第5章 最後の夜
八月の終わり、朝の空は鉛色で、湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。
出勤のために玄関を出たとき、ふと、この通勤路を歩くのはあと何回なのだろうと考えていた。
その「あと何回」に明確な答えはなかったが、心の奥では、もうそれほど多くないと分かっていた。
病棟に着くと、涼が「おはよう」と声をかけてくれた。
私は笑顔を作って返すが、その笑みは唇だけのもので、目の奥までは届かない。
涼は一瞬だけ私の顔を覗き込んだが、何も言わずに持ち場へ向かった。
その背中を見送りながら、もし今日が最後でも、きっと彼女は気づかないだろうと思った。
それは涼のせいではない。ただ、私が誰にも本当の自分を見せていないだけだ。
午前中の業務は、いつも通りに過ぎていった。
配膳、巡回、記録。
手は動き、声も出る。
しかし、心は透明な膜に包まれていて、現実の手触りをほとんど感じない。
患者さんが「ありがとう」と言ってくれても、その声は水中で聞いているようにぼやけていた。
昼休み、食堂の隅で弁当の蓋を開ける。
食欲はないが、箸を動かさなければ周囲に気づかれてしまう。
噛むたびに味が薄れ、咀嚼の回数だけが時間を進める。
向かいの席で涼が別の同僚と談笑しているのが見える。
笑い声に混じって、氷がグラスに当たる音がカランと響いた。
その音が、妙に冷たく心に染みた。
午後、患者のBさんが廊下で手を振ってくれた。
「いつもありがとうね」
その笑顔を見た瞬間、胸が強く締め付けられた。
――この人は、私がいなくなったらどう思うだろう。
きっと少し寂しがって、すぐに日常に戻るだろう。
人の命も、人間関係も、そんなふうに流れていく。
だからこそ、私がいなくなっても、この世界は揺るがない。
夕方、ロッカールームで制服を脱ぎ、私服に着替える。
ロッカーの扉を閉めたとき、金属音が小さく響いた。
それが、何かの区切りの合図のように思えた。
帰り道、空は茜色に染まり始めていた。
西の空の雲の縁が金色に輝き、それを見ながら「綺麗だ」と思う感情はまだ残っていることに気づいた。
でも、その美しさが、もう自分とは関係ないようにも感じられた。
家に着くと、美咲がキッチンで夕食の準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
短いやり取りの後、私は自室に入り、カーテンを閉めた。
机の上には、書きかけのメモ帳がある。
そこには、誰にも見せていない短い文章がいくつも書かれていた。
「ごめんなさい」
「もう疲れました」
「助けられなくてごめんなさい」
文字は震えていて、何度も書き直した跡が残っている。
そのページをそっと閉じ、引き出しにしまった。
夜になる頃、窓の外から虫の声が聞こえ始める。
私はベッドに腰を下ろし、深呼吸をした。
今夜が最後だと決めたわけではない。
けれど、今夜が最後になってもおかしくないと感じていた。
部屋の明かりを落とし、薄暗がりの中でベッドに横たわる。
天井の模様を指先でなぞるように視線を動かしていると、意識はゆっくりと過去へ沈んでいった。
最初の記憶は、小学生の夏の日。
近所の一人暮らしのおばあさんに水を運んだとき、手を合わせて「ありがとうね」と言われた瞬間の温もり。
あのときの胸の高鳴りが、私の原点だった。
――人を助けることが、私の生きる理由。
その言葉は何度も胸の中で繰り返し、私を動かしてきた。
次に浮かんだのは、介護福祉士として初めて患者さんに「あなたがいると安心するわ」と言われた日のこと。
冬の夕方、廊下に差し込むオレンジ色の光の中で、その言葉がやけに輝いて聞こえた。
あの瞬間、私は自分の選んだ道を誇りに思った。
だが、その光景に続いて浮かんできたのは、ここ数年で胸を締め付ける記憶ばかりだった。
自分の対応が遅れたせいで転倒しそうになった患者。
夜勤中、他の職員の笑い声を聞いて苛立ちを覚えた自分。
妹や涼に向けてしまった、冷たい言葉。
助けたいはずなのに、いつからか人の笑顔が刃になっていた。
枕元のスマホが小さく震えた。
画面には涼からのメッセージ。
《最近、あまり話せてないけど、大丈夫?》
返信画面を開いたまま、指が動かない。
「大丈夫」と打つのは嘘だ。
かといって本当の気持ちを打ち込むこともできない。
結局、スマホを伏せ、胸の上で手を組んだ。
耳を澄ますと、窓の外で虫が鳴いている。
その音は、まるで遠くで時を刻む時計のようだった。
一匹一匹の声が重なって、夜が濃くなっていく。
私は、もう自分を元の場所に戻せないと悟っていた。
「助けたい」という気持ちはまだ残っている。
けれど、それを叶えるために必要な心の形は、もう壊れてしまった。
だから、この先の時間は、自分にも周りにも意味のないものになってしまう。
目を閉じると、茜色の空や祭りの灯り、患者の笑顔、美咲の笑い声、涼の真剣な目――
いくつもの映像が重なって浮かび、やがて静かに遠ざかっていく。
最後に残ったのは、小学生のあの日、おばあさんが見せた皺だらけの笑顔だった。
その笑顔を思い浮かべながら、私はゆっくりと息を吐いた。
時計の針は、日付が変わる少し前を指していた。
家の中は静まり返り、美咲の部屋からは微かな寝息だけが聞こえてくる。
私はベッドから起き上がり、そっと部屋を出た。
足音を殺すように階段を降り、キッチンの明かりを点ける。
冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを手に取ったが、結局コップには注がなかった。
喉の渇きはあったはずなのに、もう水分を摂る気にはなれなかった。
リビングのテーブルには、昼間しまったはずのメモ帳が置かれていた。
どうしてここにあるのかは分からない。
きっと、無意識のうちに自分で出したのだろう。
ペンを手に取り、「ありがとう」とだけ書き加えた。
その1文は、不思議と迷いなく書けた。
誰に向けたものなのか、自分でもはっきりしないまま、ペン先を紙から離す。
窓の外は月明かりでうっすらと照らされ、庭の草花が静かに揺れている。
耳を澄ますと、虫の声が夜をさらに深くしていた。
私はその音を確かめるように一歩ずつ外へ出た。
夏の夜の空気は湿っていて、肌に貼りつくようだったが、なぜか心は冷えていた。
ふと、遠くの街の灯りが目に入る。
あの光の向こうには、まだ笑っている人たちがいる。
居酒屋の暖簾をくぐる人、深夜のコンビニで立ち話をする学生、病院で夜勤をしている同僚たち――
その一つ一つの光景が、自分から遠ざかっていくのを感じた。
「ごめんね」
声に出してみると、その音は驚くほど小さく、夜の闇にすぐ吸い込まれていった。
謝罪は、誰に届くこともなく、ただ自分の耳だけに残った。
胸の奥で何かが静かに整っていく感覚があった。
悲しみや憎しみはすでに形を失い、残っているのは深い静寂だけだった。
その静けさは、まるで水底に沈むように穏やかで、抗う気持ちを奪っていく。
私はもう一度だけ空を見上げた。
雲の切れ間から、満ちかけた月がこちらを見下ろしていた。
その光が、私の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
やがて視界がにじみ、月も、庭も、街の灯りも、すべてが柔らかく溶けていった。
――これでいいよね。
その言葉を最後に、私は静かに目を閉じた。