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第2章 崩れる日々

年が明けた。

 カレンダーは新しくなっても、私の生活は何ひとつ変わらなかった。

 元旦も病棟は通常運転だ。初詣の話題や年賀状のやりとりは、病院の中では遠い世界の出来事のように感じられる。

 勤務表のシフトはぎっしりと埋まり、早番と遅番、日勤、夜勤が交互に押し寄せてくる。

 正月三が日のうち二日は仕事だった。

 朝、布団から体を引き剥がすようにして起き、服に着替える。鏡に映る顔は、少し痩せて頬がこけていた。

 それでも化粧をして髪をまとめれば、「いつもの私」が出来上がる。

 病院に着けば、制服に着替えて、笑顔を作って、いつも通りの挨拶をする。

 「おはようございます」

 口はそう動くが、声はどこか乾いていた。


 年明け早々、病棟の患者数は定員ぎりぎりまで増えていた。

 インフルエンザや肺炎で新たに入院してくる高齢者が後を絶たない。

 廊下の空気は乾燥していて、マスクの内側が息で湿っては冷える。

 ナースコールはひっきりなしに鳴り、配膳や体位変換、オムツ交換、記録入力と、次々にタスクが積み上がっていく。


 そんな日々の中で、ふと気づいた。

 私の手は、以前よりも動きが鈍くなっていた。

 患者さんの顔を拭くとき、背中をさする時、その動作にほんのわずかな間が生まれる。

 疲れているからだと自分に言い聞かせても、「もしこれで、この人の命に関わることがあったら」という不安が頭を離れない。


 ある日、認知症の女性患者が転倒した。

 巡回の数分前、私はその部屋の前を通っていたのに、声をかけずに通り過ぎた。

 「あとで様子を見よう」と思っただけだった。

 その直後、ナースコールが鳴り、駆けつけると、その人は床に座り込み、膝を押さえて泣いていた。

 幸い骨折はなかったが、その膝は赤く腫れていた。

 「ごめんなさい…」と謝る私に、彼女は首を振った。

 「あなたのせいじゃないのよ」

 そう言ってくれたのに、その言葉は私を余計に苦しめた。


 夜、自室で膝を抱えて座り込む。

 助けるためにこの仕事をしているのに、助けられなかった。

 その事実が胸の奥に重く沈み込み、呼吸を圧迫する。

 ――私は、何のためにここにいるのだろう。

 そんな問いが頭の中で繰り返される。


 一月の終わり頃、同僚の涼が休憩室で声をかけてきた。

 「最近、あんまり元気ないね。無理してない?」

 私は笑って「大丈夫」と答えたが、その笑顔が自分の顔にどう映っているのか怖くて、涼の目を直視できなかった。

 涼は少し間を置いて、「何かあったら言ってね」と言い、私の肩を軽く叩いた。

 その優しさすら、今の私には重く感じられた。


 帰り道、街灯に照らされた歩道を歩きながら、ふと足を止めた。

 すれ違う人たちの顔には、疲れよりも安堵や喜びの色があった。

 買い物袋を下げた家族、寄り添って歩く恋人たち。

 ――私もあんな風に笑えていた時期があったのだろうか。

 思い出そうとしても、記憶は霞の向こうにぼやけていく。


 その夜、布団に横たわったまま天井を見つめた。

 眠りにつく前に、胸の奥で小さな痛みがじわりと広がる。

 それは、悲しみと自己嫌悪が混じり合った、名前のない感情だった。

 その感情は、これから先も静かに、しかし確実に私を削っていくことになる。


二月に入ると、朝の寒さが骨に刺さるようになった。

 目覚ましが鳴ってから布団を出るまでの時間が、日に日に長くなる。起き上がるだけで体力の七割を使い切ってしまうような消耗感。顔を洗い、寝間着から服に着替え、歯磨きをしているうちに、もう心は一日の終わりを待っている。

