◇1 実況者ヴェルと影の同盟
「たっだーいまぁ!」
ヴェル=クンはそう言いながら、電送局最上階のテレパシー共鳴装置管理室の戸を開けた。
公的には冥王星政府の直轄である電送局施設なのだが、実質テレパシー共鳴装置は冥王星の中で彼女ほど完璧な管理維持を行えるミ=ゴが存在していないため実質彼女の住み込みの生活空間として勝手に改装することが許されてしまっている。
工場街の発光粘菌のような暖かい色をした壁の一方は装置管理用の外部カメラから内部テレパシー輝度の詳細なログなどの記されたいくつものホロコンソールが並ぶ一方、空いた空間には畳にちゃぶ台ベッドに本棚が並び、空いてる壁にはこれまでユゴス・リングで活躍してきたボクサー達のホロポスターまで貼ってあり、床には彼女の集めた珍しいバイオスーツの部品とメンテナンス用の工具が散乱し、ベッドの上には今着ている人間型バイオスーツのアウタースーツまで散らばっている……要は下着である。
先に管理コンソール前に二つある椅子の一つが回転し、三つの口吻を持つ昆虫のような生物が呆れたように下着を鋏で指して言う。
「流石に公私は分けた方が良いんじゃないす?」
「やんダギバくん居たのぉ? えっちぃ」
揶揄うように言うヴェルにダギバと呼ばれた昆虫の口吻のひとつが溜息を漏らす。
「最近ああ言うのも持ってくるもんだから目のやり場に困りますよこちとら一応有性種のオスっすからね?
ていうかアンタずっとアウタースーツはジャケットとレオタードタイプ一枚着回しだったじゃないすか」
ダギバが指摘するように、ヴェルの恰好は以前のそれとは微妙に違っておりレオタードには違いないがスカートが伸びていて下にさらに一枚着るタイプとなっている。
「いやー最近地球人に露出狂って言われちまってねぇ、私も年頃の女の子だし気にしちまうのよ」
「年頃の女の子はオスのいる空間に下着を放置しないす」
「やははー……んぉ? ダギバ君見逃しあるよー?」
苦笑いを浮かべるヴェルは、ふとコンソールのうち一つに目をやると一瞬でそれを拡大する。
「いやこちとら目と脳みそ三つあるんすよそんな見逃し……」
誤魔化そうとしたヴェルに説教しようとするダギバだった……だが。
ヴェルの拡大したデータの僅かな歪に、三つの目を細めて静かに呻き声を上げた。
「……は?」
「輝度のパロメーターが意図的に下げられた痕跡あるねぇ、これは見逃しやすいから仕方ないよ、関数が自然物に偽装されてるもん」
「ちょちょちょハッキングされてるってことじゃないすか! まずいすミームテロ起こされる可能性あるす至急政府役所に連絡を……」
ダギバが慌てて館内通信に手をかける前に、ヴェルが手で触角の先端を外して接続ケーブルとして伸ばし、管理室の端末に直接接続する。
「時間ないやちょっと潜るねぇ、ナビの準備して!」
フカフカなリクライニング式である管理室の椅子にぴょこんと勢いよく腰掛けヴェルは目を瞑る。
「はぁ!? テレパシー共鳴装置にサイコハック仕掛けるような相手すよ!? 焼き切られるかミーム殺害エージェント流されでもしたら……ちょっとー!!」
ダギバの制止も虚しく、ヴェルの意識は深くミ=ゴ社会のテレパシーネットワークの奥底へと潜っていくのだった……。
深海の底のような、テレパシーネットワークの深淵。
データ通信の気泡を溢しながら、人型バイオスーツを模したヴェルの電脳体は泳ぐように進んでいく。
たどり着いたのは一際輝くオレンジ色の光の輪と周囲に泳いでいく原始脊椎魚類のような姿でコーデックされた意識の群れ。
これがユゴス・リングを中心にしたテレパシー共鳴装置のメインシステムである。
ヴェルと周囲の縮尺が変わり大きくなったシステムの中に侵入したヴェルは輪を構成する擬似魂魄を構成する霊子文字を解読する。
