第2話 スライムの環境問題
午後になって、久保田から連絡が入った。
「神崎さん、また来てますよ。今度はスライム系です」
「場所は」
「施設の南の水路沿いです。動きがおかしくて。探索者が何人かいたんですけど、よくわからないって言って立ってます」
悟は道具袋に水質測定キットを追加してから出た。
水路の縁にそれはいた。エコゾルスライム。半透明のゲル状の魔物で、直径は三十センチほど。通常は水中を漂うように動くはずだが、今は岸に乗り上げてぐったりしている。色も本来の青みがかった透明ではなく、濁った白に近い。
「これ、死にかけてるんですか」と久保田が横から言った。
「死にかけてはいないけど、具合は悪いですね」
悟はしゃがんで水路の水を採取した。試験紙を浸す。pH、塩分濃度、硬度。数値を見ながら頭の中でデータと照合する。去年、市のホームページに公開されていた第17号ダンジョンの環境調査報告書。何の気なしに読んでいたやつだ。
「ダンジョン内の水と外の水で、溶質濃度が違うんですよ。こいつは外の水に適応できていない」
「……溶質?」
「塩分とかミネラルの量です。ダンジョン内の水はちょっと特殊な組成をしてるんで、外に出ると体の浸透圧が崩れる。要するに、合わない水の中にいるから弱ってる」
「そんなことわかるんですね」
「動物園でも、海水魚の水槽は毎日水質管理してましたから。慣れですよ」
「また慣れって言う」
久保田がつぶやいたのが聞こえたが、悟はもう次の手順を考えていた。
施設に戻って水槽を準備した。ダンジョン管理局が公開している水質データをもとに塩分量とpHを手動で調整する。一度で合わせるのは難しいので、少量の水でスライムの反応を見ながら段階的に環境を作っていく。三十分かけて丁寧に水換えをしながら、スライムの体表の濁りが引いていくかを確認する。
作業のあいだ、悟は手を動かしながら頭では別のことも考えていた。スライム系の魔物を扱うのは初めてだ。体の構造も、必要とする環境も、陸上の動物とはまるで違う。ここで積み上げた記録が、次に同種の魔物が来たときに役立つ。だから記録する。動物園でも、新しい個体が来るたびに観察日誌をつけていた。その習慣は今も変わらない。
「なんか……料理みたいですね」と久保田が脇から言った。
「そういう感覚に近いかもしれないですね、水質調整は」
「おいしそうには見えないですけど」
「それはそう」
一時間後、スライムがゆっくりと動き始めた。濁りが引き、本来の青みがかった透明を取り戻している。水槽の底から天面へ、ゆったりと漂うように泳いでいる。
「よし」
レグが水槽の外側を遠巻きに見ていた。スライムには近づかない。本能的に「これは触れていいものではない」と判断しているのだろう。一方、ムクは水槽のガラス面にべったり張り付いて、目をぐりぐりさせながらじっとスライムを観察していた。
「ムク、邪魔」
触手を一本だけゆっくり持ち上げ、のろのろと離れた。それでもすぐに別の角度から張り付いた。
悟の施設には現在、レグ・ムク・ガッシュ・リンと、昨日引き取ったばかりの若いドレイクがいる。スライムが加わると六体目だ。狭い施設ではあるが、各個体に合った環境さえ作れれば共存は難しくない。そのための記録であり、調整だった。
水質の調整値をノートに書き込んでいると、背後で軽い水音がした。
振り向くと、悟の水筒のフタが開いている。
そしてそこに、半透明のゲルがのぞいていた。
「…………」
「え」と久保田が言った。「水筒の中に入りましたよね、今。見ました」
「見てましたよ」
「入りましたよね」
「見てましたよ」
悟はゆっくりと水筒を持ち上げた。中でスライムがゆらゆらと漂っている。どうやら水筒の中の水温と成分がちょうどよかったらしい。完全にくつろいでいる。
「……出てください」
スライムはゆっくり、水筒のふちを乗り越えて外へ出た。行儀よく水槽に戻った。
「怒らないんですね」と久保田が言った。
「怒っても仕方ないですよ。水質が合ってたんでしょう、うちの水道水と私の水筒が。ちょうど」
「神崎さんの水筒が快適環境だったわけですね」
「そういうことになりますね」
悟は水筒を洗いながら、これは蓋をする習慣をつけないといけないな、と思った。施設に魔物がいる以上、開口部は管理しないといけない。今更ではあるが。
水槽の調整値と観察記録をノートに書いて、最後に一行だけ添えた。「水筒への侵入あり(蓋の管理を徹底すること)」。そのすぐ下に「当面、水槽環境の安定を優先。引き取り継続」と書き加えた。
夜になって施設が静かになると、ガラスの向こうでスライムがゆっくりと揺れていた。水槽のライトを受けて、きれいな青みがかった透明に輝いている。
レグが悟の横に来て座った。スライムの方を一度だけ見て、それからそっぽを向いた。興味はあるが認めたくない、という態度に見えた。
「いい子だよ」と悟は言った。誰に言っているのかは自分でも少しあいまいだった。
翌朝、久保田から短いメッセージが届いた。
「鳥系の魔物が飛べなくなってるって報告があるんですけど、見てもらえますか」
悟は「持ってきてください」と返信して、ノートに今日の給餌メモを書き始めた。