 出勤の支度をしながら、頭のどこかで「今日は誰も傷つけずに済むだろうか」と考えている自分に気づき、息が詰まった。

 病棟は相変わらず忙しい。

 ある日の早番、配膳のトレーを運びながら、私はいつもより歩幅が小さくなっているのを感じていた。

 視界の端で、佐伯さんがこちらを見て、無言で頷く。急かす合図ではない。ただ、私のペースを測っているような、仕事人の目。

 「大丈夫ですよ」と口に出そうとして、やめた。口に出した瞬間、嘘が音を立てて崩れそうだったから。


 午前のバイタルチェック。

 私はある患者さんの体温を測り、数字を記録してから、しばらくその数字を眺めてしまった。

 37.3。微熱。

 本来なら医師と看護師に報告し、必要な対応を確認するべきところを、記録用紙の上に視線を貼り付けたまま、思考が止まる。

 「どうしたの?」と、背後で涼の声がした。

 「…いや、ちょっと」

 その一拍の遅れが、自分の中では深い裂け目のように感じられた。


 昼休み、食堂の隅で弁当の蓋を開ける。

 味がしない。

 箸を止めて、周りを見渡す。誰かが笑っている、冗談が飛び交う、カレーの匂い、食器の擦れる音。

 音も匂いも、ガラス越しの世界みたいに遠い。

 涼が向かいの席に座った。

 「今日はさ、夕方に院内の節分イベント、やるんだって」

 「そうなんだ」

 私の返事は、水面に落ちた小石みたいに、すぐに沈んだ。

 涼はそれ以上何も言わなかった。私の顔を一秒だけ見て、視線を箸先に落とした。その沈黙が、ありがたくも痛かった。


 午後、廊下の先に、面会に来た家族連れの姿が見えた。

 子どもが祖母の手を握り、「ばあば、また来るね」と笑う。

 その笑顔に、胸の奥で何かが軋む。

 ――いいな。

 嫉妬という言葉が、舌の裏で苦く転がる。

 私は視線を床に落とし、その家族とすれ違う時に、少しだけ呼吸を浅くした。匂いも、笑い声も、触れないように。


 帰宅ラッシュの駅。

 改札を出ると、制服姿の高校生たちが、他愛ない話で盛り上がっている。

 「テストやばい」「でもさー」「うける」

 その語尾の軽さが、私には刃のようだった。

 ――どうして、こんなに簡単に笑えるの。

 自分の胸に浮かんだ言葉に、私は驚いた。

 「私はそんな人間じゃない」

 心の中で否定するほど、言葉は濃く、重く、形を持つ。

 帰り道、コンビニの明かりの中、肉まんの湯気に顔を寄せるカップルが目に入ると、ほとんど反射的に視線を逸らした。

 見たくない。見たら、自分の中の黒い塊が大きくなる。


 家では、妹の美咲が夕飯の支度を手伝っていた。

 「おかえり。寒かったでしょ」

 「うん」

 それだけ言って、コートを脱ぎ、手を洗い、テーブルにつく。

 美咲は新しいバイトの話をした。常連さんが優しいこと、まかないがおいしいこと、店長がちょっと変わっていて面白いこと。

 私は相槌を打ちながら、頭の奥で別の声を聞いていた。

 ――あなたは、楽しくていいね。

 その声に気づいた瞬間、背筋が寒くなった。

 「どうしたの?」と美咲が訊く。

 「…なんでもない」

 笑ってみせたが、笑顔の形は自分でもうまく作れなかった。


 入浴を済ませ、布団に横になる。

 目を閉じると、今日の失敗が脳内に並ぶ。

 微熱への対応の遅れ。配膳の歩幅。患者さんの呼吸音を一瞬聞き逃した気がした場面。

 ひとつひとつが棘になって、胸の内側をひっかく。

 「明日はもっと早く、正確に、優しく」

 そう誓いながら、眠りは浅く、夢は途切れ途切れだった。


 三月。

 年度末の事務仕事が増え、記録の締め切りに追われる。

 ミスはない。ないはずだ。何度も確認して、確認して、さらに確認して、ようやく提出する。

 だが、提出後すぐ、紙の角が指に触れるたび、「見落としがある」と確信めいた不安がふくらむ。

 ナースステーションで書類棚に向かって立ち尽くしている私を見て、佐伯さんが小さくため息をついた。

 「確認は大事。だけど、止まりすぎるのも事故になる」

 柔らかな口調だった。責めてはいない。

 なのに、私はその言葉を「あなたは遅い」と訳して受け取ってしまう。

 「すみません」と言いながら、喉を砂利で擦られたみたいな痛さを覚えた。


 その週末、涼に誘われて、久しぶりに街でランチをした。

 カフェの窓際、光がテーブルの木目を温める。

涼はココア、私はホットティー。

 「この前の転倒の件、引きずってる?」と、涼が切り出した。

 私はカップの縁を指でなぞり、「…うん」とだけ答えた。

 沈黙が落ちる。

 涼は言葉を選ぶようにしてから、「ねえ、休みを取ってみることも、考えてみたほうがいいんじゃない」と言った。

 心臓が、ひとつ大きく脈打った。

 「大丈夫。私、休んだら、もっと駄目になる」

 「駄目になるって?」

 「…助ける人間じゃ、なくなる気がする」

 口に出した途端、涙が溜まった。

 涼は黙って紙ナプキンを差し出した。

 窓の外では、買い物袋を持った親子が笑っていた。春物のコート、白いスニーカー、肩に揺れる小さなぬいぐるみ。

 ――世界は、私がいなくても軽やかに回っている。

 そう思った瞬間、胸の中で何かが沈み、別の何かが静かに浮かび上がった。

 悲しみの底から、苛立ちが芽を出した音がした。


