第25話 悟の接近
朝の空気が冷たかった。
現場は東区の外れ、住宅地が途切れて空き地になっている場所だ。草が伸びて、その奥に低い林が続いている。アームドビアはその境目あたりにいた。
悟は車を降りた。装備はいつもと変わらない。作業着、軍手、それから布袋一つ。
白石が近づいてきた。
「駆除チームは北側で待機中です。悟さんが合図を送るまで動きません」
「わかりました」
「無線、持っていきますか」
「邪魔になります」
白石が少し顔をこわばらせてから、うなずいた。
「……了解です。何かあれば手を上げてください。こちらからすぐに動きます」
悟はうなずいた。久保田が少し離れた場所に立っている。腕を組んで、口を一文字に結んでいた。目が合った。久保田は何も言わなかった。
悟は正面に向き直った。草むらの向こうに、黒い塊が見えた。
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悟は草むらの縁から、アームドビアに向かってまっすぐ歩いた。
体長は二メートルを超えている。背中の甲殻が朝の光を反射している。昨日よりも動きが少ない。昨夜の疲弊か、痛みで体力が落ちているか。頭を低くして、草の根元に鼻を近づけていた。
歩き方はやはり乱れている。右後ろ脚への体重のかけ方が、左右で違う。映像で見たとおりだ。
五十メートル。四十メートル。
悟は歩くペースを変えなかった。速くもなく、遅くもなく。視線はアームドビアに向けたまま。
アームドビアが顔を上げた。
悟が足を止めた。
唸り声が来た。低い、腹の底に届くような音だ。草が揺れた。体が一歩後ろに下がりたがるが、足は動かさなかった。
立っていた。ただ、そこに。
アームドビアの目が悟を見ていた。黄色い目だ。虹彩が大きく開いている。警戒か、恐怖か、それとも両方か。悟には見分けがつく気がした。
怒っているのではない。怯えている。痛みを抱えたまま、何かが来るたびに身構えている。そういう目だ。
一歩も動かなかった。
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三十秒が過ぎた。
悟はゆっくりとしゃがんだ。急がずに、膝を折って、地面に近い位置に体を下ろした。視線は外さない。正面を向いたまま、体の高さだけを下げた。
草が濡れていた。膝が湿った。気にしなかった。
(右後ろ脚を確認する必要がある)
頭の中で考えた。感情ではなく、実務として。あの脚の状態を見なければ処置の方針が立てられない。どの程度の損傷か、化膿が始まっているか、骨に達しているか。近づかなければ確認できない。だから今ここにいる。
それだけだ。
アームドビアの唸りが続いていた。
一分が過ぎた。
悟は動かなかった。地面に膝をついたまま、目を逸らさずにアームドビアを見ていた。風が草を揺らした。アームドビアの鼻がひくついた。
唸りのトーンが、少しだけ変わった気がした。
高く鋭い音ではなく、やや低く、平らになってきている。
いい傾向だ。まだ近づくべきではないが、方向はいい。
悟はそのまま待った。体重を均等に分散させて、長く保てる姿勢を維持した。動物に接近するとき、急ぎたい気持ちは邪魔になる。今すべきことは、ここにいることだけだ。
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「動かないでくれ」
久保田が小さく言った。声に出したつもりはなかったが、出ていた。白石が横にいた。
白石は無表情だった。手帳を持っていたが、書いていない。手が止まっている。手帳を持つ手の指が、白くなっていた。
遠くから駆除チームリーダーがこちらを見ていた。腕を組んで、眉間に皺を寄せている。部下が何か言ったが、リーダーは手を上げてそれを制した。
「……本当にいくか」
呟いた声が聞こえた。久保田には誰に言ったかわからなかった。
現場に入っているのは悟一人だ。駆除チームは北側で止まっている。久保田も白石も動けない。何か起きたとき、全員がここから走ることしかできない。
久保田はその事実を、ずっと頭の端に置いていた。
白石が少し動いた。久保田が見ると、白石は手帳を体の横に降ろしていた。書くのをやめて、ただ悟を見ていた。
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二分が過ぎた。
アームドビアの唸りが、ゆっくりと下がっていた。消えたわけではない。でも変わっていた。低く、静かな音になってきている。
悟は布袋に手を入れた。ゆっくりと、引き抜かないようにして、中に手を入れた。指先に乾燥した草の束が触れる。昨日の夜に準備したものだ。
地面に置いた。
そっと、音を立てないように。草の束を地面に置いて、手を引いた。
アームドビアの鼻がひくついた。
頭が少し動いた。草の束の方に向いた気がした。
悟はそのまま動かなかった。体重を膝に置いて、ただ待った。焦る必要はない。急げば唸りが戻る。このペースでいい。
アームドビアが首を伸ばした。草の束に鼻を近づけていく。
少しずつ、少しずつ。
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久保田の背中から汗が出ていた。腕組みしていた手が、いつの間にかほどけていた。手のひらが湿っている。
白石がわずかに前傾みになった。気づかずにそうなっているのだろう。風が止まった。
アームドビアの鼻が、草の束に触れた。
久保田が息を止めた。
悟がゆっくりと、一歩だけ進んだ。