「んー輝度設定に変化はないってことは、やっぱ目的は共振波かぁ……こういうこと考える奴らってホントにワンパターンだよねぇ」
『こういうこと、を何度も経験してる時点で異常なんす。2009年事件以降マルチバースが冷戦状態っすから、水面下で動くやつが成り上がりを目的とするのもわかるっすけど』
ヴェルの側に開いたホロモニターの向こうにダギバの姿が映り、ヴェルはイタズラっぽい笑みをダギバに向ける。
「おやぁ? 昔話? あの時電送局に挑んで私にうっかり脳みそ三つとも焼き切られそうだったのを泣いて謝って命乞いして来た悪質ハッカーは誰だたっけぇ?」
『うるせぇす、しかし巧妙な隠れ方してるすねこれは。 こっちから見たら全然見えないっす』
「……っし、エンティティみっけ!」
まるで砂浜に隠れた蛤を見つけたような気軽さで、ヴェルは瞬時に指先に組んだ捕獲システムの霊子文字列を、意識の群の中のたった一匹に向けて突き出した。
すると文字が瞬時に展開し、その一匹が即座に向きを変えて逃げようとするのを追いかける。
「にひひ、元気なやつだねぇ……でもこれで、しまい!!」
人形使いが操り糸を操作するように、エンティティを追いかける霊子の文字列と繋がった光の糸をクンと弾くと、文字列が幾つも分裂し複雑な軌道を描いて逃げるエンティティを包み込む。
やがてプログラムは光のキューブとなって完全に固定され、ヴェルの手元に降りてくる。
『……ふぅ、何事もなくてよかったす』
「あ、よかないかも?」
ヴェルが険しい顔をしたことにダギバが反応するよりもさらに早く、光のキューブが砕け散る。
中に居たエンティティの姿は先までのオレンジに光る魚などではなく、ドロドロに滴る真っ黒な『影』。
それは細い触手でヴェルの腕を掴むと、先のヴェルのプログラムよりも何百倍という数へと分裂し、一息に彼女を飲み込んだ。
「く……ぅにゅぐぅっ!?」
『ゔぇ、ヴェルさーー』
通信の声が途切れ、そこには黒いキューブのみが存在していた。
ギシ……と、ヴェルが抵抗する事を無駄だと言わんばかりに頑丈な触手の軋む音が暗黒の仮想空間に響く。
四方八方から彼女の電脳体の至る箇所の柔肌に張り付き、巻きつき、拘束する影の触手。
ヴェルは不快感を露わにするように身を捩るが、微動だにしない。
「んんっ、はぁ……ダメかぁ、霊子密度も足りない……となると」
ずるりと闇で構成された世界の一部が盛り上がり、円錐形の体と、そこから伸びる赤く輝く三つの目、そして鋏を持った触腕というシルエットを取る。
「霊子改造で『成った』霊的上位存在か、まさかそんなのが……こんな田舎の共鳴装置に何の用なのさ」
『勇敢なハッカーよ、其方の体は都合が良い。我々の活動のため、その管理者権限を持つ身体、預からせてもらおうか……』
恐ろしいテレパシーが目の前の円錐形生物から放たれると、周囲の壁からより多くの細く黒い触手がヴェルに目がけて伸びてくる。
それはヴェルに触れると、その肌を徐々に黒く染めて侵食し……
「ちょっ、ひひゃはっ! くすぐったいってば! なにキミロリコン!?
こんなベタな精神侵食なんかやって!」
『この行為は『侵食』ではない、『交換』だ』
「余計悪いよ、なにそのセンスのかけらもないアバターかっこいいって思ってるわけ?」
『……』
逆鱗に触れたのか余計に大量の黒い触手がヴェルの全身に触れていく。
ビキビキと影の侵食が進み、その度にヴェルの小さな体が跳ねる。
「ちょっ! やめっ、やめろぉー! ちょひゃひゃひゃ!!」
びくん!びくん! と、現実世界のヴェルの身体が弓形に跳ねる。
「……っ! ……っふ、うっ!」
「まずいまずいまずいすまずいす! ヴェルさんの自我境界面がとんでもねぇことに!