 その夜、寝る前にスマホを開いた。

 タイムラインには、旅行の写真、合格発表の喜び、昇進の報告、仲間内の飲み会の記念写真。

 スクロールする指が止まらない。

 おめでとう、よかったね、楽しそう。

 心から言えたはずの言葉が、喉の手前で渇く。

 画面を閉じても、まぶたの裏に他人の笑顔が焼き付いている。

 私はスマホを裏返し、枕元に置いた。

 部屋の暗がりに目が慣れると、自分の呼吸の浅さだけが浮き上がってくる。

 ――どうして私は、助けたいのに、誰も助けられないの。

 問いの形はそのままに、答えのない重さだけが増していく。


 翌朝、鏡の前で髪をまとめていると、ふいに手が止まった。

 頬のあたり、笑い方を忘れた筋肉が、固まっている。

 笑ってみる。

 作り物の弧。

 すぐにほどけた。

 私は鏡から目を逸らし、深呼吸をひとつして、家を出た。

 冷たい空気が肺に痛い。

 通勤路の先、信号待ちの群れの中で、誰かが恋人の肩に額を預けて笑った。

 私は横を向いたまま、青になった信号を見逃しかけた。


 病院に着き、更衣室で制服に着替え、名札を胸に留める。

 フロアへ向かう足取りは、いつも通り。

 けれど、胸の内側では、何かが確実に変わり始めていた。

 悲しみは、涙にならず、熱にもならず、形を持たない重さのまま、私の中を満たしていく。

 その重さは、やがて方向を持つ。

 外側へ。

 世界の明るい部分に向かって、鈍い刃先のように。

三月の半ば、病院の中庭で梅の花が咲き始めた。

 窓越しにその白い花びらを眺めながら、私はカルテの記録欄にペンを走らせていた。

 廊下を挟んだ向こう側から、患者さんと面会に来た家族の笑い声が聞こえる。

 声のトーンや間の取り方から、それが心からの笑いだと分かる。

 それが分かってしまうことが、今は苦しかった。

 昼休み、涼が私の隣に腰掛けた。

 「週末、病棟で送別会やるんだって。参加する?」

 「……まだ分からない」

 私の返事は、湿った紙のように張りついて動かない。

 送別会――誰かが笑い、拍手し、別れを惜しむ場。

 以前の私なら、喜んで参加していただろう。

 今は、その場で笑っている自分を想像できない。

 むしろ、笑っている人たちを睨んでしまう自分が浮かんでしまう。


 午後、廊下で患者さんを車椅子に乗せて移動していると、すれ違った別のスタッフと患者の会話が耳に入った。

 「今日は外出許可が出たんだって」

 「ほんとうですか? よかったですねぇ」

 外に出られる喜びを分かち合う声。

 その声が通り過ぎた後、私の胸の奥に、熱くて黒い何かが滴り落ちた。

 ――どうしてこの人はこんなに幸せそうで、私はこんなに疲れているのだろう。

 その瞬間、自分の思考に背筋が凍った。

 助けるはずの相手に対して、嫉妬や苛立ちを抱いている。

 こんな感情はあってはいけない。

 それでも、一度芽生えた黒い塊は、息をするたびに少しずつ大きくなる。


 帰宅途中、駅前のロータリーで、同年代くらいの女性が友人らしき人と肩を並べ、たい焼きを分け合っていた。

 笑い声が冷たい夜気に弾け、甘い匂いが漂う。

 私は立ち止まり、その光景を数秒間だけ見つめた。

 心臓が強く脈打つ。

 視線を逸らしたいのに、逸らせない。

 「羨ましい」という言葉が浮かび、そのすぐ後に「憎らしい」が重なった。

 それは水と油のように混じらず、二層のまま胸の中に沈んでいく。


 家に帰ると、美咲が明るい声で出迎えた。

 「おかえり。ご飯できてるよ」

 テーブルには湯気の立つ鍋が置かれ、出汁の香りが部屋を満たしている。

 私は「ありがとう」と言い、席に着いた。

 美咲はバイト先の話を楽しそうに続ける。

 それを聞きながら、ふと気づく。

 私は彼女の話の内容をほとんど覚えていない。

 頷くタイミングと、相槌の言葉だけを機械的に選んでいる。

 会話はしているのに、どこか遠くから眺めているようだった。


 夜、布団に入っても眠れない。

 スマホを手に取り、ニュースアプリを開く。

 新婚旅行の記事、子どもの誕生報告、表彰式での笑顔。

 画面をスクロールするたび、胸が圧迫される。

 その感覚はもう悲しみではなかった。

 明らかに外に向かう、尖った感情だった。

 「私がこんなに苦しんでいるのに、どうしてみんな楽しそうに生きているの?」

 その問いが頭の中で膨らみ、やがて部屋全体を満たす。

 息が浅くなり、指先が冷える。

 胸の奥で脈打つ黒い塊は、もはや私の一部になっていた。


 数日後、勤務中にふと鏡に映った自分の目を見た。

 そこには、かつて人を助けることを誇りに思っていた私の眼差しはなかった。

 代わりに、世界を薄暗く塗りつぶす色が、静かに滲んでいた。

 そのことに気づいた瞬間、足元が崩れ落ちるような恐怖が背骨を駆け上がった。

 ――このままでは、私は自分を取り戻せなくなる。

 そう思ったのに、どうすれば止められるのか分からなかった。


 外の世界は春に向かって色を変えていく。

 梅が散り、桜の蕾が膨らむ。

 街の人々はコートを薄手に替え、軽やかな足取りで行き交う。

 私だけが、冬の中に取り残されたままだった。


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