第19話 ガッシュの具合が悪い
朝、ガッシュが草を食べなかった。
給餌の時間になっても飼育スペースの隅に小さくなっていて、差し出した草の束に鼻を向けもしない。悟はしゃがんでガッシュの顔を覗き込んだ。目は開いているが、いつもの落ち着いた光がない。
「具合が悪いか」
声をかけても動かなかった。
悟は手袋をはめて、ガッシュの背中に手を当てた。熱い。昨日の朝よりも明らかに高い。指で耳の後ろを確認すると、変色が見えた。皮膚の一部が、鱗の隙間から赤みがかってざらついている。
悟は立ち上がって、棚の方に歩いた。
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棚の二段目に、黒いノートが並んでいる。種別ごとに分けてある記録帳だ。悟が施設を始めた当初から書き続けてきたもので、今では十数冊ある。背表紙には種別と内容が鉛筆で書いてある。「ドレイク系:行動記録」「タコ型:環境調整」「猪型:疾病記録」。背表紙に「猪型:疾病記録」と書かれたものを抜き出した。
ページをめくる。ガッシュが来てからの記録と、その前に別の施設から一時預かりをした猪型の記録と、専門誌や参考文献から書き写した症状一覧。魔物専門の獣医はまだほとんどいない。魔物を診てもらえる病院も東楠市にはない。治療が必要になった時、どうするかは自分で考えるしかなかった。
二年前のページに似たような記録があった。
「耳の後部および首筋の変色。体表炎症型。原因は感染性の可能性あり。経過:三日目に自然緩解。対処:隔離、冷却、湿布(魔物用薬草系)。軽症の場合は薬物投与不要」
前回も同じ症状だったということは、この種の魔物に繰り返し出やすい症状なのかもしれない。悟はそのページに付箋を貼った。
悟はノートを閉じた。
「軽症ですね」
ガッシュが遠くから鼻を鳴らした。しょんぼりした鳴き方だった。
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まず隔離した。
施設の東側に予備スペースがある。普段は資材置き場に使っているが、区切りがあって換気もいい。ガッシュを誘導すると、ガッシュは抵抗せずについてきた。それだけでも元気がないのがわかった。普段なら途中で草を食もうとしたり、壁の石を掘ろうとしたりする。
スペースに入ってからも、隅に座ったまま動かない。
悟は水入れを新しくして、冷やしたタオルを背中に当てた。それから薬棚から袋を取り出す。魔物用の薬草を乾燥させて粉末状にしたもので、水で溶いてガーゼに含ませ、湿布として使う。人間用の市販薬は魔物には使えない。専用品は種類が少なくて値段も高いが、これは何度か試して効いた実績がある。
耳の後ろの変色部分に湿布を当てた。ガッシュが少し体を縮めたが、逃げなかった。じっとしていた。体が大きい分、おとなしくされると楽だ。
「大丈夫ですよ。三日くらいで治ります」
ガッシュは返事をしなかった。ただ、鼻を一回鳴らした。しょんぼりした音だった。
「わかってますよ、しんどいですよね」
ガッシュが少し顔を上げた。また、しょんぼりした音で鳴いた。
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レグがやってきたのは昼前だった。
隔離スペースの入り口をうろうろして、中を覗いていた。ガッシュの様子を確認したいのだろう。悟が「入らないで」と言うと、入り口の前で座って待ち始めた。
「大丈夫だから」
レグが悟を見た。
「ほんとに大丈夫ですよ。ちょっと熱があるだけです」
レグが「ふるる」と鼻を鳴らして、それからその場に伏せた。待つつもりらしい。
ムクはその日の午後、ガッシュがいつも寝ていた場所のそばに来て、じっとしていた。何をしているのかわからなかったが、夕方まで動かなかった。体の色は静かな灰色だった。心配しているのか、それとも場所のにおいが気になるだけなのか。悟には判断できなかった。
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三日後。
朝の確認でガッシュの背中に手を当てると、体温が戻っていた。変色も薄くなっている。
「治りましたね」
ガッシュが顔を上げた。今度は目に光がある。差し出した草の束に、今日は鼻を近づけた。それからもしゃもしゃと食べ始めた。
「よかったです」
隔離を解除して、ガッシュを元のスペースに戻した。ガッシュは戻るなり、壁際に近づいて地面を掘り始めた。好きな場所の土を掘る、いつもの行動だ。
悟は苦笑いした。
レグが走ってきて、ガッシュの鼻先に自分の鼻を押しつけた。ガッシュが一瞬だけ掘るのをやめて、それからまた再開した。それで十分だったのだろう。
悟は記録帳を開いた。
今回の経緯を書き込む。発症日、症状、対処内容、回復日数。次に同じことが起きた時に使えるように、細かく書く。薬草湿布の濃度と当て方も書き加えた。前回の記録より少し詳しくなった。
施設を始めてから積み上げてきた記録が、ここにある。病院に連れて行けない魔物を診るための、悟なりの手がかりだ。不完全で、確実とは言えない。それでも、今回もこの記録が役に立った。
ノートの余白に、今回気づいたことをもう一つ書き加えた。「発症前日:飲水量の低下。食欲の軽度低下。体温は翌朝に明確に上昇。早期発見の指標になる可能性あり」。
次に同じことが起きた時、もう少し早く気づけるかもしれない。
ノートを閉じてから、悟はガッシュを見た。もう全力で壁を掘っている。土が飛んでいる。レグが少し離れた場所でその様子を眺めていた。
「そこ、先週埋め直したんですが」
ガッシュは止まらなかった。土が悟の足元まで飛んできた。
まあ、元気なら問題ないか。
悟はノートを棚に戻して、スコップを取りに行くことにした。
翌日、久保田が顔を出した。
「ガッシュ、治ったって聞きましたけど」
「誰から聞いたんですか」
「悟さんがSNSに書いてたじゃないですか、『施設の猪型、回復しました』って。フォロワーのCランクが教えてくれて」
悟はそのことをすっかり忘れていた。経過報告のつもりで投稿していたが、読んでいる人間がいるらしい。
「よかったですね」と久保田は言って、ガッシュをしばらく眺めた。ガッシュは今日も壁を掘っていた。「元気ですねえ。具合が悪かったとは思えない」
「体質なんですかね。回復すると一気に戻ります」
「羨ましいな」
「久保田さんが猪型になりたいですか」
「なりたくないですけど」
久保田がそこで少し笑ってから、「そういえば」と続けた。
「最近、探索者組合が悟さんのこと、興味持ってるらしいんですよ」




