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第3章 黒い感情

 三月の終わり、病棟は年度末の空気に包まれていた。

 送別会や異動の話題があちこちで飛び交い、職員たちはどこか浮き足立っている。

 患者の家族も、面会のたびに「春から環境が変わってね」と笑顔で語る。

 私は、その笑顔の群れの中に立ちながら、自分だけが透明な壁の向こうにいるような感覚を抱いていた。

 涼が昼休みに声をかけてきた。

 「年度替わりって、なんだか新しい空気になるよね」

 「……そうだね」

 私の返事は短く、声に熱がなかった。

 涼は一瞬だけ私の顔を見たが、すぐに視線を落とした。その視線の動きすら、私には「心配されている」という重しに感じられた。


 ある日の午後、患者のSさんが娘さんと面会していた。

 差し入れの苺を笑いながら分け合い、写真を撮っている。

 私は配膳のトレーを運びながら、その光景を横目に通り過ぎた。

 通り過ぎる瞬間、胸の奥で何かがざらりと擦れる音がした。

 ――いい気なものだ。

 その言葉は、私の中で驚くほど自然に浮かび上がった。

 そして同時に、「そんなことを思う自分は最低だ」という声も響く。

 自分の中で相反する声がぶつかり合い、胃のあたりがじわりと熱くなる。


 四月、新年度が始まった。

 新人職員の姿が廊下に増え、先輩として声をかける機会も増えた。

 「これ、こうするとやりやすいよ」

 そう伝える自分の声が、思ったよりも硬い。

 新人は「ありがとうございます」と笑う。その笑顔がまぶしく、痛い。

 まるで過去の自分を見ているようで、同時に、二度と戻れない場所を突きつけられるようだった。


 休日、久しぶりに外出した。

 駅ビルのカフェで、大学生らしき二人が向かい合ってケーキを分け合っている。

 小さなフォークのやりとりと笑い声が、春の午後の光に溶けていく。

 私はその光景を見ながら、頭の中で知らない二人の人生を勝手に描いた。

 ――この人たちはきっと、困難なんて知らずに生きてきた。

 根拠もなく、そう断じてしまう。

 その瞬間、自分の口角がわずかに下がったのを感じた。

 鏡を見なくても、険しい顔をしていると分かった。


 翌週、勤務中に患者のKさんが転倒しそうになった。

 すぐに駆け寄り、体を支える。大事には至らなかった。

 「助かったわ、ありがとう」とKさんが笑う。

 私は笑顔を返したが、その内側では別の声が響いていた。

 ――本当に助けられたのは、たまたまだ。

 少しでも遅れていたら、また自分を責めていただろう。

 そう考えた途端、達成感は霧のように消えた。


 美咲との会話も減っていった。

 彼女は相変わらず明るく、友人やバイト先の話をしてくれる。

 だが私は返事を短くし、目を合わせる時間が減った。

 ある夜、美咲が言った。

 「なんか最近、話してても遠くにいるみたい」

 私は「疲れてるだけ」と答えた。

 その言葉が真実の一部でしかないことは、自分でも分かっていた。


 寝る前、布団に入って天井を見つめる。

 今日出会った笑顔や笑い声が、頭の中で何度も再生される。

 それらはもう温もりを与える映像ではなく、私の中の黒い塊を肥やす養分になっていた。

 そして私は、その塊を完全に消す方法を知らなかった。


四月の雨は、朝の通勤路を細かい粒で満たしていた。傘に当たる音が一定の拍を刻む。心拍とズレているのが落ち着かなかった。

 更衣室で制服に着替え、名札を胸に留める。鏡に映る顔は無表情だ。笑ってみようとして、やめる。作り物の弧は今日、特にうまく掛からない。

 午前の入浴介助。私はチェック表を片手に、順番を入れ替えた。転倒リスクの高い人を先に回すつもりだったが、看護師の点滴交換の時間とぶつかり、浴室前で小さな渋滞が生まれる。

