第21話 丘ダンの逸脱
「悟さん、アームドビアって知ってますか」
久保田の声が電話越しに聞こえた。背後に人の声と、急いた足音が混じっている。組合の中にいるらしい。
「甲殻と牙を持つ大型哺乳類型。成体は一トン近くなります。第十七号に生息が確認されている種です」
「即答ですね……」と久保田が少し呆れた声で言った。「それが逸脱したんです。今朝早く丘ダンジョンで。Bランク相当」
悟は手に持っていた草の束を桶の縁に置いた。
「逸脱の規模は」
「一頭です。単体。ただ大型なので被害が出てて、民家の壁を破って、今も市内の東端の方で動きを止めていないみたいで。管理局が駆除チームを組む予定です。組合の方でも情報共有が始まってます」
「わかりました」
「悟さんのところは問題ないですか。距離的には離れてますけど、念のため」
「施設は問題ないです。ありがとうございます」
電話を切った。
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悟はレグにやりかけだった草の補充を終えてから、事務スペースに戻った。ガッシュがちょうど縁側に出ていくところだった。今日も日向ぼっこをするつもりらしい。悟がテレビをつけると、すでに速報のテロップが流れていた。
「東楠市東区・丘ダンジョン周辺、大型魔物逸脱による警戒区域設定のお知らせ」
画面の端にBテロップが流れながら、映像が切り替わった。ドローンか、高い視点から撮影した映像だ。画質が荒く、震えている。
映像の中央に、大きな黒い塊が動いていた。
アームドビアだ。背中の甲殻が光を反射している。体格は映像越しでも見当がつく。成体。かなり大きい個体だ。周囲の家屋の塀や、駐車している車と比べると、体長は二メートルを超えているかもしれない。
悟は画面を見続けた。
アームドビアが頭を振った。方向を変えて、また動く。歩き方が荒い。速い、というより乱れている。直線で進めていない。
悟は眉を寄せた。
「……脚の動きがおかしい」
レグが膝に飛び乗ってきた。悟がテレビを見ているのに気づいて、邪魔しに来たのだろう。体重が一気にかかる。
「重い」
レグが気にした様子もなく、丸まった。尻尾が膝の上に乗った。重い。それでも悟は画面から目を離さなかった。
映像の中のアームドビアが、また歩調を乱した。右後ろ側、そこに体重が乗っていない。前に進むたびに、ほんのわずかだが、体が右に傾ぐ。体幹で補正しているのがわかる。何かをかばっている。
テロップが流れていた。「専門家の話では、ストレス状態になった大型魔物は攻撃性が増す場合があり……」。違う。ストレスではない。悟にはそう聞こえなかった。
「右後ろ脚をかばってる」
スマートフォンが鳴った。久保田からだった。
「悟さん、テレビ見てますか。映像出てますよね」
「見てます」
「やっぱりすごいですね。あんなの見たらびびりますよね。管理局は今日中に駆除チームを現地に向かわせるって言ってます。組合も情報共有に入ります。なんか、あの動き方、怒ってますよね。普通に見てもわかる」
「……」
「悟さん?」
「いや、なんでもないです」
「え? 何か言いましたか」
「なんでもないです」と悟は繰り返した。「情報ありがとうございます」
「あ、はい。何かあったらまた連絡します」
電話が切れた。
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レグが顔を上げて悟を見た。
「普通ですよ」
レグが「ふるる」と鼻を鳴らした。
悟はテレビの音量を少し下げた。映像はまだ続いている。解説の声が聞こえる。「逸脱の原因は不明。管理局では……」。
原因は不明。そうだろう。映像を見た人間には、荒れた大型魔物がいる、それだけに見える。暴れているように見える。なぜ暴れているかは、映像からは読み取れない。
でも。
脚の動きを見ていれば、わかる。怪我をしている。痛みで方向転換を繰り返している。攻撃しているのではなく、逃げようとしているか、あるいは痛みに耐えながら動けなくなっている。そういう動きだった。
悟はテレビを消して立ち上がった。レグが膝から転げ落ちそうになって、慌てて踏ん張った。
「すみません」
レグが「くぅ」と文句を言った。
悟は棚の方に歩いた。黒いノートが並んでいる背表紙を指でなぞる。「大型有蹄類型」「甲殻系哺乳類型」。甲殻系哺乳類型の記録帳を抜き出した。
夜、机の上にノートを開いた。アームドビアの項目を探してページを繰る。行動記録、生態観察、参考文献からの写しが並んでいる。
ページの中ほどに、以前書き込んだ一文があった。「傷を負った個体は方向感覚が乱れ、痛みによる方向転換が頻発する。群れから離れた状態では攻撃的になる傾向あり」。書いた日付は三年前だ。別の個体の観察記録から写したものだったが、今日見た映像とほとんど一致している。
悟はボールペンを取って、今日の日付を書き込んだ。
「映像観察。市内東区逸脱個体。右後ろ脚への体重負荷に異常あり。歩調の乱れと傾きの方向から、右後ろ脚に損傷の可能性」
書いてから、少し考えた。
管理局が駆除チームを組む。専門家が現地を確認する。それで十分かもしれない。自分がわざわざ口を出すことでもない。自分は施設の人間で、ダンジョン対応の専門家ではない。
悟はペンを置いた。
でも手が止まった。
ノートを閉じずに、もう一度ページを見た。「傷を負った個体は……」。もし駆除チームが怪我に気づかないまま対応に入ったら、どうなるか。怪我で苦しんでいる個体を相手に駆除を試みれば、個体も激しく抵抗する。チームの人間が危険にさらされるかもしれない。
悟はノートを閉じた。




