第27話 アークのいる日常
特別エリアの扉を開けると、アームドビアがこちらを見た。
昨夜搬入したときと同じ場所だ。エリアの奥、壁に近い側に体を置いて、頭だけをこちらに向けている。右後ろ脚をかばうように、重心が少し前にかかっていた。
悟は処置用の道具を持って中に入った。消毒液、ガーゼ、固定用のテープ。それと布袋一つ。
アームドビアが低く唸った。
悟は立ち止まった。急がずに、その場で少し待った。唸りが続いている。ゆっくりと布袋を足元に置いた。中から草の束を取り出して、地面に滑らせた。
アームドビアの鼻がひくついた。
唸りが止んだ。
悟は膝をついて、処置の準備を始めた。
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消毒に三十分かかった。アームドビアは草の束を食べ終えると、また警戒してきた。もう一束出した。また食べた。その繰り返しだった。
右後ろ脚の裂傷は、昨日より少し状態がいい。腫れはあるが、化膿の進行は止まっていた。処置の甲斐があった。ガーゼを当てて、テープで固定した。動くたびに剥がれるかもしれないが、ないよりはいい。
「今日はここまでですよ」
悟は声をかけた。アームドビアが耳を動かした。返事ではないが、聞こえている感じがした。
悟は立ち上がりながら、アームドビアの体を見た。体長二メートルを超えて、肩の高さが悟の胸あたりに来る。甲殻は厚く、背中の稜線がはっきりしている。
施設に来た動物はいろいろいたが、この大きさは久しぶりだった。
アークと呼ぶことにした。名前があった方が記録に書きやすい。
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外に出ると、いつもと少し空気が違った。
レグが特別エリアの扉から離れた場所に立っていた。首を伸ばして、扉の方を見ている。橙色の鱗が朝の光を反射していた。
「見てたんですか」
レグは答えなかった。首をゆっくり引いて、悟の足元に来た。いつものように脚の横についた。
ガッシュがいた。猪型の体を縁側の日当たりに置いて、前足で地面を掘っていた。いつもより熱心だった。この辺りはガッシュのエリアだという主張なのかもしれない。
「わかってますよ、ここはガッシュのところです」
ガッシュが顔を上げた。鼻を一度鳴らして、また掘り始めた。
水槽の横を通ると、ムクが水槽の前面にへばりついていた。八本の腕を広げて、ガラスに吸盤をくっつけている。体の色が赤と黄色の中間になっていた。好奇心の色だ。
水槽は特別エリアの方角を向いていない。でもムクにはわかるのかもしれない。気配のようなものが、施設全体に広がっていた。
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昼過ぎに記録ノートを一冊新しく取り出した。
表紙に「アーク(アームドビア・成体)」と書いた。
最初のページに、今日の分を書き込む。
体重は昨夜の搬入時に計測した値を使った。二百十八キロ。目視では多少の誤差があるかもしれない。傷の経過は昨日との比較で記録する。腫れの範囲、傷口の色、浸出液の有無。食事量は草の束でおよそ一キロ程度。気温は十四度。
細かく書いた。最初の記録が一番重要だ。この先の変化を測る基準になる。
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2日目は短かった。
午前に処置、午後に食事量の確認、夕方に傷の様子をもう一度見る。アークは草を出すと唸りが収まるというパターンを覚え始めたようだった。頭が良い。昨日より草を食べる前から唸りが低くなっていた。
夕方、外から施設を見た久保田から電話が来た。「でかいですね」と言った。「そうですよ」と答えた。それだけで電話が終わった。久保田もわかっていた。今は近づく時期ではない。
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3日目になると、レグが変わった。
朝の処置に向かう悟の肩に、するりと乗ってきた。悟が特別エリアの扉を開けると、レグは肩の上から中を見た。首を少し伸ばして、アークを観察している。
アークがこちらを見た。レグを見た。
唸らなかった。
鼻をひくつかせて、また地面に目を落とした。
悟は処置を続けながら、レグが肩から落ちないよう少し体を傾けた。レグの爪が作業着に引っかかる。多少痛い。でも降ろす気にもなれなかった。
「見たいんですか」
レグが短く鳴いた。
「そうですか」
処置の間、レグはずっと肩の上にいた。アークの方を見たり、悟の手元を見たり、飽きない様子だった。
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夜になった。
施設全体が静かだった。いつもの静けさとは少し違う。音が少ないのではなく、空気の質が違う感じがした。大きい体が近くにいる、その感触が施設に満ちている。
悟は事務所に戻って、ノートに追記した。
「3日目。処置への抵抗が減った。草の束なしで処置開始できるかもしれない。レグが肩に乗って観察。アーク側も特に反応なし。ガッシュは相変わらずエリア付近を念入りに掘っているが、アーク側には近づかない。平和な分離。施設の空気が変わった。大きい子が来るとこうなる」
書き終えてから少し考えた。
大きい子が来ると施設の空気が変わるな、と思った。悪い変化ではない。ただ違う。みんなが少しだけよそ行きになる。それが数日経つと、また日常に溶けていく。
以前もそうだった。
電話が鳴った。
「はい、まもの預かり所・さとるです」
「どうも、探索者組合の田中と申します。先日ご案内したんですが、今週末にご訪問させていただいてよろしいでしょうか」
「ええ」
「突然で申し訳ないんですが、少しお話ししたいことがありまして」
「どうぞ」
悟はノートを閉じた。




