第23話 後ろ脚が悪い
現場は市内東端の住宅地から外れた空き地だった。
朝七時に施設の前で白石の車に乗った。久保田はすでに後部座席にいた。白石は挨拶の後、すぐ前を向いた。余計な話はしない人間だ。「昨日の状況を共有します」と白石が言って、車内で簡単な説明があった。逸脱から約三十時間。個体は昨夜から同じ場所を動いていない。
車で二十分ほどで着いた。
管理局の車が三台止まっていた。白石の車と、大型のワゴンが二台。ワゴンから降りてきた人間は装備が重い。Bランク対応の機材だ。駆除チームのメンバーが数人、すでに所定の位置についていた。
悟は白石の隣に立った。久保田は後ろにいる。
「あそこです」
白石が指した先、百五十メートルほど離れた場所に、アームドビアがいた。
空き地の隅、コンクリートのブロック塀に背をつけた状態で動いていない。体が大きい。この距離でも甲殻の質感と、牙の白が見えた。頭を低くして、時々揺れている。
「双眼鏡を使っていいですか」
「どうぞ」
悟は双眼鏡を出して覗いた。
体の状態を順番に確認する。頭部、頸部、背甲の状態。左前脚、右前脚。右前脚のつま先付近の荷重を見る。強い。左右で荷重が違う。腹部のふくらみは普通だ。脱水や内臓の問題ではない。左後ろ脚、右後ろ脚。
映像で見た時と同じだった。右後ろ脚への荷重が、明らかに少ない。立った状態でも、右後ろ側の体幹が少し沈んでいる。これは映像越しではなく、実物を見ると一層はっきりわかった。
右後ろ脚を確認した。
双眼鏡から目を離した。
「後ろ脚が悪い」
駆除チームのリーダーが振り向いた。四十代くらいの男だった。体格がいい。装備の胸のところに管理局のマークと、Aランクの識別章がついている。
「右後ろ脚に深い裂傷があります。怪我で暴れています」
「根拠は」とリーダーが言った。問い返しではなく、確認の口調だ。懐疑的な声だった。
「右前脚の荷重パターンと首の傾き。あと時々バランスを崩している」
「それだけで断言できるんですか」
悟はリーダーを見た。
「できます」
リーダーが少し口を閉じた。返す言葉を探している様子だった。
白石が一歩前に出た。
「この方は元動物園の飼育員です。魔物の行動観察において専門的な経験があります」
リーダーが白石を見た。
「管理局として?」
「管理局が承認した専門意見として記録します」
静かな声だった。白石の声は現場でも変わらない。淡々と、しかし引かない。
悟は白石を横目で確認した。白石はすでに手帳を構えていた。記録しようとしている。今この場で、公式の記録として残そうとしている。悟がここで意見を述べれば、それは管理局の記録に残る専門家の意見になる。
リーダーが一呼吸おいて、悟の方を見た。
「……続けてください」
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悟は再び双眼鏡を上げた。
アームドビアが頭を持ち上げた。こちらの気配に気づいたかもしれない。悟は動かなかった。視線を外さず、双眼鏡を通して動きを読む。
頸部の筋肉の動き。目の向き。耳の位置。こちらを認識しているが、すぐには動かない。体のどこかが痛い時、大型の草食魔物は動くことを嫌がる。刺激がなければ止まっていようとする。
右後ろ脚が光を受けた。鱗の隙間から、暗い変色が見えた。甲殻の下、脚の外側。血が固まった色だ。
「裂傷の深さはかなりあります。だいぶ痛いはずです。あの暴れ方は攻撃ではなく、痛みによる方向転換の繰り返しです。こちらを狙っているわけではない」
「怪我をしていたとして、対処は変わるんですか」と久保田が後ろから聞いた。
「変わります。駆除しなくていいかもしれない」
リーダーが反応した。
「駆除しない?」
「怪我を処置すれば落ち着きます。草食で、本来は温和な種です。現状の暴れ方は、ほぼ痛みが原因です。除痛と安静が取れれば、攻撃的な行動は収まる可能性が高い」
「可能性、ですか」
「高い確率です。断言はしません。でも試す価値はあります」
リーダーが腕を組んだ。双眼鏡を自分でも上げて、アームドビアを見た。数十秒、黙っていた。アームドビアは相変わらずブロック塀に背をつけたまま、頭を揺らしている。動こうとして、右後ろを踏んで、また止まる。それを繰り返している。
後ろで久保田が小声で言った。
「やっぱりそうでしたよね」
白石が手帳に書き込んでいた。今のやりとりを記録しているのだろう。ページを繰る音がした。悟は横目で確認して、視線を戻した。
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リーダーが双眼鏡を下げた。
「では、どうするつもりですか」
悟は少し考えた。
ノートの中の記録を思い返す。アームドビアの処置。裂傷の対応。大型草食魔物の鎮静方法。施設のスペース。成体一トン近くの個体を受け入れるには、外の飼育エリアに手を入れる必要がある。でも、できないことではない。ガッシュのスペースを一時的に広げれば、何とかなる。
「処置して施設に移送できます」
リーダーが止まった。
「うちで引き取ります」
場が静かになった。白石が手帳から目を上げた。リーダーが悟を見ている。久保田が後ろで息を呑む音がした。アームドビアが遠くで頭を振った。
悟は双眼鏡を袋にしまった。
「慣れですよ」