 「先に声かけてくれたらよかったのに」

 佐伯さんの言い方は責めていない。なのに、耳の奥で「段取りが悪い」と翻訳される。

 「すみません」

 短く答え、視線を落とす。

 ほんの数分の遅れで、世界が崩れるわけではない。頭では分かっている。それでも、胸の奥に黒い泡がひとつ浮かび、弾けた。


 廊下で新人の手元を見て、思わず口が先に動いた。

 「そこ、タオルの当て方が違う。皮膚が擦れるから」

 そう言ってから、声が鋭すぎたと気づく。新人は一瞬固まり、「すみません」と俯いた。

「…ごめん、今の言い方、きつかったね」

 言い直しても、遅い。新人の肩がわずかにすくむのを、横目で見た。

 助けるための指摘のはずが、刃の角度になってしまう。黒い感情は、言葉の先端に移るのが早い。


 昼下がり、Sさんの娘さんが差し入れのクッキーをスタッフにも配ってくれた。

 「いつもありがとうございます」

 丁寧な包み紙。甘い香り。

 隣で涼が「いただきます」と笑う。

 私は受け取りながら、喉が砂を飲むみたいに乾いた。

 ――感謝される資格が、私にまだあるのだろうか。

 微笑もうとして、唇が動かない。結局、会釈だけして立ち去った。背中に、涼の視線が少しだけ留まる気配がする。


 夕方、配膳のワゴンを押していると、ナースコールが重なった。

 「先にそっち行って!」

 涼が走る。私は反射的に別の部屋へ向かい、呼吸器の管の位置を確認し、患者の手を握って落ち着いた声で話しかける。異常なし。ホッとした瞬間、さっきのワゴンに戻る。

 トレーの上の味噌汁が波打ち、縁から少し零れた。

 ほんの数滴。それでも、胸の中では洪水の絵だけが広がる。

 「何をやってるの」

 自分に向けた言葉が、歯の内側で鋭く跳ね返った。


 その夜、家に帰ると、美咲がエプロン姿で振り返った。

 「おかえり。今日、春巻き揚げたよ。すごくカリカリにできたんだ」

 皿から湯気が立ちのぼる。

 「…ありがとう」

 箸を持つ指に力が入らない。

 「食べてみて。うまくいったんだ」

 ひと口かじる。軽い音。味はたぶんおいしい。舌が判断を先送りしているだけだ。

 「どう?」

 「…うん」

 「うん、じゃ分かんないよ」

 美咲の声の温度が半度だけ上がる。

 胸の奥の黒い塊が、火に当てられた鉄みたいに膨張した。

 「おいしいよ。――いちいち、確認しないで」

 言ってから、時間が止まる。

 美咲の目が丸くなる。ほんの一瞬で、彼女は表情を整えた。

 「…ごめん。つい嬉しくて聞きたくなったの」

 私が謝る番だ。すぐに謝ればいい。それなのに、喉が固まって音が出ない。

 その夜、台所の皿洗いの音が遠くで続いた。


 週末、勤務の合間に短い面談が組まれた。

 「最近、表情が硬いという声が出ています」

 師長は努めて柔らかい声を使った。

 「休みを取ることも含めて、少し考えてみませんか?」

 「勤務はこなせています」

 自分でも驚くほど早く、言葉が出た。

 師長は一度頷き、視線を落としてから続けた。

「こなすことと、すり減らないことは別ですよ。産業医や外部相談も使えますし、あなた一人で抱えないでほしいと思っています」

 優しさは重い。

 椅子の脚が床を擦る音が、耳の奥で増幅する。

 「検討します」

 定型句で会話を閉じた。ドアを開ける手は、少し震えていた。


 帰り道、雨は上がっていた。アスファルトに薄い虹色の膜が浮かび、街灯が滲む。

 横断歩道で信号を待つ間、横に立った二人組が笑いながら今日の出来事を話している。

 「バイト先でさ、くじ引き当たって」「え、すご」

 その軽さが刃になる。

 ――この街はどうして、こんなにも私の神経の薄いところばかりを撫でてくるのだろう。

 青になっても気づかず、後ろから誰かが小さく咳払いした。歩き出す足がもつれ、靴底が濡れた白線で滑った。


 夜更け、布団に入ってから、天井の模様を数えた。

 十、二十、三十。

 指折り数えても、眠りは来ない。

 まぶたを閉じれば、昼の場面が逆再生され、言い方を変えた自分、笑った自分、謝った自分――可能だったはずの分岐が、枝分かれして林立する。

 正しい枝に手を伸ばしても、樹皮はガラスで、指先が切れる。

 その痛みの想像だけで、胸の内側がきゅっと縮む。


 翌朝、鏡の前で髪をまとめ、寝間着から服に着替える。

 深呼吸をひとつ。

 「今日はうまくやれる」

 小さな声で言って、家を出た。

 玄関のドアが閉まる音に、決意は半歩遅れてついてくる。


 病院の廊下に光が差す。

 新人が配膳のワゴンを押しながら、私に気づいて頭を下げた。

