表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第4章 孤独の底

 六月に入ると、湿った空気が病棟を満たした。

 雨の日は廊下に靴底の水跡が並び、窓ガラスには細かい水滴が貼りつく。

 その景色をぼんやりと眺めながら、私は記録用紙を片手にナースステーションの隅に立っていた。

 背中越しに、同僚たちの会話が流れてくる。患者の体調や食事の様子、休みの日の予定。

 言葉は耳に届いても、意味がすぐに霧散する。

 自分が会話の輪に入るイメージは、もう浮かばなかった。

 昼休み、美咲からLINEが届いた。

 「週末、友だちと花火見に行くけど、一緒に行かない?」

 画面を見つめ、返事を打つ手が止まる。

 外に出れば、人の笑顔とぶつかる。

 そのたびに胸の奥の黒い塊が熱を持つのが分かっている。

 「仕事で疲れてるから、やめとく」

 送信してスマホを伏せる。

 スタンプ一つ分の軽さで、私はまた誰かと距離を取った。


 ある夜勤明け、職員通用口で涼と一緒になった。

 「お疲れ」

 「お疲れさま」

 それだけの会話でエレベーターに乗る。

 数階分の沈黙の中、涼がふと口を開いた。

 「最近、前よりも目を合わせてくれなくなった気がする」

 心臓がひとつ跳ねた。

 「そんなことないよ」

 口に出した瞬間、自分でもその言葉が薄く響くのが分かった。

 涼は視線を逸らし、「無理してないならいいんだけど」とだけ言った。

 エレベーターの扉が開く音が、妙に大きく耳に残った。


 雨の休日、家で一人過ごす時間が増えた。

 カーテンを半分だけ開け、外の灰色の空を眺めながらソファに沈む。

 テレビは点いているが、音は耳に入らない。

 心の中は、薄暗い水槽みたいだった。

 中には笑っている人々の映像だけが浮かび、静かに上下している。

 その映像を押し流す方法を、私はもう忘れてしまった。


 職場では、小さなほころびが積み重なった。

 指示を聞き間違える。

 返事が遅れる。

 患者の言葉にすぐ反応できない。

 そのたびに「大丈夫?」と声がかかる。

 その優しさが、胸に鉛のように沈む。

 ――心配される自分に、価値はあるのだろうか。

 そう思った瞬間、頭の奥で鈍い痛みが広がった。


 ある日の午後、病棟の端で配茶をしていると、廊下の向こうで新人が別の職員と笑い合っているのが見えた。

 ほんの数秒の光景。

 それでも視線が離せなかった。

 笑顔の間に割り込んで、「早く仕事に戻って」と言いたくなる衝動が、喉元までせり上がった。

 ――私はどうして、こんなことを思うようになったんだろう。

 気づけば手元の急須から湯がこぼれ、湯呑みの外側を濡らしていた。


 夜、布団に横たわり、天井を見つめる。

 「助けるために働いている」

 その信念はまだ言葉として残っている。

 でも、今の私の心は、助けたい気持ちと、世界を遠ざけたい気持ちの間で揺れ続けている。

 どちらが勝っても、私が私でなくなるような気がした。

七月の初め、病棟の廊下に置かれた扇風機が、蒸した空気をゆるくかき回していた。

 午前の入浴介助を終え、汗を拭く間もなくナースステーションに戻ると、共用の記録バインダーの表紙に小さな付箋が貼られているのが目に入った。

 《中村さん、昼食は全粥》

 誰かが気を利かせて残した連絡だ。

 それを見た瞬間、ありがたいという感情よりも、胸の奥が少し詰まる感覚が先に来た。

 ――私が気づけなかったことを、また誰かが補っている。

 その思いが冷たい隙間を作り、隙間に影が沈んでいく。

 記録を入力していると、背後から涼が声をかけた。

 「この前の田中さんの件、早く対応できて助かったよ」

 褒められたはずなのに、胸に浮かんだのは安堵ではなく焦りだった。

 「うん…」とだけ返し、画面に視線を落とす。

 涼の足音が遠ざかっても、心臓の鼓動は落ち着かなかった。


 昼休み、食堂の真ん中の席はすでに埋まっていて、私は端のテーブルに一人座った。

 トレイの上の味噌汁は湯気を立てているが、箸を動かす手はぎこちない。

 周りの笑い声や食器の音が、遠い水面で反射しているように聞こえる。

 「ここいいですか?」

 新人がトレイを持って立っていた。

