第17話 柵の外の子供たち
掃除の途中でそれに気づいた。
施設の西側、金属製の柵の向こうに三つの頭がひょっこり並んでいた。小学校の低学年くらいだろう。ランドセルは背負っていないが、学校帰りといった雰囲気だ。一人が指をさして、小声で何かを言っている。
「タコみたいなのがいる」
声が届いていた。ムクのことだろう。柵の近くにある水槽の縁に吸盤で張り付いて、ぼんやりしている。
悟はブラシを持ったまま、首だけ向けた。
「見る?」
静かに、普通に言っただけだった。
三人が一瞬固まって、それから一斉に走り出した。足音が遠ざかる。振り返りもしない。
悟はブラシを動かしながら、まあそうなるか、と思った。
ムクが触腕を一本だけぴんと伸ばして、子供たちが去った方向をしばらく指していた。それからゆっくり引っ込めた。何を思っていたのかは、わからない。
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翌日の昼前、また来ていた。
今度は四人だ。昨日とは違う子が一人増えている。全員、柵の外で横並びになって、中を覗いている。悟が気づいても、今日は逃げなかった。じっとしている。逃げるかどうか迷っているのか、単純に好奇心が勝ったのか。
悟は声をかけなかった。
代わりにムクを連れて、水槽の掃除をするふりで柵の近くに来た。ムクは悟の腕の上にいて、吸盤をゆっくり動かしながら周囲を見ている。体の色が今は薄い緑だ。
子供たちがひそひそし始めた。
「色、変わってる」
「光ってるじゃん」
「本当にタコ?」
悟はムクの様子を確認しながら水槽の底を拭いた。ムクが柵の方向に目を向けた。三つ並んだ目が、子供たちの方を見ている。
子供たちが静かになった。
しばらくして、一人が柵の手すりをつかんで前に出た。女の子だった。
「……それ、さわれますか」
小さな声で、でもはっきり聞こえた。
「触り方を守れるなら」
「触り方って」
「自分から追いかけない。逃げたら手を離す。力を入れない」
女の子が「わかった」と言った。残りの三人が「私も」「ぼくも」と声を揃える。
悟はムクを腕ごと柵の近くに運んだ。ムクはのんびりした様子で、特に警戒した気配はない。体が薄い黄色に変わった。
子供たちの一人が指を伸ばして、ムクの触腕にそっと触れた。
「ぬるっとしてる!」
声が弾んだ。驚きと喜びが混ざったような声だ。ムクが触腕を少しだけ動かして、指先に絡ませた。子供がきゃっと声を上げたが、逃げなかった。
「離さなくていいの?」
「大丈夫です。引っ張らなければ」
残りの三人も代わる代わる指を伸ばした。ムクは特に嫌がらなかった。体の色がゆっくりと薄い橙に変わっていく。機嫌がいい時の色だ。
レグが内側からじっとこちらを見ていた。子供たちが気になるらしく、柵に沿ってうろうろしている。悟と目が合った。
「あっちにいる爬虫類みたいなのは何?」
男の子の一人が指さした。
「ウォームドレイクです。ドラゴンの親戚みたいなやつ」
「ドラゴン!」
「小さいですけどね」
レグが尻尾を一回動かした。見られているのはわかっているだろうが、それ以上は近づいてこない。自分のペースがある。
「触れないの?」
「今日は難しいです。あの子は人見知りなので」
「ドラゴンが人見知り」
「ドラゴンの親戚ですが、まあそういうこともあります」
男の子が笑った。ムクの触腕がその子の指にぐるりと巻きついて、すぐ離れた。おもちゃを手放すような動きだった。
子供たちが帰ったのはそれから十五分ほど後だった。ランドセルを背負い直して、坂を下りていく。一人が振り返って手を振った。悟が軽く手を上げると、その子が嬉しそうに走り出した。
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翌々日、また来た。
今度は五人になっていた。みんな同じ学校の子だろう、制服ではなく私服だが、どこか似たような色味の服を着ている。そして今日は悟が声をかける前に、一人が先に口を開いた。
「あのタコのやつ、また触っていいですか」
「ルール、覚えてますか」
「追いかけない、逃げたら手を離す、力を入れない」
「正解です」
五人がどっと柵に近づいてきた。ムクは今日もおっとりしている。子供たちに慣れてきたのか、昨日よりも触腕の動きが積極的に見えた。
帰り際、一番よく喋る男の子が「ここ、もっと来ていいですか」と聞いた。
「柵の外からなら」
「中には入れないの」
「今は難しいです」
「なんで」
「いろいろありまして」
男の子はふーん、と言って少し考えた。それから「先生に話したら来ていいか聞いてみます」と言って走っていった。
悟は子供たちの後ろ姿を見送ってから、久保田に電話した。
「久保田さん、最近子供が施設の柵の外を覗きに来ているんですが、地域の子なんですかね」
「ああ、そうですね。この辺の小学生だと思いますよ。あ、もしかして背の低い男の子が一人いませんでした?ちょっと声の大きい感じの」
「います」
「それ、田所さんちの子だと思いますよ。ほら、以前施設に苦情を出したっていう」
悟はしばらく黙った。
「そうですか」
「何かありましたか」
「いえ。普通ですよ」
電話を切って、悟は今日の記録を書き始めた。来訪者:小学生・複数名。対応:見学応対。ムクの状態:良好。
田所さんの子か、と思ったが、それについて特に何かを考えるわけではなかった。来た子供には普通に接すればいいし、柵の外から見ているだけなら問題もない。ただ事実として、施設の存在が近所の子供たちに広まっているということだ。
翌朝、悟が柵の外を確認しに出ると、見知らぬ大人の女性が立っていた。子供を一人連れている。昨日も来ていた、あのよく喋る男の子だ。その子が施設の方を指差しながら、「ここだよ!」と声を上げた。




