第28話 田中さんの打診
田中という人は、スーツにきっちりとネクタイを締めて、書類ケースを両手で持って現れた。
四十代だろうか。頭が少し薄くなりかけていて、目元が人のよさそうな細さをしている。施設の入口に立って、周囲をきょろきょろ見回してから、悟を見つけた。
「田中です。先日お電話した、探索者組合の」
「どうぞ」
悟は中に案内した。事務所のテーブルに書類ケースを置いて、田中は少し椅子に座りにくそうにしていた。
「どうかしましたか」
「いえ、あの、魔物が近いなと思いまして」
ムクの水槽が事務所から見える位置にある。今日のムクは体の色が赤と黄色の中間で、田中をじっと観察している。吸盤八本でガラスに張り付いたまま動かない。
「ムクです」
「はあ」
「小さいので安全ですよ」
「そうですか」
田中は目を逸らした。
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「今日は、アームドビアの件でお話ししたいと思っていまして」
田中が書類ケースを開けた。書類を一枚テーブルに出す。
「組合として、今回保護されているアームドビア成体の行動特性・食性・傷の経過データを提供していただけないかと思っています」
「データですか」
「組合のデータベースに加えることで、探索者の安全向上に役立てられます。アームドビアの成体を近距離でケアされた例がほとんどなく、今回の記録は非常に価値があります」
悟はテーブルに出された書類を見た。データの提供形式、管理方法、利用目的。丁寧に整理されている。
「データより信頼関係が先です」
田中が顔を上げた。
「……信頼関係とは?」
「アークが、ここにいることを承知してくれているからケアができている。その信頼関係が崩れたらデータも意味がなくなります」
田中がしばらく黙った。眉を少し寄せた顔をしていた。
「……それは、倫理的な話ですか」
「そうです」
田中がさらに困惑した顔をした。書類の端を指でいじりながら、何か言おうとして、少し間を置いた。
「倫理的、というのは、その……魔物に対して、ですか」
「そうです」
「でも魔物は——」
「ケアをする相手に対しては、同じです」
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田中がお茶を一口飲んだ。すこし落ち着きを取り戻したようだった。
悟から見ると、田中は困っているというより、枠組みが合わないという顔をしていた。悪意があるわけではない。組合として必要なデータを必要な形で集めようとしている。そこに疑問はない。ただ、悟が言っていることが、田中の持っている書類の項目のどこにも当てはまらなかった。
それはしょうがない、と悟は思った。
「アームドビアを今から見せていただくことはできますか」
「いいですよ」
特別エリアに案内した。扉の外から中を見せた。田中が金属フェンス越しにアークを見た。
アークは今日、脚の状態がいいせいか、体を起こしていた。悟が近づくと頭をこちらに向けた。今日は草の束が要らなかった。悟が傍に立っても、唸らなかった。
「立ってる……」
田中の声が小さくなった。
「はい。昨日より経過がいいです」
「大きいですね……」
「そうですよ」
「こんなのが、ダンジョンに……」
「もっと大きいのもいるそうですよ」
田中が返事をしなかった。アークをじっと見ていた。アークも田中をしばらく見ていたが、やがて興味をなくしたのか、頭を下げて草の方に向いた。
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事務所に戻ったところで、田中の靴紐が何かに引っ張られた。
田中が下を見た。レグがいた。橙色の鱗、中型犬ほどの体。田中の靴紐を口でくわえて、小さく引っ張っている。
「これは……何ですか」
「レグです」
「説明になってないです」
「ウォームドレイクです。危ないことはしません」
レグが靴紐を離した。そのまま田中の足元でくるりと一周して、どこかへ行った。田中は少し呆然としていた。
「靴紐が好きなんですか」
「興味があっただけだと思います」
「そうですか」
田中は書類をしまいながら、何度か頷いた。深いところで何かを整理しようとしているような、そういう沈黙だった。
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「今回のお話は、少し考えさせてください」
「どうぞ」
「悟さんが言われた、信頼関係というのは——要するに、まずアークが回復することが先で、データはその後ということですか」
「アークが回復してここを出たあとなら、話は別です」
田中がそれを聞いて、ようやく少し顔が和らいだ。
「なるほど。それは……はい、わかりました。改めてご連絡します」
田中は書類ケースを持って立ち上がった。帰り際にもう一度ムクを見て、ムクが体の色を少し動かすのを見てから、目を逸らした。
「お邪魔しました」
「お気をつけて」
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田中が帰ったあとで、久保田から連絡が来た。
「田中さん、どうでしたか」
「いい人ですよ、多分」
「多分って何ですか」
「悪い人じゃないので、いい人だと思います」
久保田が少し間を置いた。
「悟さんの評価基準、独特ですね」
「そうですか」
「田中さん、納得してましたか」
「考えます、って言ってましたよ」
「それは……ということは、断られたってことですか」
「今のところはそうですよ」
久保田がまた黙った。少しすると「そうですか」と言った。何か言いたそうな気配があったが、その日はそれで終わった。




