所を決めることにした。
田中が少し複雑な顔をしていた。感謝状を渡す側が「飾ってください」と言わなければいけない場面というのは、あまり想定していなかったのかもしれない。悟にはその複雑さがよくわからなかったが、田中が落ち着くまで黙って待った。
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悟がお茶を出すと、田中は両手で湯飲みを受け取った。少し姿勢を直した。
田中がお茶を一口飲んでから、話を切り出した。
「今日は次のステップのご提案に来ました」
「次のステップ」
「はい。組合として、この施設との正式な調査協力関係を結ばせていただきたいのです」
悟はテーブルに目を置いて、少し考えた。
「調査協力とはどういう内容ですか」
「それが、今日お話ししたいことでして——」
「具体的な内容は?」
田中がまだ話し終わっていないのに、悟がすでに次の確認に入っていた。田中は少しだけ間を置いた。
「行動観察データの提供と、見学機会の設置と、相談窓口としての機能、という三点を考えています」
「記録ノートの提供ですか」
「はい、その形が一つの案です」
「魔物への直接介入はありますか」
「直接介入、というのは」
「組合側が魔物に触れたり、行動を変えるよう指示したりすることです」
田中がしばらく考えた。
「基本的にはこちらが観察させていただく立場なので、介入はありません」
「わかりました」
悟はそう言って、お茶を一口飲んだ。田中がどこか落ち着かない顔をしていた。
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このとき田中が内心で思っていたことを、悟は知らない。
田中は、悟が「わかりました」と言うたびに、少しだけ困惑していた。普通、こういう提案をすると相手はもっと身構える。条件を確認しながら、自分に有利な方向を探す。それが交渉というものだ。
この人は交渉をしている自覚があるのだろうか。
わからなかった。
悟が確認している内容は的確だった。介入の有無を聞くのは正しい。記録の形式を確認するのも正しい。なのに、どこか、交渉というより書類の読み合わせをしている感じがした。
困惑するのは不思議ではないと、田中は思った。こちらとしては誠実に、市場より少し高い水準の協力費を提示するつもりでいた。それを交渉の余地として相手に使ってもらえるよう、ある程度の幅も見込んでいた。なのに相手がその余白に気づかない。いや、気づいていないわけではないのかもしれない。ただ、使う気がない。
「報酬についても、今日お話ししておきたいのですが」
「どうぞ」
田中が書類ケースを開けた。そのとき。
書類ケースのジッパーに、何かがかかった。
田中が下を見た。レグがいた。前脚をジッパーの引き手にかけて、体重をかけながら引っ張っている。書類ケースが少し揺れた。
「レグ」
悟が声をかけた。レグが顔を上げたが、ジッパーは離さなかった。
「離してください」
レグがゆっくりジッパーから前脚を引いた。悟の足元に来て、そのまま丸くなった。
「前回は靴紐でしたね」
田中が少し笑いながら言った。
「好奇心が強いので」
「そうですか」
田中はそう言いながら書類ケースを開けた。少しだけ表情が和らいでいた。足元を見ると、レグがまだそこにいた。悟の膝に顎を乗せて、目を細めている。
「この子は、ずっとそこにいるんですか」
「気分によりますよ」
「今の気分は」
「くつろいでいるんだと思います」
田中がレグを見た。レグは田中を見た。少し目を合わせてから、また目を細めた。
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「報酬についてはこちらの案で——」
田中が書類を一枚出した。金額が記されていた。月額の協力費、それと成果物データへの提供料。悟はちらっと見た。
「わかりました」
「……えっ」
「わかりました」
「もっと、確認しなくていいんですか」
「金額ですよね。見ました」
田中が書類を持ったまま、少し固まった。
「こちらで提示している金額が妥当かどうか、確認したり交渉したりしていただいていいんですよ」
「生活できればいいので」
田中が真顔になった。
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「今日のところは、正式な提案書を持ってきていないので、改めて整理してまいります」
「わかりました」
悟はそう言って席を立ち、湯を沸かした。少しして戻ってきたとき、田中の前に湯飲みを一つ置いた。
「え、なんで僕のためにお茶を出してくれるんですか」
「来たら出すものですよ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
田中がしばらく湯飲みを見ていた。それから一口飲んで、なぜか少し安心したような顔をした。
「わかりました。一度持ち帰って提案書を作ってきます」
「どうぞ」
田中が帰り際、感謝状をちらりと見た。テーブルの端にそのままになっている。田中が何か言いかけて、やめた。
扉が閉まった。
悟は感謝状を手に取った。
どこに飾ればいいかは、まだわからなかった。




