第29話 データより先にあるもの
朝、アークのエリアに入ると、今日は空気が違った。
アークが頭を上げてこちらを見た。唸らなかった。鼻をひくつかせて、悟を確認して、また地面に目を落とした。それだけだ。それでいい。
草の束を一つ置いた。食べ始めるのを見ながら、膝をついて右後ろ脚の状態を確認した。
腫れが引いていた。傷口の周囲の色が、赤から薄いピンクに変わっている。浸出液もほとんどない。ガーゼを交換しながら、悟はノートに状態を書き込んだ。
「今日は状態がいいですよ」
声をかけた。アークは草を噛みながら、耳だけ動かした。
処置を続けながら、悟はアークの体全体を確認した。甲殻の艶も少し戻ってきている。搬入直後は全体的に乾いた印象があったが、今は違う。食事量が安定してきたせいかもしれない。あるいは、単純に環境に慣れてきたのかもしれない。
動物が環境に慣れるとき、体が先に知っている場合がある。表情や行動より、毛艶や皮膚の状態の方が早く変化する。アークには毛がなく甲殻だが、同じことだと思った。
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処置が半分ほど終わったとき、アークが鼻を伸ばした。
ゆっくりと、悟の手の方に向かってくる。悟は手を止めた。動かなかった。草の束を持っているわけでもない、薬の臭いがするかもしれない手だ。
鼻先が触れた。
軽く、一瞬だけ。悟の指の背を鼻でなぞるようにして、それだけで引いた。
アークはまた草の方を向いた。
悟はしばらくそのまま手を動かさなかった。
(触れたな)
頭の中で確認した。感情ではなく、実務として。警戒心が薄れている証拠だ。処置が順調に進んでいる。回復のペースに問題はない。
でも、少しだけ違うものもあった。それが何かはうまく言葉にならなかった。
悟の肩の上でレグが短く鳴いた。今日も一緒にエリアに入ってきていた。アークがレグを見た。レグがアークを見た。どちらも動かなかった。アークが先に目を逸らした。レグが少し顎を上げた。満足しているのかどうか、表情でわかる気がした。
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午後に久保田が来た。
施設の入口で「お邪魔します」と言いながら、少し歩みが遅かった。何か言いたそうな顔をしていた。
「どうしましたか」
「いや、その……田中さんから連絡がきたんですよ」
「そうですか」
「データの件、断られたって」
悟は久保田を見た。
「で、俺のせいですか、ってことが気になってて」
「なんで久保田さんのせいになるんですか」
「俺が組合に繋いだから、悟さんが面倒なことになったんじゃないかと思って」
悟は少し考えた。
「田中さんは悪い人じゃないです。ただ、順序があって」
「順序?」
「アークが回復してダンジョンに戻ったあとなら、話は別です。記録は残りますよ」
久保田が少し眉を上げた。
「戻すんですか、ダンジョンに」
「回復したら戻しますよ」
「それは……なんか、あっさりしてますね」
「ここはホテルですから」
「ホテル」
「長期滞在のね」
久保田がしばらく黙った。それからゆっくりと頷いた。
「なんか、悟さんらしいです」
「普通ですよ」
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久保田がガッシュを縁側に見つけた。
「今日はガッシュ、いつもより外側にいませんか」
悟はその方を見た。ガッシュが縁側の縁、少し特別エリアに近い側で丸まっていた。いつもより一メートルか、二メートルか、アーク側に寄っている。
「そうですね」
「近づいてる?」
「少しずつですよ」
「仲良くなるんですか」
「わからないですけど、気にはなってるみたいです」
久保田がガッシュを眺めながら、首をかしげた。
「ガッシュも草食でしたっけ」
「そうです」
「アームドビアも草食でしたよね」
「そうです」
「だから近づける、ってことですか」
「同じものを食べてる相手はわかるのかもしれないですね」
久保田が「なるほど」と言った。
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久保田が帰ったあとで、記録ノートを更新した。
アークの欄に「鼻で手に触れた。一瞬だが警戒心の低下確認」と書いた。食事量は今日も安定。傷の回復は順調。立位の確認ができれば次のステップに入れる。
久保田が気にしていたことも、少し頭の中にあった。俺のせいか、と聞いてくる久保田の顔が。
別にそうじゃない、と悟は思っていた。田中さんが来て、ちゃんと話ができた。それでいい。断ったことを後悔もしていない。アークとの距離が縮まっていることの方が、今は大事なことだった。
久保田はよく「俺のせいですか」と聞く。気にする性格なのだろう。でも今回は、久保田が繋いでくれなければ田中さんとも話せなかった。良いことだった。ただ、それを久保田に言うのが少し面倒だったので、今日は言わなかった。
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夜になって、外から珍しい音がした。
声だった。低く、腹に響くような音。アークの声だ。こんな時間に鳴くのは初めてだった。
悟は懐中電灯を持って特別エリアに向かった。
扉を開けると、アークがいた。立っていた。四本の脚全部で、地面に立っていた。右後ろ脚に体重を乗せて、少しだけ震えているが、倒れていない。
悟はその場に止まった。
「立てましたか」
アークが頭をこちらに向けた。目が光っていた。
「よし、来週には帰れるかもな」
アークは答えなかった。でも立ち続けていた。




