エピローグ
翌朝、夏の陽射しが早くも街を照らしていた。
通勤路には蝉の声が響き、登校途中の学生たちが笑いながら自転車をこいでいる。
いつもと変わらない一日の始まり――少なくとも、外の世界はそう見えた。
病棟のナースステーションでは、涼が出勤者表を見ながら、時計をちらりと見た。
「……まだ来てないな」
涼はそうつぶやき、すぐに患者の記録ファイルを手に取った。
遅刻かもしれない。連絡があるだろう、とそのときは軽く考えていた。
午前十時を過ぎても、連絡はなかった。
涼は携帯を握りしめ、何度も発信ボタンを押そうとしては指を止めた。
――昨日のメッセージに、返事がなかった。
あの既読のつかない画面が脳裏にちらつく。
嫌な予感が、背中を冷たく撫でた。
一方、自宅の前には、近所の人々が立ち止まり、小声で何かを話していた。
救急車のサイレンが遠ざかっていく。
玄関先に置かれたサンダルは、昨夜と同じ向きで揃っていた。
美咲は玄関の段差に座り込み、両手で顔を覆っていた。
涙の音はなく、ただ肩だけが小さく震えている。
視線の先には一冊のメモ帳が置かれていた。
最後のページには、短い1文が残されている。
――ありがとう。
その1文が誰に向けられたものかは、誰にも分からなかった。
けれど、その文字の上には、昨夜の月明かりのような、淡く儚い温もりがまだ残っているように見えた。