 「おはようございます」

 「おはよう」

 私は歩幅を合わせ、ワゴンの片側に手を添えた。

 「ここ、カーブの内側に寄せると、こぼれにくいよ」

 言ってから、呼吸を整える。声の角を落とす。

 新人が「ありがとうございます」と笑った。

 その笑顔がまぶしい。

 痛い。

 でも、その痛みは一瞬だけやわらいだ。

 私がここにいる意味を、かろうじて思い出す。

 次の瞬間、ナースコールが鳴り、思考は再び現場に引き戻された。


 黒い感情は消えない。

 ただ、形を変え、隙間に潜る。

 呼吸の合間、言葉の端、視線の切れ目。

 そこに沈んで、膨らんで、また小さくなる。

 私はそれを抱えたまま、今日も名札を指でなぞる。

 ――助けたい。

 その言葉は、まだ私の中に残っている。

 残っているからこそ、重い。


五月に入ってすぐ、病棟の空気は湿り気を帯び始めた。

 曇り空の日が多く、廊下の蛍光灯は朝から点けられたまま。窓の外に広がる色のない景色は、私の内側を映すようだった。

 その日も午前中から慌ただしかった。入浴介助が押し、昼食の配膳に遅れそうになった私は、ワゴンを押しながら廊下を急いでいた。

 角を曲がった先で、新人が患者の家族と話し込んでいる。

 「佐藤さん、最近よく眠れてるみたいです」

 柔らかな声と、相手の笑顔。

 私は無意識に足を止め、数秒見つめてしまった。

 ――その余裕、私にはもうない。

 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。

 「配膳、遅れるよ」

 声が硬くなる。新人は慌てて会釈し、家族に別れを告げた。

 ワゴンを引き継ぐとき、彼女の指先がわずかに震えていた。

 それを見て、胸の奥に重い石を落としたような感覚が広がった。

 怒りは私に向かうはずだったのに、なぜか外側に飛んでしまった。


 午後の休憩時間、涼が缶コーヒーを差し出してきた。

 「今日は顔が怖いよ」

 冗談めかして笑う声。

 「そう?」

 自分でも、声が低く沈んでいるのが分かった。

 涼は一口コーヒーを飲み、「前より話しかけづらいって思ってる人、結構いるみたい」と言った。

 その言葉は針のようだった。

 「……そう」

 返事はそれだけ。缶を握る手の中で、冷たさがぬるく変わっていく。


 その週の夜勤、巡視のために患者の部屋を回っていたとき、廊下の先で誰かが笑っている声がした。

 夜の病棟では、笑い声は珍しい。

 近づくと、遅番の看護師が記録をつけながら新人と談笑していた。

 「ごめんなさい、すぐ終わります」

 看護師が笑いながら言う。

 私は「お願いします」とだけ返して、無理に口角を上げた。

 心の中では、冷たい水が一気に満ちる感覚がした。

 ――こんな時に、何を笑っていられるんだ。

 すぐに自分の心の声を否定する。

 でも、その否定は力を持たず、ただ音だけが虚しく響く。


 翌日、家で夕食を食べていると、美咲がぽつりと言った。

 「ねえ、最近、怒ってる?」

 「怒ってない」

 答える声が鋭く、短くなった。

 美咲は少し口を閉じてから、「じゃあ…なにか悩んでるの?」と訊いた。

 私は箸を置き、「なんでそんなこと聞くの」と返した。

 「なんとなく、前と違うから」

 美咲は視線を落とし、味噌汁をひと口すする。

 その沈黙が、部屋の空気を硬くした。

 私は何も言わず、皿の残りを口に運び、立ち上がった。

 背後で食器の触れ合う音がしたが、振り返らなかった。


 夜、布団に入っても眠れない。

 脳裏には、美咲の「怒ってる?」という声が繰り返し浮かぶ。

 怒っているのかもしれない。

 でも、誰に? 何に?

 自分でも答えが出ない。

 ただ、笑う人たちを見たときのあの熱と重さが、確かに私の中にある。

 それを抱えたまま眠るのは、もう苦行に近かった。


 明け方、うつらうつらしていたとき、夢の中で私は誰かに向かって叫んでいた。

 言葉は覚えていない。ただ、声が掠れるほど何かを責め立てていた。

 目が覚めると、胸が苦しく、息が乱れていた。

 カーテンの隙間から差し込む薄い朝の光が、やけに冷たく感じた。


 私は、自分の感情をもう完全には制御できないのだと、このとき初めてはっきりと悟った。

 その事実は恐怖だった。

 けれど同時に、その恐怖すら、どこか現実感を伴わなかった。

 まるで他人事のように、遠くから自分を眺めているようだった。


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