第26話 落ち着いた
アームドビアが草の束を食べた。
音が出た。草を噛み砕く、乾いた音だ。鼻がひくつきながら、束ごと口に引き込んでいく。
悟はその間に、ゆっくりと横に回り込んだ。正面から外れて、体の側面に近づく。アームドビアの目がちらりと悟を見たが、唸らなかった。草が口の中にある間は、意識が少しそちらに向く。
右後ろ脚が見えた。
毛並みが乱れている。脚の付け根から下にかけて、赤黒い色が広がっていた。
(深い裂傷。化膿の手前だ。処置が必要)
思ったより傷は深かった。皮膚が裂けて、その周囲がわずかに腫れている。昨日からこの状態でいたなら、痛みは相当なものだ。それでもここまで動き続けていた。丈夫な個体だ。
悟はゆっくりと体を起こした。アームドビアの横に立ったまま、白石の方に向かって手を上げた。
手のひらを開いて、ゆっくりと動かす。
白石がうなずいた。
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移送用の大型車両が、ゆっくりと近づいてきた。荷台が開いている。内側に干し草が敷かれている。悟が昨日の夜に指定した量と種類だ。
アームドビアが顔を上げた。エンジン音に反応した。耳が動いた。体がわずかに固まる。
「大丈夫ですよ」
悟は声をかけた。低く、平らに。アームドビアの耳が悟の方に向いた。
草の束をもう一つ取り出して、地面に置いた。荷台の方向に向けて、少し引くようにしながら。アームドビアが鼻をひくつかせて、草の方に歩いた。右後ろ脚をかばいながら、それでも歩いた。
荷台の前まで来た。悟が荷台に手をかけた。もう一束、中に投げ込む。
アームドビアが荷台の縁に前足をかけた。体重を乗せた。荷台が少ししなった。そのままゆっくりと乗り込んでいった。
悟が扉を閉めた。
「よし」
小さく、誰にも聞こえない声で言った。
荷台の中で、アームドビアが干し草を踏む音がした。落ち着いている。
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久保田が膝に両手をついた。
「よかった……」
声が出た。膝が少し笑っていた。地面を見て、それから顔を上げて、深く息を吐いた。肩がようやく下がった。
白石が横で手帳を開いて、素早くペンを走らせた。メモの速さが異常だった。
「11時14分、移送完了」
書き終えてから、少し間を置いた。手帳を閉じた。
「お疲れ様でした」
白石が頭を下げた。
悟は荷台に手を置いたまま、白石を見た。
「乗り越えてくれたのはあいつですよ」
白石が顔を上げた。何か言おうとして、止まって、うなずいた。それだけだったが、悟にはそれで十分だった。
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駆除チームのリーダーが近づいてきた。がっしりした体格で、四十代ぐらいだろうか。無言で悟の前に来た。
少し黙っていた。
「……判断は正しかったです」
それだけ言って、踵を返した。部下の方に戻っていく。後ろ姿が少しだけ固い。
久保田が小声で言った。
「あれ、謝罪ですか」
「そうだと思います」
「ぶっきらぼうな人ですね」
「仕事の人ですから」
「悟さんも大概ぶっきらぼうですけどね」
「そうですか」
久保田が苦笑いした。
悟は荷台をもう一度見た。中でアームドビアが落ち着いている。乾し草を踏みながら、体を横にしようとしていた。重心をかけないように右後ろ脚をかばいながら、それでもゆっくりと横になった。
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「悟さん」
久保田が隣に来た。
「なんで怖くなかったんですか」
悟は少し考えた。
「怖かったですよ」
「え」
「普通に怖かったです」
久保田がぽかんとした顔をした。
「じゃあなんであんなに平気そうだったんですか」
「でも今必要なことはあれだったので」
久保田が眉を寄せた。しばらく考えてから、また言った。
「意味はわかるんですけど、すごくないですか、それ」
「慣れですよ」
「慣れで怖さを飲み込めるんですか」
「飲み込むというより、別にしておく感じです。怖いかどうかと、今すべきことかどうかは、別の話なので」
久保田がもう一度考えた。それから、少しだけ笑った。
「悟さんらしい」
「普通ですよ」
「普通じゃないです」
久保田がもう一度荷台を見た。それからため息をついた。安堵のため息だ。
「ほんとによかった」
悟は何も言わなかった。同じことを思っていたが、声にはしなかった。
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車が動いた。アームドビアを乗せた大型車が、ゆっくりと施設に向かって走り出す。白石がその後を追うように自分の車に乗り込んだ。
久保田が「先に戻ってます」と言って手を上げた。
悟は少し遅れて車に乗った。エンジンをかけて、ハンドルを握った。手が少し固い。今更だ、と思った。
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施設に戻ると、レグがいつもの場所にいた。
飼育スペースの入口付近、悟が出入りする扉の前だ。そこに丸まって、待っていた。
悟が中に入った。レグが顔を上げた。
じっと見た。
悟の顔を、しばらくそのまま見ていた。いつもとは少し違う目だ。
「ただいま」
レグが短く鳴いた。「ふるる」と、いつもより少し高い音だった。それから立ち上がって、のっそりと悟の足元に来た。
悟はしゃがんで、レグの頭に手を置いた。温かい。
「心配してましたか」
レグが目を細めた。答えない。でも離れなかった。