電脳死する前に応急処置だけでもしねぇと!」
ホロコンソールの一つにはヴェルの電脳体のコンディションが表示されており、その身体が黒い影に侵食されていっていることが見て取れる。
その度に目を瞑ったまま上気し、玉の汗を浮かべていたヴェルの表情は曇り、正気を失っていく。
しかし慌ててヴェルに追加する攻性防壁キットを棚を漁って探しているダギバの後ろで、ノイズ混じりの声が聞こえてくる。
『そ……で、けっきょ……くて……きは』
「……!」
テレパシーネットワーク内の闇のキューブの中でぬちゃり、ぬちゃりと、黒い触手に弄ばれながら、先のような抵抗する力も無くしたのか空な瞳をしたヴェルは口を開く。
「それで……けっ……きょく、目的は何な……わけ?」
『素晴らしい、もはや五感すら無くしているであろう状態でよくそんな知識欲を見せれるものだ
その欲求は我々の時代でも十分通じうる才能だろう』
「われわれの……じ、だい?」
黒い円錐形生物は触腕を広げ、その背後にいくつもの三眼が赤く輝きヴェル達を照らす。
『我々はイースの偉大なる種族『影の同盟』、時の果てより螺旋するこの宇宙の時を解明せしめんとする賢者の一団
我々はこの時代最大の闇を解き明かすために来た……クトゥルフ・フレックス・トレードセンターという混沌の源泉を!』
それを聞いて数秒、ヴェルはは、は、は、と力無く笑う。
「なぁんだ……懸賞金目当ての、CFTCチャレンジじゃないか……」
CFTCチャレンジ……それはヴェルでも知っている、この宇宙で最も危険な行為の一つだ。
クトゥルフ・フレックス通貨は、只の電子マネーではない。
ルルイエに眠るクトゥルフの夢を電子的に再現した流動的な共通通貨概念だ。
それは電子、テレパシー、魔術、あらゆる媒体に対応可能ではあるが、あらゆる媒体からアクセス可能と言うことは、逆にそこから電子的、霊的ハッキングをされる危険が常に付き纏うということ。
だがクトゥルフ・フレックス・トレードセンターは宇宙の窮極なる中心に存在する神々の王の居城に存在しており、それは即ち宇宙そのものの運営に携わる埒外の神々の守護を受けているということだ。
曰く、10の魔法を束ねた調和の王オージン。
曰く、宇宙の運命の特異点這いよる混沌。
曰く、宇宙絶対の秩序を司るノーデンス
曰く、宇宙そのものを夢に描く源夢の神
そんな奴らの守護を得た通貨へのハッキング行為は単なる犯罪行為への刑罰で収まるものではない。
よくて即時消滅、良いところまで行って発狂し笑い続ける肉塊に変えられるだろう。
最悪なのが、そのCFTCへのハッキング行為に対して……宇宙に名だたる大資産家であるアヤノ=メイが多額の懸賞金を出しているということ。
だが彼女を一度でも目視したものは誰でも知っている、彼女は見た目通りの地球人の女性などではなくーー神々のトリックスターである這いよる混沌が、この宇宙に干渉する際の仮の名の一つだということを。
『金ではない、我々は開かれた扉の向こうを見たいのだ……神々が夢を描く目的、その向こう
基底現実に住まい物語を俯瞰する享楽の神々の次元へと、この繰り返す閉ざされた時空より、真に開かれた時空へと進むのだ……』
ずるり、とヴェルの体が持ち上げられて、脱力した電脳体が円錐形生物の眼前に持ってこられる。
『この冥王星で生きるモノたちの熱狂を地球と共に取り込み、お前も、我らが一部となればかの神殿の守りも突破しうる
さぁ受け入れよ、共に行こう……』
触手がヴェルの首と顎を締め、呼吸を求めるように口が開く。
ぬちゅ……と円錐形生物から延びた一際太い触手が、ヴェルの力無く開いた口へと延びていき……
「……や〜なこった!」
んべ、と、ヴェルは舌を出して、理性に輝く瞳で円錐形生物を睨みあげた。
バン! とオレンジ色の光が長方形の扉が開くかのように突然ヴェルの後ろに輝き、ヴェルは触手を引きちぎりながらその光の向こうへと吸い込まれていく。
『何……っ!?』
縮尺が変わり、円錐形生物を構成する影の粘液がキューブから溢れその外側の仮想世界を見渡すと……そこは、ユゴス・リングの舞台を電子的に模した仮想のリングだった。
円錐形生物が振り向くと、その後ろにはオレンジに輝く情報塊をボクシンググローブのようにはめてタンタンとフットワークを確認するヴェルの姿があった
「っさーぁやって参りました追加試合のお時間です!
赤コーナァー、皆さんお馴染み実況解説のヴェル=クンちゃん♡
妄想では何回かやったことあるけど今回が初試合ですよろしくぅ」
『なんっ……何!?』
円錐形生物は再び黒い触手を展開してヴェルに突き刺そうとするが、咄嗟にガード体制を取ったヴェルの光るグローブにあたった触手は突風に吹かれた灰燼のように吹き飛んだ。
『貴様、何だそれは!!』
「青こぉなぁー、歩く猥褻物ぅ……えーっと名前何?イースだっけ?