 「あ、うん」

 返事をしたが、会話はそれ以上続かない。

 沈黙の中、スープをすする音だけがやけに響いた。


 家に帰ると、美咲がリビングのソファでスマホを見ていた。

 「おかえり」

 「ただいま」

 それきり互いに言葉はなく、私は自室へ向かった。

 ドアを閉める直前、何か声をかけられた気がしたが、耳はそれを拾わなかった。


 七月の終わり、業務で小さなミスが続いた。

 配膳時に患者の薬を乗せ忘れ、涼が気づいて事なきを得た。

 「大丈夫? 疲れてる?」

 そう聞かれ、「大丈夫」と反射的に答える。

 だが、その声は自分でも驚くほど小さくかすれていた。

 涼は何か言いたげだったが、結局「無理しないでね」とだけ残して去っていった。


 その日、帰り道で夏祭りの屋台に出くわした。

 浴衣姿の子どもが綿菓子を抱え、友人らしき男の子と笑い合っている。

 提灯の光が風に揺れ、甘い匂いが漂う。

 私は立ち止まり、少し離れた場所からその光景を見つめた。

 胸がきゅっと縮まり、鈍い痛みが広がる。

 ――もう、あの輪の中には戻れない。

 確信に近い感覚が、静かに心に降り積もった。


 夜、自室の窓から花火の光が見えた。

 大きな音と共に色とりどりの光が夜空に咲く。

 遠くで歓声が上がり、それが窓越しに届く。

 私はカーテンを閉め、光も音も遮った。

 暗闇の中で、自分の呼吸だけを聞いていた。


八月の始まり。朝から蝉の声が窓の外で響き、蒸し暑さが体にまとわりつく。

 勤務表の端には、赤ペンで夜勤と早番が交互に並んでいた。

 そのスケジュールを眺めているだけで、背筋がじわりと重くなる。

 その日、午前中の巡視で、患者のAさんが部屋の隅でうずくまっていた。

 「どうしました?」と声をかけると、「ちょっと目まいがして」と弱々しい声が返ってくる。

 看護師を呼び、車椅子を取りに行く。

 戻ると、Aさんは看護師の介助で既に椅子に座っていた。

 「ありがとうね」と私にも声をかけてくれたが、胸の奥には微かな敗北感が残った。

 ――私じゃなくても、助けられる。

 その事実が心の奥で鈍く響く。


 昼食の配膳中、別の患者の家族が廊下で声をかけてきた。

 「いつもお世話になってます。母がね、あなたが来ると安心するって」

 笑顔のその言葉が、何故か刃のように胸に刺さった。

 「ありがとうございます」と返す声は、喉の奥でひび割れていた。

 安心させたい気持ちは本物だ。

 けれど、その笑顔を見るたびに、自分の中の黒い塊がざわめく。

 ――どうして私は、この人のように穏やかでいられないのだろう。


 午後、ナースステーションで共用バインダーに記録を挟んでいると、背後から笑い声が聞こえた。

 涼と新人が、患者さんの昔話を聞いて盛り上がっている。

 笑い声は温かく、場を柔らかくしていた。

 それなのに、私はその場から立ち去った。

 あの輪に入れば、笑顔を作らなければならない。

 作り物の笑顔は、今の私には呼吸よりも苦しい。


 帰宅後、リビングのテレビからは夏の高校野球中継が流れていた。

 美咲がソファに座り、冷たい麦茶を飲みながら試合を見ている。

 「今日、患者さんの家族から差し入れもらったの」

 何気なくそう話すと、美咲が笑って「よかったじゃん」と言った。

 その笑顔が、なぜか急に遠く感じた。

 私は麦茶のグラスを置き、「疲れてるから、部屋行くね」とだけ言って二階へ上がった。


 夜、窓を開けると、外から祭囃子が流れてきた。

 遠くの空に花火が上がり、光が一瞬部屋を照らす。

 その明るさが、胸の奥を無造作に照らし出す。

 そこには、もう消せないほど大きくなった黒い塊があった。

 悲しみも、苛立ちも、嫉妬も、全てが混じり合い、形のないまま渦を巻いている。


 私はカーテンを閉め、部屋を暗くした。

 深呼吸をしても、息は浅いまま。

 ――このまま続ければ、いつか私は完全に壊れる。

 そう思いながらも、壊れる前に何をすべきかは分からなかった。


 暗闇の中、スマホの通知ランプだけが点滅していた。

 誰かが私を気にかけてくれているかもしれない。

 でも、その光を見る勇気は、もう残っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