ゴングを待たずにジャブするのはギリ許すとしてもぉ……
まずはその粗末なモノ仕舞いなぁ……全宇宙放送(妄想)だ、ぞっ!!」
勢いをつけてヴェルは光るグローブで防御のために束にされた黒い触手を殴る、するとまた突風に吹かれたように触手が霧散する。
するとギュルギュルとビデオテープが絡まるような音を立てて円錐形生物の全身にノイズが走る。
『まさか、魂魄の共振波をグローブの形に……がぁっ!?』
「んな器用な真似出来るかい! ちょ〜っとさっきの試合で観測された『熱狂』と一緒に暴れ回って、そっちに注入してやってるだけさ!」
ドン!ドン!ドバン!と、重い音を立ててグローブが円錐形生物の体に突き刺さる。
『がっは……ぁ!?』
真っ黒の影に過ぎなかった円錐形生物の顔がギュルギュルと音を立てて苦悶の表情を浮かべる。
その全身から触手を伸ばしヴェルを再び包囲しようとする……だが。
バン! バンバンバババンババババババババババババババババババババン!!!!
先と同じ音が乱れ打ちされ、触手全てが突如中空に開いたオレンジ色の『扉』に吸い込まれる。
先の脱出にも用いられたそれは、ヴェル自身がテレパシー共鳴装置とユゴス・リングの管理システムの効率化のために勝手に増設を繰り返したバックドアシステムだ。
「私の技術はなぁ、支配でもなければ理解でもない!」
ヴェルがグローブを外すと、全てのドアが円錐形生物に急速に近づく。
「まして自分だけしか見れないもん見るなんてゴメンだねぇ!」
露わにした手で指を鳴らすと、ドアが一斉に閉じて円錐形生物の触手を全て仮想空間ごと断ち切る。
そしてグローブをした左腕を振りかぶって……!
「みんなと分かち合う、気持ちを伝えるお仕事だぁ!」
光り輝くグローブで、渾身のストレートを叩きつけた!
『ぐべぇあっ!?……なんだこれはぁ……情熱、墳叫、いや違う……これは、これはぁぁ!!』
荒れ狂うボクシング観客たちの熱狂が体内から荒れ狂い、万色の光となって、ひび割れた内部から溢れだし暴発する。
円錐形生物は、絶叫を上げながら光の中に四散した……。
「うぉーーーーっ!!やりましたぁワンラウンドKO勝ちぃ!
天才天才天才ぃ!!」
興奮してその場で暴れ回り、仮想空間の録音の完成の中でパフォーマンスを行うヴェルの横にダギバのモニターが映る。
『何バカなことやってるすか、とっとと浮上してくださいす』
ヴェルは現実世界に戻ってくると、額の汗がヒヤリとする感覚に顔を顰める。
そして直後、先に激しい痙攣を繰り返した全身に走る痛みに涙を浮かべた。
「くっはっ……背中痛ぇ〜っ、私どんだけもがいちゃってたの……?」
そんなヴェルにタオルとバイオスーツ整備用痛み止めの貼布シートを差し出すダギバは、何も言わずに目を逸らしている。
ヴェルの目はまた獲物を見つけたねこのようにイタズラっぽく輝く。
「オカズにするなら帰ってからにしてね? あだぁっ!」
度を過ぎた発言に、ついにダギバの鋏がそれなりの重さを伴ってヴェルの頭に振り下ろされる。
ゴチっ! と痛々しい音が管理室に響き、ダギバは説教を始めた。
「システム内に何個もバックドア勝手に仕込んでたのはまだ良いっすけど今回助かったんだし! あんた無茶しすぎすよ、シャッガイにだってあんな目にわざわざ自分から遭いにいくやついないっす!
だいたいあんたはその格好で調子に乗って誰彼構わず変なこと言い過ぎなんすもう!もう!」
ダギバの説教を聞きながら、ヴェルは先の試合中の自らの実況について振り返る……
『さっきの実況はちょーっと自分向けが過ぎたなぁ、次があったらもうちょっと周り向けの実況にしないとね』
そんなことを考えながら、管理室の冷蔵庫から蜂蜜酒を取り出しているヴェル。
「安物だけどスットゥングの蜂蜜酒サワー、ダギバ君も呑む?」
「ジブンまだ未成年す……もうっ!」
また頭に鋏を喰らうことになるヴェル=クンなのであった。